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2010年 02月 08日
![]() 写真の左の方で平積みになっているのは、ここ10日間ほどに入手した CD。先に綴った通り、パッケージメディアの「平面音響」が苦手になってしまったのは事実だけれど、別にこうした録音を全面否定したわけではない。実際最近は CD を聴く余裕が少しもてるようになってきたので、これらを少しずつ聴いて耳のリハビリ中なのだ。ディスク紹介などは気が向いたらしてみたい。 他の東京土産話なども改めて、、、。 2010年 02月 08日
![]() 訪れた店は、渋谷のアユンテラス(昔から通っているインドネシア料理店、スパイシーな鶏が美味だった)、行きつけの寿司店S(副店長曰く「しばらく来なかったけれど、どこで浮気していたんですか?」との嬉しい迎えの一言)、渋谷の国境の南(マスターには新年の挨拶)、祖師ケ谷大蔵の某マレーシア料理店(プチ新年会を開催)、そして今回のハイライトに考えていたブルガズアダ。 ブルガズアダは、世界に3つしかないという本格的なオスマントルコ宮廷料理店で、昨年見つけてから伺う機会を待っていたところ。トルコ人のシェフとその奥様(日本人)が経営されていて、長野県飯田市で10年営業した後、一昨年の8月に麻布十番に移ってきたそうだ。まあ、ほどほど落ち着いた店でほどほど美味しい料理をいただいて、ちょっとばかり贅沢な気分を楽しめたら嬉しい、といったくらいに考えて出かけていった。しかし、びっくりするくらい面白い味で、またそれがびっくりするくらい美味しかったものだから、結果は期待以上。 <ヴェズィルの舌鼓>と<スルタンの宴>のどちらのコースをオーダーするか迷ったのだが、どちらも全体的な量はあまり変わらないと言うし、説明を聞くと魚も肉もどちらもとても美味しそうだったので、品数の多い後者の方を選択。そしてこれが正解だった。 アミューズに続いて供された前菜。メニューには7〜9品と書かれていたが、数えてみると12品で得した気分に。仕込みに一体どれだけの時間がかかっているのかと思わせられるような丁寧な仕事ぶりに感心。タコもイチジクも野菜の類いも、当然ながら初体験の調理方法だった。 スープ(豆2品+アスパラと、ブイヤベース風の2つをオーダーして2人でシェア。魚介スープも美味かったが、豆の方はそれ以上だったなぁ)の次はサラダ2品。牛のフェタチーズはとっても好みの濃い味で癖になりそう(個性の強い味だったので、トマトと合わせるより、もっと良い方法がありそうにも感じた)。 魚料理。15〜19世紀の料理法だそう。魚のパリパリとした食感も、焼いたレモンも、添えられたルッコラも絶妙。 肉料理は、特にお薦めだという乳飲み仔羊のグリルをチョイス。スパイス使いが最高。リンゴのソースで煮たレッドキャベツだとか、付け合わせはどれも前菜以上に不思議で面白い味の連続。 デザートも4品。オリーブを込めたものやら、乳の湯葉風の食材をトッピングしものやら。最後まで楽しい食事だった。チャイを飲み終えて手洗いから戻ると、チャイのおかわりが注がれていた。隅々まで心配りが行き届いている。柔らかい味だったり、強い味だったり、その味付け/スパイス使いも多彩で、飽きさせないコースだった。ワインはもちろん全てトルコ産で、丁寧にアドヴァイスをして下さる(グラスで1000〜2000円ほど)。料理は文句なしだし、シェフご夫妻でのお見送りに至まで終止まるで料亭のようなおもてなしで、客本意で真剣に商売している姿勢が実に気持ちよかった。そうそう繰り返し味わうような料理ではないかも知れないけれど、フレンチや和食のコースに1万円以上使うことを考える向きの人にとってならば、そうした中のひとつの選択肢に加えるだけの価値は十分にあると思う。 (ワイン1本の無料券をもらったので、次回は皆で行こう!) 2010年 02月 05日
![]() 今回のアルバム、ジャケットは諸々の近作に比べるとずいぶんマシなように感じられるものの、内容の方は正直期待薄。というのも、レゲエと聞いて、中途半端なジャズ・セッションなどばかりだった先の "Retour de Goree (Return to Goree)" を思い出したから。アメリカの黒人音楽の次はレゲエかぁ、という気分なのだ。彼のコンセプトはますます腑に落ちなくて、一体何をやりたいのかよく分からない。実際の評判がどうだったのか知らないが、"Retour de Goree (Return to Goree)" は、映画の日本公開前に一番安かったイギリス版 DVD を買って観てみたところ、かなり退屈だったので、結局映画館では観なかった(日本語版 DVD も観ていない)。 この予想が外れた快作であることを願いつつも、やっぱり 'Retour de Mbalax' して欲しいという気持ちの方が強い。 # 全然関係ないけれど、、、初場所中、朝青龍が優勝しそうな勢いなのを知って、「優勝した瞬間に引退宣言したら、カッコいいのでは」と周囲につぶやいていた。もちろん彼自身を追い込むような大トラブルを抱えようとは知る由もなかったのだが、変な形で予言?が当たってしまって、朝青龍は伝説となる絶好の機会を逃したと思う反面、あまり変なことは語るものではないな、とも考えてしまった。 このところの JAL にしてもトヨタにしても、ニュースを見ていて横綱相撲の難しさを感じる。どのような世界でも大物たるものは、物事順調なうちは圧倒的に利する立場にあるが、その形勢が逆転するのは一瞬。ひとつのことにつまずいた途端、自らの存在さえ危うくなりうる。実にその怖さを知らしめる事件が相次いでいる。 ワールド・ミュージック界の横綱たる Youssou にしても、ちょっとでも気を抜いた作品を発表しただけで、その途端に論評され方が厳しくなったり、売り上げががた落ちになったり、ファンが離れていったりする爆弾を抱え込んでいる。なので、どうしても保身の方向にいってしまうのかもしれない。…というのは、強引な話の絞め方かな? 2010年 02月 04日
先ほど仕事を終えて帰宅(もう午前4時かよぉ)。そして明日から今年4度目の週末旅行。その準備などもあるので、以下、簡単な雑記のみ。
・ Babel Med Music の出演アーティストに、昨日、ハイチのミュージシャンが追加された。BELO と WESLI の2組。その意味は恐らくは誰もが想像する通りなのだろう。ならば参加したいところだなぁ。 ・ 『大洪水』を読みながら、『調書』と『砂漠』を反芻。それで気がついたのは、ル・クレジオの変化しないいくつかの面。太陽/光を浴びて焼き尽くされるかのようなイメージ、都市を彷徨うかのように歩き回るイメージ。彼の心理の根底にはそうしたイメージがある。 ・ 私論/試論の(3)と(4)を「残りもの感」の異なるフェイズについて書いてみる。単なる批判と受け止められたり、誤解を受けたりしそうなところを、どうすれば避けられるのかが難しい。公開しない方が良いのかもしれない。 ・ エル・スールにオーダーした、ブラジルの Roberta Sa のライブ DVD が届く。ちょっと単調な印象を受けたが、まだ冒頭を観ただけなのでレビューは控える。彼女は大好きなシンガー、映像を観て彼女の眼の魅力に初めて気がつき、そして釘づけになってしまう。 ・ M さんからのメールを拝読。どうもありがとうございました。共通の知人(ユッスーの大親友)がすでに他界されていたことを知る。ユッスーのセネガル盤新作が昨年12月にリリース済みだったことも教えていただいた。 # by desertjazz | 2010-02-04 04:37
2010年 02月 01日
![]() - Youssou N'Dour & le Super Etoile / "Special Fin d'Annee 2009" - 1. Salagne Salagne 2. Tukki 3. Ndakarou 4. Lett Ma 5. Atou 6. Less 7. Sama Dome 8. Lima Wesu 基本的には代表曲のリアレンジ録音を中心とする、これまでにも多かったアルバム構成。ポップで楽しいアレンジとなった (6)、傑作カセット "Vol.12" にも収録されていた名曲 (7)、バラード・ヴァージョンの (8)、といったあたりの再演がファンには喜ばれることだろう。詳しいレビューは後日にでも。 対してインターナショナル盤の新作 "Music From I Bring What I Love" (Nonsuch) は発売延期を繰り返しているせいで、セネガル盤の新作の方が先に届いてしまった。この "Music From I Bring What I Love" は彼の最新ドキュメンタリー映画のサントラ。アドバンス DVD が事前にもらえることになっていたのだが、あいにく送られてこず、既に TV で放映されたこと(好評だったらしい)もおきよしさんからメールでお知らせいただくまで全く知らなくて、未だに観ていない。なので、映画の方も早く市販して欲しい。 # J.M.G. ル・クレジオの『調書 Le Proces-verbal 』(新潮社)を読了。定評通りに、なんとも難解で実験的要素の多いデビュー作。どう解釈したら良いのか、文学に疎い自分には手に余る作品だった。次の『大洪水』を読み始めたものの、より難しそうな文体。『砂漠』や『黄金探索者』などとは相当に異なる。なので、他の本を先に読もうかとも思う。 # 最近、アフリカ盤が立て続けに到着。"Ethiopiques 24 : Golden Years of Modern Ethiopian Music 1969-1975" はややネタ切れ感(残りものっぽい印象)を受けたが、"Ethiopiques 25 : 1971>1975 Modern Roots" の方は粗野なサウンドが俄然魅力的。 # 昨夜走り書きを終えてから、改めて考え直して思ったこと。 ・多様な音楽を聴き続けることによって耳が肥えてくることが、ある面では「音に対する感性」の滋養と結びついていて、またそのことから生ずる苦しみにどう対処するかが「残りもの感」を払拭する解決策にもなりうるのではないだろうか。 ・こうした感性は、味覚、読書、美術鑑賞から旅する感覚にまでも通ずる。いずれに於いても、それらの多様性をいかに楽しむかが、次第に重要性を増してくる。 ・しかし、上に挙げた「苦しみ」は、音楽の場合には、いきなり最高のもの(何をもって最高とするかという問題もあるのだが)に触れてしまい得るといった特殊性から生ずるものでもある。 …等々。それに、都市のアンビエント・ノイズをリラックスして聴き楽しんでいるのは、聞き疲れ(耳疲れ)から生じた音からの逃避などではなく、そこに認められる深い魅力に惹かれてのこと(だから「4'33"」とほとんど等質なのだ)である説明もすっぽり抜け落としてしまった。稿を改めて書いた方が良さそうだ。 2010年 02月 01日
![]() # 2010年も1ヶ月が過ぎた。このひと月長かったような短かったような。読書と料理と酒を飲むことに(?)忙しく、他のことまでにはあまり手を伸ばせず、結局やり残したことばかりだった。 昨日はスーパーで土鍋が安売りしているのを見つけ、これ幸いと購入(多分在庫処分が始まったのだろうけれど、まだまだ鍋の季節だからね)。長年使ってきた土鍋の底のヒビが大きくなってきたので(かなり乱暴に扱ってきたことを反省)、買い替えようと思っていたところだった。そして帰宅後、ファムスを作り、ブログを書いてアップ(昨日書いた「姫路」も短いながら全面的に書き改めたので、夕方以降で計5本)した後は、夕食の支度をして食べて、それから明日の食事の準備をしたらもう深夜。買ってきた土鍋のメンテ(熱を通しての目地埋め)を今ようやく終えたところだ。 昨日綴ったブログ5本は推敲も読み返すこともなく、走り書きしたもの。実際自分の考えていることの表現としては多少は不正確でも構わないと考えて書いたものだ。昨年、音に対する感性が絶対的に変化したことなどは、じっくり腰を据えて買いてみたかったのだが、いつまで経っても全然書き始められない一方で、昨年考えたことはある程度まで早く吐き出してしまいたいと願い続けていたので、全く逆の発想をして、その断片だけでも書き出してみることにした。このような方法で果たして本題まで辿り着けるのか分からないし、こうしたテーマで書き続けても読み手にとって幾分かでも興味を持ってもらえるものかどうかも自信がない(多分、読まない人が大半だろう)。まあ、相変わらずブログは個人メモだという気分を引きずっているので、全然構わないのだけれど。1月に書いたもので、まあアップしておいても構わないかなと思う数本を一緒に公開したのも、同じ理由からだ。 ただ、最近音の思索を続けているうちに、どんどん(個人的には)面白いことが思い浮かんでいて、こうした事柄は酒でも酌み交わしながら語り合った方が断然楽しいだろうし思考もはるかに活性化しするはずだろうとも思う。また、こうしたことをひとりで考えているだけだと、ある部分でどうしても自家撞着してしまうことは避けられないし。 いずれにしても、続きはまた気が向いたときに、ということにしておこう。 そんないつの間にか過ぎた1月なのだけれど、『日本文学史序説』全1100ページを15日間かけてじっくり読み終えたことは自分にとって大きな収穫となった。それだけでも十分有意義だったと思う。なんとか読み終えられたのには、昨年よりも一応は体調が良くなっていることが好影響しているのだと思う。それでもさすがに読書疲れがしてきたので、今は読書の方はペースダウンさせているところである。 読書の話で思い出したが、『ロビンソン・クルーソー』の次は、ル・クレジオを最初の作品から順に読んでいこうと考え、彼のデビュー作『調書』を読み始めて、、、驚いてしまった。冒頭のページ、その『ロビンソン・クルーソー』からの一節の引用されている。こんなシンクロニシティーが読書でも相次いでいる。その都度違った本を選んでいるつもりでも、人間の趣味や趣向なんて円環的なもので、結局どこかで繋がっているなだと思わせられた一事だった。 さて、そんな読んで食べて飲んでと快楽三昧の毎日なのだけれど、ようやく音楽の方もボチボチ聴き始めている。何を買って何を聴いているかなどについていちいち綴ることは野暮だと思う(し、なるべく人と違ったことをしたい。だから、昨年の「ベスト10」は止めてしまったのかな?? これは余談でした)ので、これも気が向いた時や、よっぽどのお気に入りを見つけたときに止めておいてもいいのかと思う。 それでも、最近の入手盤の中から一番の変則作品(?)について少しだけメモしておこう。20年近く昔に自分が初めてアフリカに行ったときの記録(と言っても自分の姿が映っているわけではないのだが)が、DVDとして宮崎駿のスタジオジブリから市販されていることに、ずいぶん以前に気がついた。なので、手に入るうちに買っておこうと思い続けているうちに、すっかり忘れてしまっていたものを、最近一緒にネットでオーダーした。考えてみると、自分が初めてアフリカの大地を踏んだときの記録がしっかり残されているというのは、自分にとってとても幸せなことだと思う。この旅は、自由になる時間を利用して親指ピアノの探索を行ったことでも思い深いものだった。今度機会を作って皆で観ることができたら嬉しいとも思う。 このDVDを観直して、やっぱりもう一度アフリカに行きたくなった。アフリカ再訪問は今年の目標のひとつかな。そのような思いもあって、購読中止を考えた『DO DO WORLD』も購読延長した(いや「購読」ではなくて、ずっと無料で読ませていただいているのだった、、、)。 思えばこの20年ほどは、アフリカとインドネシアとフランスという3カ所を日本を起点にして飛び回ってきた期間だった。その間、いろいろ無理を積み重ね、ストレスを溜め込んできてしまったのだろうと思う。紛争中あるいは紛争やテロの直前か直後に訪れた国だけでも、イスラエル、エチオピア、ザイール、ナイジェリアなどなど。そろそろ、ゆったり過ごすことを考える時期なのだろう。 一昨日、姫路の好古園で佇みながら考えていたのはそんなことだった。立体的なさりげない音にのんびり耳傾けるひとときを、今年はもっともっと持ちたいと考えている。 2010年 01月 31日
昨年「12月31日」の続き、「残りもの感」について。
ここ数年の間、自分の頭の中で鳴り続けていたのは「残りもの」という言葉だった。3年あるいは4年ほど前のことになるのだろうか、いくら新作を試聴しても、本当に良い、面白いと思う音楽とほとんど出会えなくなってしまい、もう「残りもの」ばかりなのではないだろうかと思い始めたのは。世界中で新しくて意味のある音楽が生まれてくる/見つかる余地がほとんどなくなっているのに、自分は未だにそれを追い求めている気がしたのだった。 (きちんとした説明抜きに「残りもの」という言葉を使うのは、今の音楽をとことん面白いと思っている人にとっては気分の悪いことだろうし、他人への批判と誤解される危険性があっても困るので、これまで決して使わないできた。しかし、近年の自分の思考を整理する上で避けられない要素でもあると思うようになり、また昨年末若干だけ触れた以上はそろそろ少しでも説明を始めた方がいいのかも知れないとも思う。) はじめに断っておくと、この「残りもの感」は新しい録音に対してもリイシューに対しても感じている。そのことを確認した上で、改めていろいろな音楽を聴き、じっくり考えてみた。その結果、やはり絶対的に新しい音楽がもう生まれてこない、ある意味でのポストモダン的状況を認めざるを得ないような気がするし、また重箱の隅を突くようなリイシューが増え続けているようにも思う。その一方で、やはり自分は少し考えすぎているのかな、といった反省もした。 結局辿りついた結論めいたことを書いてみると、この「残りもの感」は、いくつかの主観的要因と客観的要因とが重層的に作用していて、簡単には説明し尽くせないものだということだ(結局、結論になっていない)。それでも最後まで残っている主観的な要因の2つについて書いて、取りあえずは書き始めてみたい。 ひとつめ、快楽主義との関係。 どうやらワールドミュージックを聴き始めたときに抱いた心配が現実化したようだということ。どういうことかと言うと、ワールドミュージックを聴き始めたのは、そこに大きな発見や感動があったからこそなのだが、裏を返すと、それまで聴いてきたロックやジャズにそこまでの感動がもう得られなくなってしまったからだとも言える。自分は「快楽主義」者なので、どのジャンルであろうとなるべく最高の音楽を聴いて最大の快楽を得たいと思う。なので、ロックでもジャズでも名盤のうちで自分の趣味趣向に合った作品を一通り聴いてしまうと、大きな感動との出会いはどんどん少なくなってしまう。そうした段階に達した時点でワールドミュージックという鉱脈を知ってしまったならば、そちらに関心が移ってしまうのはある意味で必然なことだった。しかし、その時に考えたのはワールドミュージックも聴き尽くしてしまうと、次は何があるのだろうという危惧だった。 もちろん、どこかで良い音楽が生まれ続けていることは間違いないし、意義深いリイシューも生み出され続けていることだろう。しかし、そうしたものを見つけるには、出会った音楽や聴いた音楽が増えるほど、そのためにはより多くの時間と財力とエネルギーとが求められる。けれども、自分はそのいずれをも持ち合わせない。 (例えば、時間について。音楽ファンには様々なタイプがあって、とにかくたくさんの音楽を聴き尽くしたいというタイプもそのひとつだろう。自分もそれに近いと思っていたのだが、よくよく振り返ってみると、熱心な音楽ファンや音楽評論家などと比較すると、聴いている量が圧倒的に少ないことに今さら気がついた。と言うのは、毎年その半分程度、旅/出張していて、その間ほとんどCDなどを聴かない、といった生活を続けていたことや、移動中に音楽を聴くこともしないことを思い出したから。財力やエネルギーについても、音楽以外の関心事が多すぎて、無理。) あまりこうした表現はしたくないのだが、多分、音楽を見つける効率のようなものが下がり続けてきたことが不満に繋がっていたのだと思う。 (その解決策のひとつは、自分を導いてくれる書き手を見つけることだと思う。実際昔は「この人がこう書くのだから、自分の趣味を合う(合わない)のだろう」といった判断のできる書き手がそこそこいた。しかし、今はそうした方がまず思い浮かばない。ネット時代になって情報が飽和する中、書き手ひとりひとりの趣味性や事情の方が先行して見えすぎているのかな、とも思うのだが、これはまた別のテーマだろう。) なにごと快楽を追求し出すと、より強い快楽を求めるのは必然。自分の場合は、音楽という「合法ドラッグ」に麻痺してしまい、より強い刺激を求めてしまった、、、とも言えるのかも知れない。 (つまりは、Salif Keita の"Soro" や Khaled の "Kuche" や Malavoi の "Jou Ouve" や Nusrad Fateh Ali Khan を初めて聴いたときのような衝撃的な刺激を、、、。) ふたつめ、セレンディピティのこと。 ある理由から(これも昨年書く予定だったのだが、それを綴る時間も全くなかった)、自分のウェブサイトとブログを振り返り、そして自分の音楽ライフを振り返ってみたときに思ったのは、「とても楽しかった」ということだ。そう思えた恐らくは最大の理由は、自分自身で面白い音楽やレコード、貴重な音源などを次々に見つけ出せたことなのだと思う。 特に嬉しかったことのうちのいくつかを並べてみよう(最近の読者のためという訳でもないが)。 ・ Fela Kuti のファースト・アルバム "Fela Kuti & the Koola Lobitos" の「発見」。 10数年前に、それまで存在すら全く知られていなかったフェラのファーストを、アメリカで見つけた文献上で「再発見」し、それが最終的にリイシューにまで繋がった。文献著者(レコード所有者)との音源提供に関する実際の交渉は遠藤斗志也さんにお願いしたのだが、聴いた範囲ではこの録音のリイシューはどれも、この時のレコードの音が使われている。そうした意味では、多くの方々に喜んでいただけた「世界的発見」だったと思っている。 ・ Hugh Tracey のリイシューを日本に紹介 オランダで始まった Hugh Tracey 音源のリイシューをいち早く日本に紹介。後日国内盤の発売に至った。 ・ Analog Africa の紹介 以前からやりとりをしていた Sammy の興したレーベル Analog Africa をスタートする瞬間に日本に紹介。 ・ ナイジェリアでカラバリ・ミュージックに遭遇 これは Konono no.1 以上の衝撃だった。 ・ Fassiphone、Reggada、Jalal、Sutaifi を紹介 これらはフランス旅行中に偶然発見。自分が聴く以前にも Fassiphone や Jalal のCDは若干数日本に入っていたが、これらが一気に面白くなった瞬間をとらえて日本に紹介することができた。Fassiphone から出た El Anka のリイシューも日本で最初に聴き愛聴していたのではないかと思う。 こうして振り返ってみると、どこからか面白い音楽を見つけてくる嗅覚のようなもの、そしてそうしたものに遭遇したときの瞬発力のようなものが、幸いにも自分には備わっていたのだと思う。 先に括弧書きした通り、私は熱心な聴き手(コレクターやライターなど)に比べると音楽を聴く量(時間)は圧倒的に少ない。コレクター諸氏のように時間を費やして資料やネット情報に丹念に当たるといったこともまずしない。それでもこうした発見する喜びを楽しみ続けることができたのは、音楽に対するある種のセレンディピティを獲得していたからなのだと思う。 ただ、このセレンディピティが大きく働くことが、年々乏しくなってきたのではないだろうか。情報発信する限りは、他のメディアやブログなどでも取り上げるものについて語るだけでは物足りない。人と同じことをやるばかりでは、それは時間の浪費なだけだろうと思うのだ。 自分のサイトやブログは、他では紹介されていない良い音楽について語ることこそがその役割であり、また読んで下さる方々が一番期待されることでもあるだろうと思う。しかし、どうにもセレンディピティが発揮できない。自分のセレンディピティが反応するような音楽が、もうそれほど残されていないのではないだろうか。現実には良い音楽がまだある程度生まれ続けているのかも知れないが、そのような危惧が、自分の中で「残りもの感」を生むひとつの原因ともなっているような気がする。(※ 修正 2/2) (年々ブログをアップしなくなってきたのも、ひとつにはここで書いた理由が作用している。また、Reggada や Jalal の音楽も、一面では「残りもの」の中で、ギリギリ快楽を呼び覚ますドラック性の高いものを紹介しただけだった、つまりは所詮は「残りもの」だったのかな、というちょっとした反省もある。) (ついでに Fassiphone に関する余談を書くと、El Anka は自分は楽しんだが、紹介するまでの音楽ではないように思い、ブログではかすかにしか取り上げなかったはずだ。それが、日本盤が出て話題になったのを目にして、最初に抱いたのも「残りもの」が話題になっているという感覚だった。) 長々書いたが、この「残りもの感」を消し去るような素晴らしい作品に出会うことを、強く望んでいるし、そうしたものをまた紹介できる機会があれば、それは読み手の方々の期待に応えるものになるはずだとも思う。実は、自分自身が、そうしたことを一番に期待している。 (続く) # ※ これも、私論であり、その試論でもあり、また上手くも書けていない(ほとんど殴り書きレベル)ので、時々書き加えたり書き改めたりすることになると思います。悪しからず、、、。 2010年 01月 31日
「1月19日」の続き、「音に対する感性の絶対的変化」について。
昨年は音楽をあまり聴かない1年だったのだが、それとは反対に音楽や音のことについて絶えず考え続ける年にもなった。音楽を聴かなくなったのには、年初から猛烈に忙しい時期が続いて、音楽を聴いてもくつろげなかったことがまずある。しかし、いろいろ思索していくと、それ以外の理由にも次々にたどり着いていって、そのことについて考え始めると止まらなくなるほどだった。またそれと同時に自分の音に対する感性がどんどん変化していくこと、そのことをとても楽しんもでいた。もしかしたら、昨年はそのことが一番面白い体験だったのかも知れない。 音楽、というよりも、レコードやCDを聴く時間が圧倒的に減ったのには、やはり自分の中で「レコード絶対主義」が長年の間に崩れ去ったことが大きいのだろうと思う。もちろん総合芸術としての録音作品には、とって代わりうるものがないだけの価値があることは言うまでもない。昔からライブを聴くくらいなら完成された録音作品を聴く方が有意義だと信じ続けてきたし、今でも録音作品にしか生み出せない音世界の数々を愛して止まない。 しかし、それと同時に、レコードやテレビや映画などの「平面音響」が苦手になってしまった自分も発見することになった。 (ここにたどり着くには、海外の音楽フェスなどに通うようになったこと、自身の関心が音楽の「ローカル性」や「コミュニティー性」「パーソナル性」などに向かい出したこと、さらには様々な音体験をしたことなどがあり、それらが複雑に絡み合っているのだと思う。これらのことについて「書く」と言いながら、全然まとめられていないのだけれど、取りあえず今回も飛ばして先に進むことにする。) とにかく、2本のスピーカーから出てくる平面的な音に耐えられなくなってしまったのだった。そして気がつくと、散歩したりベランダでまどろんでいる時に、いつの間にか周囲のなんでもない音に身を預けていることを心地よく感じている自分に気がついた。これは別に、鳥がさえずり梢がささやくような自然豊かな音には限らない。ちょっとした生活音でも、遠くの高速道路から響いてくるかすかな音でも一緒。3次元空間に伸びる音の複雑さに耳を傾けることが楽しくて、また心地よくてしかたなくなってしまった。 決して自分を美化して語るような気はないのだが、たとえて言うならば、昆布でとった極うっすらとしたダシの味を舌が味わえるように、空間のかすかな響きを味わえるような耳になっていったのかも知れない。別のたとえ方をするならば、生活の中で「4'33"」を楽しんでいたのだと思う。 もうこうなってしまうと、もうオーディオシステムで聴く平面的な音には耐えられなくなった。ただただ単純な音にしか聴こえない。たまにCDを聴いてみても、「やっぱり違う」とつぶやいて、ベランダに逃げ出し、都市の立体的なノイズを浴び始めるのだった。 (ここまで書くと、「サラウンドならいいじゃない」といった意見もあるかもしれない。しかし、その考えは間違い。サラウンドのスピーカーはある程度の距離内に置かれるため、ステレオ以上に平面的だとさえ言っていい。まるで檻に閉じ込められているような感覚になることは、多くの方にとって共通した感想だろう。対して実際の空間の音は近似的に無限遠点からの音の集積といった成分も多く含まれるから、その広がりかたや空間的な複雑さはオーディオシステムからの人工的な音とは決定的に異なる。それが、日頃周囲には漏らしている自分の「サラウンド嫌い」の理由でもあり、また「閉じ込め感」を上手く利用することにこそ録音芸術の可能性があるのだとも考える。) 自分が頻繁に森や砂漠に入っていって、自然の音を浴びてくるのには、潜在的に立体的で複雑な音を求めることが大きな理由だったのかも知れないし、逆にこうした体験の積み重ねが自分の耳を作ってきたのだとも思う。そして、こうした音を聞くという行動をするのは、単に気持ちよいからだけなのではなく、さらにはもっと別の理由もあるのではないかと、最近ライアル・ワトソンを読んで思い至った。そのことについては別の機会に改めて。 (続く) # ※ 私論であり、その試論でもあり、また上手くも書けていないので、時々書き加えたり書き改めたりすることになると思います。 # (iPhone 話の流れならば、iPad 発表を受けて電子書籍への期待感を綴りたいところなのだが、ちょっと面倒くさい。) 2010年 01月 31日
![]() (昨年はまともに新作のチェックをしなかったので、買い漏らしていた作品がどれだけあるのか確認してもみたかったのだけれど、案外気になるものはなかった。相変わらず面白い作品が少ない、というよりも、情報収集をしていなかった分だけ自分が浦島状態にあるのかも知れないが、、、。それより驚いたのは、1000円コーナーの広さ。こんなにデフレが進んでいるの?) 昨晩以降、これら4作を繰り返し聴いてみた。以下、簡単な印象メモ。 ・ 松田美緒 "FLOR CRIOLLA" もらって聴いたファーストがとても良かったので、中南米の有名曲を中心に歌った今作も聴いてみることにした。これが期待以上の素晴らしさ。全くぶれることのない彼女の歌は、単に抜群に上手いだけではない。'Mama ...' という最初の歌い出しから完全に彼女の優しく透明感のある声の紡ぎ出す世界に引き込まれてしまった。ほとんどピアノとパーカッションだけという演奏との一体感も素晴らしい。また、音の良さにも感銘を受けた。生々しいというのではなく、一音一音が実に美しいのだ。ピアノなどはまるで自分の目の前で演奏されているかのよう。CD を聴いて心震えるような気持ちになったのは久しぶりのことだ。彼女の歌は生でも聴いてみたい。 ・ HINDI ZAHRA / "HANDMADE" ほとんどジャケ買い。そして、曲作り、歌、演奏、アートワークまで、ほぼ自分ひとりでこなしているという「パーソナル性」に期待。冒頭の 'Beautiful Tnago' は確かに魅力的なトラック。だが、全編英語詩というのは、パーソナルな音楽というよりも戦略優先のような気もする。よく見ると Bluenote からのリリースだった(店頭のポップには「モンゴルのベルベル人」と書かれていたが、「モロッコのベルベル人」の間違いだろう)。 ・ DATO' SITI NURHALIZA / "LENTERA TIMUR" シティちゃんはどんどん顔が怖くなるので(?)、もう買わないことにしていた。しかし、店頭で立ち読みしたMM1月号の年間ベストに選ばれてもいたので、試しに聴いてみる気になった。しかししかし、ブックレットの顔がますます怖くなっている(ちょっとマイケル化してきたような気もする)。超然とした姿に浮世離れした感じがして聴くのが怖くさえなったのだが、しかししかししかし音楽そのものは今でも美しいようだ。その歌声に、田中勝則さんに紹介していただいて直接会ったときの可憐な少女の姿を思い出す。 ・ "DAMIA : LA TRAGEDIENNE DE LA CHANSON FRANCAISE" ダミアは、昔(学生時代)から何を読んでも、あまり褒められた書かれ方をされていなかった記憶があって、きちんと聴く機会のないまま過ぎていた。しかし、これまでの印象が食わず嫌いからくるものだったのかも知れない、、、などと思いながら聴き始めている。 ♪ 松田美緒が、やっぱり、素晴らしい。 # 背景に敷いたのはヌサテンガラ(スンバワかな?)のイカット(しばらくぶり?の登場)。イカットの整理ももうそろそろ進めたい。 2010年 01月 31日
![]() 以前、イスラエルのエルサレムに半月ほど滞在したとき、レストランの食事がとても美味しいことでも知られているアラブエリアのホテルに泊まった。そこのレストランの味は定評通りで、朝食から美味しいフムスが何種類も出されるものだから、思わず毎日朝から食べ過ぎてしまった。その味が今でも記憶に残っている。 日本では本格的なアラブ料理を食べる機会がなかなかない。ならば、フムスだけでも自分で作ってみようと思い、作り方を調べて試してみた。以下、その料理のメモ。 1.ひよこ豆(ガルバンゾー)100g を4倍ほどの水に一晩つけておく(200g 用意したのだが、残り半分はサラダ用に保存)。 2.そのひよこ豆を 40 分間煮る。 3.ひよこ豆の薄皮を剥ぐ(これが時間のかかる作業だった)。 4.ひよこ豆と煮汁をフードプロセッサーにかける。緩さは加える煮汁と水の量で加減。 5.フードプロセッサーに、練りゴマ(タヒニ)、レモン汁、すりおろしたニンニク、塩、各適量を加えて、ペースト状にする。 6.皿に盛り、オリーブオイルとスパイス(クミン、コリアンダー、カイエンヌペッパー、バジル)をトッピング。 さて、早速試食してみると、思っていた以上に美味しく出来上がった。バゲットと一緒に食べ始めたら瞬く間にバケットがなくなってしまうし、野菜スティックにつけても相性抜群。こんなに簡単に作れるならば、もっと早くに試してみればよかった。 以下、補足。 ・ ひよこ豆は今回は成城石井で購入。東京ならば築地の山本商店(確か丸元淑生の本でも紹介されていた店)で安く買えるらしい。昔、渋谷のトルコレストラン、アンカラで大袋を買った記憶があるので、エスニック店などでも安く手に入れられるはず。 ・ タヒニは近所の店で手に入らなかったので国産品で代用。これでも全く問題はなかったが、練りゴマの種類によって味が変化しそうだ。 ・ 参照したレシピによって使うスパイスが様々だったので、今回は混ぜずに、選んだ4種類をトッピング。試食した印象としては、何を加えても相性が良さそうに感じられた。 2010年 01月 30日
2010.1.30 (Sat)
今年2回目の週末旅行は姫路へ(年末年始に群馬を訪れたので、正確には3回目になるのかな?)。 昔から一度は訪れてみたいと願って姫路城が、この春から数年間にわたる修復工事のために見られなくなる。ならば今のうちに見ておこうとその機会を窺っていた。幸い余裕のある今日の予報は好天だったので、早起きして一路姫路へ。絶好の観光日和に恵まれた。 ![]() ![]() 2010年 01月 29日
今年の3月の開催で6回目となる Babel Med Music のラインナップが今日発表になった(現時点で3日間で30組)。主立ったアーティストやアフリカ勢をいくつかピックアップしてみると次の通り。
・ PAPA WEMBA (Rép. Démocratique Congo) ・ LO COR DE LA PLANA (France / Occitanie) ・ EL HIJO DE LA CUMBIA (Argentine) ・ SEVDA (Azerbaïdjan) ・ INSINGIZI (Zimbabwe) ・ LES ESPOIRS DE CORONTHIE (Guinée) ・ AMAZIGH (Algérie - France) ・ HAOUSSA (Maroc) ・ VIEUX FARKA TOURE (Mali) 残念ながらアフリカ勢は全く魅力に欠け、個人的にはほとんど面白いと思ったことがないレユニオンのグループも多い。LO COR DE LA PLANA と AMAZIGH は観たいけれど、後者は今年の来日が決まっているので、無理する必要はなさそう。3月23日にパリの Olympia で Youssou N'Dour を観た後、翌24日にマルセイユに移動し、昨年に続いて Babel Med Music に参加するプランも持っていたのだが、しばらく再考することにしよう。恐らく3月の旅先は変更することになると思うが(かと言って、ニュージーランドまで行って WOMAD を観るというのも遠くて疲れそうだ)、音楽フェスは未知の音楽との出会いが大きな喜びとなるものなので、やっぱりまだマルセイユに心惹かれている。
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