カテゴリ:本 - Readings( 214 )

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 オリヴァー・サックス『音楽嗜好症(ミュージコフィリア)―脳神経科医と音楽に憑かれた人々』読了。オリヴァー・サックスは『火星の人類学者―脳神経科医と7人の奇妙な患者』『妻を帽子とまちがえた男』に続く3冊目。続けて『音楽嗜好症』も読みたかったが、単行本がやや高く、文庫版もすぐに出るだろうと待っていたら、やはりこの夏に出た。

 音楽に無関心だったのに突然音楽に夢中になる人、音楽を職業としていたのに突然音楽の存在に絶えられなくなる人、音楽を愛していたのに突然音楽を感じられなくなる人、さらには音楽によって自閉症が改善した人などなど、音楽と人間(脳)との深く不思議な関係を描いた全29章。


・ある音楽が脳内から離れなくなる体験は誰にでもあると思うが、それが病的症状になって生きていることさえ辛くなる症例があることは驚き。「脳の虫」とは巧みな表現。

・眼が見えないこと、耳が聞こえないことは大きな障害だが、耳が聞こえていても音楽を感じない(音の高低を判別できない、周囲の人が音楽を聞いて感動していることが理解できない、等々)という生き方も大きな悲劇だろう。

・人間にとっての音楽は単なるひとつの趣味・嗜好なのではなく、言語の誕生とほぼ同時に深い関係性を持ち続けてきた特別な存在であることがよく伝わってくる。そして、人間にとってのリズムの重要性も。人間はリズムに乗って動作する生き物である。

・記憶が失われていても、ある音楽がトリガーになって古い記憶が蘇ったり、話せない人が歌い出したり作曲したり、治療困難な症状を音楽の力によって軽減したり。

・過去の著名人や音楽者の多くがこの種の病を抱えていた可能性を指摘。また、『失われた時を求めて』を引き合いに出しての「プルースト現象」の指摘も興味深かった。

・音楽の感じ方は人ぞれぞれ。いわゆる健常者の聞こえ方/感じ方が正しいとも言えない。また健常者相互の間でも違いがあってもおかしくはない。

・サックスの過去の作品や、スティーヴン・ミズンの『歌うネアンデルタール―音楽と言語から見るヒトの進化』、 ダニエル・J・レヴィティン『音楽好きな脳―人はなぜ音楽に夢中になるのか』などでもそうなのだが、音楽はなぜ/どのようにして生まれたのか、音楽は脳の中でどのような働きをしているのか、音楽嗜好症のような病はなぜ起こるのかといったことについて、結局正確なことまでは分からない。そこにもどかしさを感じるのだが、人間の身体と脳はそれだけ複雑で不思議なものだということなのだろう。


 様々ことを思いながら面白く読んだが、一番強く感じたのは自分が「音楽を感じられる」脳と身体を持って生まれてこられた幸せだった。人間の脳は本当に不思議だと思う。






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by desertjazz | 2014-09-26 17:00 | 本 - Readings

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 ミシェル・レリスの『幻のアフリカ』を文庫版で読み直している間、自分が旅行記の類に求めるものは何だろうかと考えていた。好きな旅行記の条件はいくつもあるけれど、3つだけ挙げるならば、

 1.長いこと
 2.移動し続けること
 3.思索的/考察的であること

 これら3項目になるだろうか。

 『幻のアフリカ』は項目1と2に関しては十分で、3に関しては可とも不満とも言い得る。基本的に日記そのままであるため、余分な部分が多いのだ。沢木耕太郎の『深夜特急』も同様に項目3については及第点以下(この作品は面白くて一気に読んだが、実は旅行記としてはあまり好きではない)。

 自分にとっての理想的な旅行記として即座に頭に浮かぶのは、田中真知さんの『アフリカ旅物語』、ポール・セローの『ダーク・スター・サファリ』、それにアルフレッド・R・ウォーレスの『マレー諸島 オランウータンと極楽鳥の土地』だ。先の項目3を言い換えると、旅する目的が明確であること、旅に必然性があること。3作品ともただ長い距離を移動するだけでなく、旅の動機が確固としてある。絶えずそれと向き合ったことで見事な旅として結実している様が明確に伝わってくる。

 他にも大好きな旅行記は多々あるので、ベスト10冊を選んでみても面白いかも知れない。

(反対に嫌いなのは、単に移動過程を書いただけのものや、旅先でのトラブルばかり連ねた本。現地の人びとへの悪口を読んでも旅の動機や目的が全く分からない。駐在婦人たちによる狭い世界だけを綴った本も苦手。しかし年々そうしたものは減って、日本人の書く旅行記のレベルも向上していると思う。)



 旅行記は読むだけでも楽しい。それに加えて、旅行記をたくさん読み(外国についての本や海外の小説も)、実際に遠い異国を訪ね歩き、そしてそうした土地の音楽を聴くと、それらが相互作用して理解が深まる。自分が旅を繰り返すのは、好きな音楽をもっと肌で感じて理解したいと思っている面もあってのことだろう。



 そして、良い旅行記を読むと、旅への憧れが膨らむし、次の旅へのヒントにもなる。

 実は一昨年の秋、長めの休みが取れそうになったので、久し振りに移動型の旅をしようと考えた。真っ先に検討したのは2つのプラン。

1)南アからナミビアに入りナミブ砂漠でキャンプ → サン(ブッシュマン)の古代壁画のあるツォディロヒル(ボツワナ北西部) → マウン → オカバンゴ・デルタ → セントラル・カラハリ・ゲーム・リザーブ再訪

2)インドネシアのバリ島から東へヌサテンガラ諸島を行けるところまで進む(ロンボク、スンバ、スンバワ、ロテ、チモール、キサール、アルー、テナルテ、等々)


 想定した期間はおよそ1ヶ月。しかし急なことだったので準備が間に合わず、旅が成立しない不安の方が大きくて諦めてしまった。結局別のプランを拵えて、マルセイユ → ヴェニス → マルセイユ → モロッコ周遊(フェズ、メルズーガ、ワルザザード、マラケッシュ)と何とも不思議な3ヶ国の組合せに。それでも考えていた以上に充実した旅にできたが、予想通り中途半端ともいえるもので終わった。今から考えると、思い切ってナミビアに飛んでしまえばどうにかなっただろうと思う。実際これまでの旅は全部そんな調子だったのだから。

(この時は、ナミビア、ボツワナ、モロッコ、イタリア、インドネシアなどの膨大な量の資料と格闘してプランを練ったものだから、毎日気が狂いそうな思いをした。たまには一切の計画なしに飛行機に飛び乗ってみたい。)



 アフリカまで繰り返し出かけていくのには、『アフリカ旅物語』から少なからず影響を受けている。ヌサテンガラの旅はもう20年以上昔からアイディアを暖めているが、そうさせたのは『マレー諸島』を読んだからだ。

 ウォーレスのような旅がしたい。けれども、ウォーレスが旅した時代(19世紀中頃)と比べたら、世界中どこも環境や人びとの暮らしはすっかり変わってしまった。たとえ会社勤めを辞めて長旅に出られたとしても、例えばスタンレーやレリスが旅歩いたアフリカも、ウォーレスが探索したアマゾンやマレー諸島も、今はもうない。かつての牧歌的な雰囲気は世界中からほぼ失われ、それを求めに日本を旅立ってもノスタルジーさえ生まないのではないだろうか。

 数々の旅行記を夢中になって読んでいるのは、そうした旅のことごとくが、自分が抱える条件と照らし合わせても、時代変化の大きさを考慮しても、再現不可能だと分かっているから、過去の素晴らしい旅を頭の中で追体験したいという願いが強いからなのだと思う。

 そんなことを思いながら、最近また『マレー諸島』を少しずつ読み返している。



(ウォーレスの『マレー諸島』は、単行本の新装版がカラー印刷で美しい。けれども、文庫で持っている本を6000円以上出して買い直す気が起こらなかった。でも今回折角なので、その新装版で読み直そうかと思った。しかし調べてみたら既に品切れ。古本もことごとく1万円を超えている。やっぱりある時に買っておくんだった。)

(いや、そればかりか、文庫版まで品切れになっている。これは常に入手可能であって欲しい名著なのに!)






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by desertjazz | 2014-09-24 19:00 | 本 - Readings

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 竹沢尚一郎『西アフリカの王国を掘る:文化人類学から考古学へ』 (臨川書店、フィールドワーク選書 10) 読了。マリ共和国の北部の村やニジェール川沿いの町ガオにおける最近10数年間の発掘調査に基づく研究結果をコンパクトにまとめている。

 西アフリカの歴史は肝心な部分にも分かっていないこと、定説に怪しいものがまだまだあるという。従来から文化人類学者たちによってなされてきたイスラームなどの文献や口承伝承の研究を通じてだけではなく、直接遺跡を発掘調査するによって、新たな事実を探る竹沢氏の研究の面白さが伝わってくる。古ガオ遺跡のような大規模な遺跡が近年になって発見されたこと、そこから得られた新事実や推測が従来のアフリカ史を大きく書き換える可能性があることに、少なからず興奮させられた。

 むすびとして書かれた、世界史の中にアフリカを置き(西アフリカとの交易と奴隷貿易を通じたヨーロッパに発展を描き)、そこを起点とした歴史の再検証も興味深かった。もっと大部の資料でも読んでみたい内容だったし、今後の発掘調査も待たれる。




 この本の舞台となっている西アフリカのマリ共和国は、旅しようとしながらほとんど実現できなかった国のひとつ。1999年5月にダカールから Air Afrique で首都バマコに飛んで、そこにほんの数日滞在しただけ。有名なモスクのあるジェンネあたりにや砂漠のブルース・フェスが開催される北部の砂漠地帯には行ってみたいと思い続けたのだが…。国内線があまり頼りにならないマリの旅は時間がかかりすぎるので難しい。



 (徹夜仕事明けなので、今日は軽めに…。)





 (追記)今日 9/22 はマリの独立記念日らしい。ちょっとした偶然。





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by desertjazz | 2014-09-21 14:00 | 本 - Readings

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 チヌア・アチェベ『崩れゆく絆』読了。「アフリカ文学の父の最高傑作」と称される通り、とてつもない傑作だ。買って1日で一気に読んでしまった。



 昨年3月にナイジェリア(イボ系)の偉大な作家、チヌア・アチェベ Chinua Achebe が亡くなった。その時、アチェベは1冊も読んでいなかったかもと思って調べてみたら、邦訳は全て絶版/品切れで手に入る本はなかった。アフリカ英文学を専門とする知人にそのことを問うと、「翻訳権の問題から新たに日本語訳を出すのは難しい状況です。でも間もなく出る見込みです」とのことだった(その問題は、中小出版社が版権を持ってることから時々生ずるもの、と書けば分かりますね)。

 それを聞いて邦訳は取りあえず諦め、米 Anchorbooks 版を購入。まず "Things Fall Apart" から読み始めた。しかし、英語が苦手なものだからさっぱり進まず、何度も最初から読み返すことになってしまった。

 そんな折、この作品の新訳が昨年12月に光文社からすでに出版されていることに偶然気がついた(遅過ぎ!)。それで慌てて『崩れゆく絆』を取り寄せた次第。



・ナイジェリア東南部(イボ人)の伝統社会を見事に描写し、それが白人(英国人)の到来によって崩壊していく様を描いた小説。簡単に言ってしまえば、そういった話なのだが、それだけでは余りに表層的な読み方。

・まず第1部、伝統社会の描写が圧巻。様々な風習や文化や思想などが瑞々しく描かれている。注釈含めて200ページに満たないものの、それは極めて多岐に渡っており、とてもテンポ良い筆致で、ある種の掌話のオムニバスにもなっている。言語でイボ語だった部分などの注釈も役立った(訳者は悩んだらしいが、これだけでも邦訳の価値を高めている)。

・第1部のことわざや物語やエピソードの数々は、後半の展開と密接に結びつき、作品全体を通じて伝わってくる数多いテーマとも通じ合っている。全体と細部とが複雑に結びつく入れ子構造が見事だ。

・長い歴史の中で培われて来たアフリカ伝統社会の風習や約束事の利点や美しさに魅入られノスタルジックな気分にもなるが、そこに内在する矛盾点も詳らかにする。その一方で、白人の到来がアフリカの人びとにそういった矛盾点を気がつかせる点も含めて、白人が絶対悪とも言い切れない可能性について考えさせられる。それにしても、白人たちの狡猾さには虫酸以上のものを感じる。現実はそれを遥かに超えるものだったのだろう。亀の物語による比喩が見事。

 ・・・と雑感を書き始めると止まらない。とにかくアフリカの社会について、実に様々なことを考えさせる名作。36年振りの新訳出版を機に、アフリカに関心を持つ多くの人に読まれて欲しいと思う。




 "Arrow Of God" の邦訳『神の矢』も出ないかなぁ。原書はまだ1ページも読んでいない。

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by desertjazz | 2014-09-15 00:00 | 本 - Readings

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 池谷和信『人間にとってスイカとは何か カラハリ狩猟民と考える』(臨川書店)を読了。

 四半世紀以上にわたって、ボツワナ共和国のカラハリ砂漠に暮らすサン(ブッシュマン)をフィールド調査してきた研究者(現在 国立民族学博物館教授)による新著(今年6月に出ていたのを見逃していた)。一説ではスイカの原産地ともされるカラハリの人々の姿を、そのスイカとの共生関係を中心に活き活きと描いている。ここ数十年間のサンの生活の激変振りを知るには最上の本だろう(そうした環境変化はピグミー以上とさえいえる。自動車を買ってビジネスを始めたサンや、飛行機で世界中を飛び回って政治活動するサンすら登場したのだから)。

 池谷さんから直接あるいは私信を通じて既に知ったことがらが多いが、個人的には親指ピアノに関する部分が興味深かった。私がプライベートな録音を所有しているサンの演奏者たちに関しての記述もある。

「ウレーホさんやカリチュバさんは、エナーテと呼ばれる古いタイプの楽器を演奏していて、ドレミとは異なる音階にあわせている。彼らは、村から150キロメートル離れたラコプスにてカランガの人から習得したのだという。カランガは、ジンバブエの中心的な民族であるショナに近い人びとである。」(P.136)


 また、親指ピアノの土台となる木材を生きた木から切り出す写真は初めて見た。(P.137)こうした親指ピアノの紹介をもっと読んでみたかったが、今度の本はメインテーマがスイカなので無理だったことだろう。

 それより、親指ピアノを研究されている方々から大学での論文の類を時々頂戴しているけれど、どれもじっくり読めないでいる。まずはそれらを読む方が先か。そのうちまとめて読む時間を作れるといいのだが。


 ところで、この本で紹介されているモラポ村のサンらは、自分たちの親指ピアノを「デング」と呼んでいた(サンの親指ピアノは一般的には「ダンゴ Dango」と表記されることが多い)。デング・フィーヴァーが話題になっている今、自分が「デング・コレクター」であるとはなかなか言い出しにくい。






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by desertjazz | 2014-09-12 00:00 | 本 - Readings

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 J・M・クッツェーの自伝3部作『少年時代』『青年時代』『サマータイム』を読了(邦訳は「辺境からの三つの〈自伝〉」と副題をつけて1冊に)。

 『少年時代』では南アの土地や母へのノスタルジックな思い出が重なる。書き出しから心を捉えられる。『青年時代』では南アからイギリスに移っていつもの?ダメ男モードが膨らむ。その一方で事実とフィクションの境目が曖昧になっていく。そして『サマータイム』は、自伝をベースにして作り上げたひとつの小説へと大きくシフト。自身を小説の主人公にしてしまう辺りは最近読んだウエルベックも連想させるが、途中でクッツェーが故人であると明かす驚きも含めて先の2部とはモードがかなり異なる。その上で自身の思想や主義も織り込んでいるのだから、どこまでが自伝なのかどこからがフィクションなのか、ますます怪しくなる。しかし、そこがこの作品の構造の面白いところ。

 クッツェーは一作ごと異なるものを書こうという意欲が強い。『サマータイム』にもそれが端的に現れている。誰にも書けないような独特な作品を生み出し続けているのには、彼が南アで生まれ育ったという条件が影響していることも確かだろう。だが、読んでいて、一体どのように共感したらよいのか毎作分からない。それでも、一気に読み終えてしまうのは、太陽の熱で焦がされるような、心をナイフで抉られるような、あのヒリヒリする感覚に魅入られているせいなのかも知れない。

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 J・M・クッツェーを読んだのはこれが6冊目。アフリカの小説家なので日本では地味な存在なのかと思ったら、デビュー作からほぼ全て邦訳がある。初期の『ダスクランド』と『石の女』も読んでおこうかな?



 (うーん、J・M・クッツェーの小説はやっぱりよく分からないな。)






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by desertjazz | 2014-09-08 08:00 | 本 - Readings

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 相変らず長い小説やぶ厚い旅行記を中心に読んでいて、読書が進まない。読みたい本も溜まる一方。

 そんな中、昨日は渋谷の丸善ジュンク堂へ、今日は代官山蔦屋へ。こうした本を買い込んで、かつての旅を懐かしんだり、これからの旅ついて思いを巡らせたり。そのうちの1冊には自分が紹介されていてビックリ。マドリッドとヴェニチアで見たヒエロニムス・ボスは今度はオランダとベルギーで見たいと思っている。


(ナイジェリアのポップスについて書き始めると止まらなくなる。その前に今年のスキヤキのまとめもしておきたいのだが…。)






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by desertjazz | 2014-09-06 22:40 | 本 - Readings

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 8/18〜8/25の間、7泊8日で北海道〜富山を小旅行。北海道では札幌で開催中の SAPPORO INTERNATIONAL ART FESTIVAL 2014 を、郊外のモエレ沼公演や札幌芸術の森美術館を中心に巡ろうと考えたのだが、毎日雨がちだったので、迷った末に取り止め。結局のんびり読書して過ごしていた。

 その旅の前半に読み終えたのはアンドレ・ジイドの『コンゴ紀行』と『続コンゴ紀行』。フランスの小説家が56歳の時にかねてからの願望を実現させたアフリカ旅行の日記。最初 1938/39年に岩波から出たものを5年前に復刻させた文庫版である。

 ジイドが旅したのは 1925年7月から翌年5月までで、個人の旅行としては随分早い時期のものだろう。「コンゴ紀行」とあるが、当時のフランス領赤道アフリカ地方を巡ったもので、1冊目はブラザビルからコンゴ川やウバンギ川を北上し、現在のチャドに至る。2冊目はチャドから現在のカメルーンを西に進んで大西洋まで戻ってくる。最近「コンゴ旅行記」を書き始め、間もなくコンゴから Jupiter & Okwess International が来日する。なので、自分の中でコンゴへの気分が高まって読み始めたのだが、現在のコンゴ民主共和国はほとんど登場しない。(残念ながら地図がほとんどないので、これを読むだけでは著者がどこを歩いているのかさっぱり分からない。なので、ミシュランの地図を参照しながらの読書となった。)

 小説家による文章ということもあってか情景描写がとても美しい。今では失われた景色も多いのかもしれないが、かつて滞在したコンゴ(ザイール)の地方の川の夕暮れなども懐かしく思い出させる文章だった。搾取され苦労を強いられる現地民たちへの温かい視線や積極的支援もいい。

 先に読み終えたミシェル・レリスの『幻のアフリカ』でもそうだったのだが、時おり挟まれる音楽のシーンにも惹かれる。録音は残されていないだろうが、せめてその時の写真や映像をネットで見ることは出来ないだろうか。

「(…)だが思っても見て頂きたい。百人もの人間の口で喚き立てるこの節を。その中誰一人として正確な音を出しているものはないのである。沢山の小さな線の間から識別しようと試みる主要な線のようなものである。その効果はすばらしい。そして複音性な、調和音の豊かな印象を与える。同じ要求が彼等の小さな「ピアノ」の金属の爪に真珠をはめさせるのである。はっきりした音への嫌悪、はっきりした音を掻き乱しその輪郭をぼかそうという欲求。」(『続コンゴ紀行』P.38)


 ここでの「ピアノ」は親指ピアノであり、「真珠」はビリビリ音を生み出すサワリ構造の一部なのだろう(ただし、著者のこの推測は正しくはないのだが)。

 この引用では全て現代語に改めた。しかし、元々は漢字は旧字体で、旧かなづかいである。それに加えて、ポイントの小さな活字による古い印刷をそのまま復刻したものだから活字が潰れてしまって、とても読みにくく、旧字を解読するのに時間がかかる。なので買った直後には途中で放り出してしまったのだった(108ページまでで諦めた)。けれども、今回は旧字体と旧かなづかいの生み出す不思議なリズムが次第に心地よくなって、途中からすらすらと読めるようになり、とうとう最後まで辞書を使うこともなかった。本来の日本語を読んでいる快感のようなものも感じたのだった。


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by desertjazz | 2014-08-31 16:00 | 本 - Readings

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 フィールドワークが調査対象に対して多かれ少なかれ何らかの影響を与えることは不可避である。それまで知られていなかった「未開民族」が発見されたとき、情報の乏しい少数民族の研究を進めようとするとき、他者に対して閉ざされてきた珍しい風習があるとき、それらはそのまま「保存」すべきなのか。何らかの接触をしない限りは、それらについて何も分からないままで留まる。果たして他者はどこまでのアプローチが許されるのか。今でも時々アマゾンの奥地で外界との交流を全く持たない少数民族の存在が明らかになり、調査すべきかすべきでないかが議論となる。そのような例に顕著なように、これは民族学者や文化人類学者、さらには探検家、ドキュメンタリー制作者にとって難しい問題であり続けている。

 それと同時に多くの民族は、周辺民族との交流、あるいは近年において旅行者たちと出会うことによって、生活様式が変化してきた。また混血も進んだ。その結果、20世紀後半には純粋なピグミーやブッシュマンでさえどんどんいなくなっていった。恐らく現在では、彼らのうちに獣の皮や樹皮で作った布をまとって生活している者はいないだろう(観光客相手に見せ物を演じている例を除いて)。その観点からは、いつかはタイミングを捉えて実地研究に進むべきなのかも知れない。

 1931〜1933年にかけて仏人マルセル・グリオールを団長としてアフリカ大陸を踏査した「ダカール=ジブチ、アフリカ横断調査団」にしても、すでに欧州の植民支配下におかれた土地が多かったとは言え、現地の人々に与えた(悪)影響は少なくなかった。とりわけ、長年奉られてきた物ものを奪う様は羞悪。夜こっそり祠に忍び込んで盗んだり、摸倣画を取り替えたり。当時の倫理では許されたのかも知れないが、正に略奪と言う他ない。その様子が当事者のひとりであるミシェル・レリスによって書き残されたのは、これはこれでひとつの貴重な資料なのかも知れないが。

 そのレリス、ドゴンなど西アフリカ各地では、宗教儀式等の詳細について現地の人々に語らせようとするが、毎度得られるのは異なる回答ばかりで、らちがあかない。エチオピア(アビシニア)でも憑依儀式を何度も実際に行わせて観察するのだが、それらは正確なものでなかったり、肝心な部分を省略されたりしたことが、その都度後で明らかになる。

 物理学の有名な原理に「ハイゼンベルクの不確定性原理」がある。ごく簡単に言ってしまうと、観測者が存在することによって、物の正確な位置とその運動の仕方を同時に正確に知ることは不可能だというもの。レリスが現地の風習に近づけば近づくほど、彼らは上手く逃げていって、肝心のところまでは明らかにならない様子は、まるで「不確定性原理」みたいだなと笑ってしまった。

 そのレリス、エチオピアのタナ湖の北、ゴンダールで長期滞在して調査する間に、ひとりの女性に恋心を抱く。仕舞には、肉体関係を持たなかったことを後悔して毎日のように書き続けるのだが、この辺は確かに「公式記録」を大きく逸脱した部分で、『幻のアフリカ』を風変わりな旅行記にしているとも思う。そしてそうしたレリスに感情に基づいた行動がゴンダールの人々や社会に与えた影響も無ではなかったことだろう。

 思い出すのは、アメリカ人(白人)のルイ・サルノ Louis Sarno のことである。1954年にニュージャージーに生まれた彼は 1985年以降、中央アフリカ共和国の密林に暮らすバヤカ・ピグミー Bayaka Pygmy を研究し、その音楽を録音して、CD や CDブックを発表してきた。中でも 1995年に出した CDブックは見事な出来映えで、録音そのものも近年のピグミー録音の中でも特に優れていると思う。

Louis Sarno "Bayaka - The Extraordinary Music Of The Babenzélé Pygmies" (Ellipsis Arts... CD3490, 1995)

 正にピグミーに恋してしまったルイ・サルノ、ピグミーの中での暮らしについて自身の著作の中で詳しく綴っている。

Louis Sarno "Song From The Forest - My Life Among The Ba-Benjellé Pygmies" (A Penguin Book, 1993)

 この本、彼のCDブックや録音ほどには面白くはない。それでも読み進めると、やがて彼はひとりのピグミー女性を愛してしまう。ここまでは、ミシェル・レリスと一緒。ところが最後に驚きの結末が待っている。なんと2人は結婚してしまうのだ。

 正直これを読んだ時には衝撃を受けた。ピグミーのような貴重な民族はあくまで調査対象であって、そっとしておくべきではないのか。ましてや白人と混血するなんて。このままではピグミーと白人との間で子供が生まれてしまい、血統が維持できない…と。しかし、これは視野の狭い偏った見方であることにすぐに気がついた。ただし、ひとりのフィールドワーカーの愛情の注ぎ方としてとても深いものを感じる一方で、果たしてこれが正しい行為だったのかどうかまでは、私には判断がつかない。

 ルイ・サルノは現在もピグミーの森に住んでいるという。




 余談1)

 時々、雑誌やテレビで紹介されることだが、マリ、ニジェール川大湾曲部の断崖に住むドゴンは、ある星団に関する伝説を持つ。その星団は現代の望遠鏡を使って初めて発見できたもので、ドゴンたちが肉眼で見つけられたはずはない。それをもって、これをドゴンの謎として語られることがある。しかし、これは現代になってからやってきたフランス人(多分)によってドゴンに後づけされた知識で、単に彼らがそれを従来からある口承伝説に組み入れたに過ぎないとする見方が有力である。これなども、外来者による伝統の改変の一例だろう。


 余談2)

 "Song From The Forest" は2冊持っています。欲しい人いますか?




 マルセル・グリオールの『青い狐 ドゴンの宇宙哲学』と『水の神 ドゴン族の神話的世界』も引っ張り出してきた。じっくり読みたいな。それにしても重い本ばかり。

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by desertjazz | 2014-08-18 00:00 | 本 - Readings

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 ミシェル・レリスの『幻のアフリカ』を読了。単行本(河出書房新社、1995年)も持っているが、新書版(平凡社、2010年)で再読。全部で1065ページのこの分厚い本(解説部だけで70ページもある)、今日は蒸し暑い中、ダラダラ汗を流しながら(まるで熱帯にいるような気分)、ギンギンに冷えたビールと白ワインを飲みつつ、残り160ページを一気に読み終えた。

 1930年代初頭にセネガルからエチオピアまで横断したフランス人民族学者集団の公式記録であり、またレリスの私的で極めて特異な日記でもあるこの本、その余りの長さから、再び放り出したくもなった。けれども、読み終えてみると、書いておきたいことが次々浮かんでくる。

・なぜ2部構成にしたのか。ドゴンの仮面とアビシニアの憑依(ザール)との対照性。
・20世紀初頭の欧州のフィールド・ワーカーたちの横暴さ。
・東南アジアで奉られてきた古布の消失との類似性。
・ルーモン・ルーセルとの関係。
・文化人類学の不可避的欠点。ハイゼンベルクの不確定性原理を強烈に連想させるもの。
・その中で悩むレリス。ピグミー研究者、ルイ・サルノを思い出させるもの。
・彼らの収集とアフリカにおけるレコード探しとの類似点と相違点。
・旅行記のこの。地図のこと。(そして、ミシェル・ウェルベック)

 等々。


 追々この本のことを反芻しながら、ゆっくり書いてみることにしよう。




 先月は、詩を捨ててエチオピアに旅だったアルチュール・ランボーの『ランボー全詩集』(河出文庫/鈴木創士による新訳)を読み終えた。その後は岡倉登志 編『エチオピアを知るための50章』(明石書店)なども読んでいる。そして『幻のアフリカ』第2部の舞台はエチオピア。なんだかエチオピアが呼んでいるような気もする。

 そうそう、今年10月に東京ーアジスの直行便が就航開始するのだった。これを上手く利用できないだろうか?




 この旅行記は、フランスを旅立ってから1年10ヶ月、1933年2月16日の朝、マルセイユ港に帰ってくる直前で終わっている(その最後の短い一文が感動的)。時は正に Moussu T たちがテーマにしている時代。彼らの新作 "Operette" をまた早く聴きたくなってしまった。(→ 8/20 に発売延期となった模様。)





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by desertjazz | 2014-08-15 00:00 | 本 - Readings

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