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 今月読了したのは10冊。

28) 村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』上巻
29) 村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』下巻
30) 津田大介+牧村憲一『未来型サバイバル音楽論—USTREAM、twitterは何を変えたのか』
31) 村上春樹『国境の南、太陽の西』
32) 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編』
33) 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル〈第2部〉予言する鳥編』
34) 藻谷浩介『デフレの正体 経済は「人口の波」で動く』
35) 村上春樹『ねじまき鳥クロニクル〈第3部〉鳥刺し男編』
36) 佐々木俊尚『キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる』
37) チャールズ・テイラー『音の不思議をさぐる―音楽と楽器の科学』


 なんとか2桁に届いたものの、村上春樹の長編小説(第6〜8小説)と話題の新書が中心(例外のチャールズ・テイラーはやや期待ハズレ)。他に読んだ本や今読んでいる本も読みやすいものばかり。3.11 からの約10日間全然読めなかったし、いまだに頭がまともに働かないので仕方なしか。毎日眠くてどうしようもないのだけれど、きっと眠りが浅いのだろう。

 村上春樹は『ダンス・ダンス・ダンス』が良かったかな。しかし、別の作品でも同じモチーフなど(例えば、耳、井戸、自殺、等々)が繰り返し出てくるので、段々作品ごとの境界があいまいになってくる。先日書いた「ネジマキドリ」の謎も結局謎のまま。

 本や音楽について書くことも、料理したり運動したり小旅行にでかけることも、考えをまとめたりすることも、すっかり停滞してしまった。来月は少しずつでも気分を改められるといいのだが…。





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by desertjazz | 2011-03-31 23:59 | 本 - Readings

読書メモ

 今日は2作品読了。

・村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

 村上春樹の全長編小説再読作業の8作品目。解釈自由な時空の歪み方で飽きさせないが、長編小説はこれ以前の7作の方が個人的には好きかな?例えば瞼を閉じた時の灰色の感じ方や、様々なシチュエーション下での音の響き方、あるいは暴力的な描写での、ささやかな体験や個人的記憶を呼び覚ます表現の巧みさを堪能。うまく説明できないのだが、長い独白などからは、彼が最も『カラマーゾフの兄弟』を意識した作品であるようにも感じた。

・佐々木俊尚『キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる』

 ネット時代の情報の流れ方、つながり方について、ひとつの視座を与える。情報の取捨選択がセレンディピティーを呼ぶこと、グローバル化が画一化よりも文化のアンビエント化と多様性に結びつく可能性などの指摘は興味深い。
 具体例の取り込み方のうまさがこの本を面白くしている。元カンバセーションの田村直子さんが企画奔走したエグベルト・ジスモンチの来日公演のことで本題が始まっているのにはちょっと驚き。
 ネットが得意で活用することを絶えず考えている人たちにとっては、今の時代はとても面白いのだろう。逆に自分のように、ネットでCD1枚買うのも面倒だし、Foursquare のような情報の集まり方も好きでないという者にとっては、どことなく居づらい世にますますなってきたなとも思ってしまう。

 一個人が対応可能な範囲を超えた世界に誰もが放り出されたことが人類最大の悲劇だと昔から考えており、戦争も貧困もそして今回の原発事故もその世界と個人とのアンバランスが招いたものだと思う。なので、少しでも「狩猟採集生活」的な部分を取り戻す必要があるのかも知れない。自分自身、なるべく小さな世界で暮らす心地よさにも憧れる。結局は理想論で話が大きなってしまうので、これ以上は書かないが。


 明日は『GLOCAL BEATS』(監修・大石 始+吉本 秀純)の発売日。早速買いに行こう!




 読書の合間に、Kaushiki のディスコグラフィーを更新。





(震災&原発事故関連のことを書いておこうと思ったが、同様な意見は探すと見つかるし、自分よりも他の方々の怒りの方が激しいので、今夜もツイート以上のことを書くのは止めておこう。)





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by desertjazz | 2011-03-30 21:00 | 本 - Readings

雑感

 今一番の関心事は何より正しい情報を知ること。そのためにテレビを見たりネットを見たり様々な文章に目を通したり。

 自分の場合は従来からネット依存度が低い。定期的に読んでいるニュースサイトは少なく、ブログは読まず、ツイッターのフォローも最小限度。そのため情報収集には出遅れたまま。ここ数年間できることなら世間の情報から離れて隠遁したい気持ちも強かったので、そうしていたのだけれど、どうも今はそうしたスタンスは難しいようだ。

 結局情報チェックに時間を取られて、毎日やりたいと思っていることがさっぱりできない。今後の計画は立たないし、読書も進まない。音楽を聴く時間もほとんどないため、CDを買ったり、音楽情報を探ったりする気もなかなか起こらない。

 こんな風に生活に支障を来している人がとても多いことだろう。みんなどうしているのかな?

 それでも、自分の使える時間がこれだけ限定されてしまうと、自身の求めている音楽は何なのかが多少は鮮明になってくる。音楽を含めて自分にとって必要なものがどれだけあるのかを、改めて見直すには好機なのかも知れない。

 最近は、時々カウシキを聴き、その合間に安東ウメ子や OKI をたまに聴く程度。他の音楽はほぼ全く聴いていない。しばらくはこれでいいのだろう。

 昨日たまたまカウシキのCDを一枚新たに見つけた。古典音楽ではなくポップな内容。可憐な歌、美しい曲ばかりで、昨夜以降はそれを繰り返し聴いている。


(他のことを書こうとしたのだけれど、やはり無理だったな。)





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by desertjazz | 2011-03-29 23:00

◆ Kaushiki Chakrabarty (4)

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"Pure" (Sense World Music 047, UK, 2004)


 とても怖い音楽である。じっと聴いていると、ここではないどこかに連れ去られてしまいそうな気になってくる。恐らくそれは桃源郷ではなく、きっと想像しようもない異界だろう。だから近づいてはいけない。すぐに離れなければ、危ない世界に引きずり込まれてしまう。だけど、そう分かっていながらそれができない。恐ろしいもの、目にしてはいけないものがあると知ると、どうしても覗き見てしまうときのように。

 カウシキ(コウシキ)の3作目 "Pure" は私にとってそんな作品だ。



 2003年8月30日にロンドン、ホーンチャーチの Queen's Theatre でライブ録音されたもので、インド音楽を専門とするイギリスの新興レーベル Sense から翌年04年にリリースされたアルバムである。

 伴奏者は次の通り。ハルモニウムは Pandit Ajoy Chakrabarty(カウシキの父)と Sri Chiranjib Chakrabarty、タブラは Yogesh Samsi、タンプーラは Ranjana Ghatak。

 "A Journey Begins" と "Swar Sadhna" では時々眠りを誘うような穏やかな時間の流れを感じた。それに対してこの作品には、そのような緩やかな空気感のようなものが薄れている。そう感じさせるのは、前の2作をダウンロードでしか聴いていないから、あるいはロンドン録音の効果があるのかも知れない。選ばれた曲(ラーガ)の違いにもよるのだろう。しかしそれ以上に、カウシキの歌声が深化しているように聴こえる。



 トラック (1)〜(3) は Raga Madhuvanti に基づくノンストップ・メドレー(と言っていいのだろうか?)の45分間。この Madhuvanti は割と新しいラーガだそうで、生まれてからせいぜい50年ほどだと書かれていた。

 Alap で喉ならしした後、(2) Khayal 'Shyam bhaee, Ghanashyam nahi aye more dware' に移る。これは父 Ajoy Chakrabarty の作品。もう冒頭から妖艶でミステリアスな歌声が響き渡る。とりわけ終盤の8分間ほどは聴いていて卒倒しそうになるほどだ。どうしてこんなフレーズを紡ぎ出せるのだろう。特に猛スピードで歌い上げられるハイトーンの微妙かつ細やかな節回しは圧巻。人間業とは思えない。

 じわじわ盛り上がって行き、しばらくピークが続いたところで、(3) Khayal 'Kahe maan karo sakhiri ab' に転じる。ビートが増えてテンポが上がったため、それまでの緊張がずっと維持されたまま最後まで一気に歌い上げられる。

 タブラの引き締まった撥音、打ち込み音のように正確なビートにも舌を巻く。この Yogesh Samsi のタブラの、ハルモニウムやカウシキの歌との全く隙のないインタープレイもまた、演奏全体の質を大いに高めているのではないだろうか。タブラのトーンが前作 "Swar Sadhna" の音と似ていると思ってクレジットを確認すると、やはり同じプレイヤーだった。他のタブラ奏者との違いを素人耳でも聴き取れるので、彼はそれだけ優れたプレイヤーなのだろう。

 それにしてもカウシキの歌が素晴らしい。テクニックが完璧であるとか、声質が美しいとか、音域がとてつもなく広いだとか、心が洗われるだとか、感動的だとか、、、そのような次元を超えている。暴力的なまでの美しさにひれ伏すとでも表現すれば良いのだろうか。自分の喉を締められて息が苦しく意識が薄れていくのに、それが抗えぬほどの快感にすり替わっていくような思いがする。

 こうした声は、最高潮時のヌスラット・ファテ・アリ・ハーン Nusrad Fateh Ali Khan やアリム・カシモフ(ガスモフ)Alim Qasimov、サリフ・ケイタ Salif Keita などを思い起こさせる。本当に怖い歌だ。 

 (4) Thumri in Raga Misra Mand 'Morey Saiyan Benardi' in Keherva を聴いて幾分か身体が弛緩し、ようやく呼吸を取り戻す。



 これまでは "Kaushiki" (2007年) こそが彼女の最高作だと考えていた。だが今回繰り返し聴き直してみて考えが改まった。前作まではまだ筋力が足りなくて歌おうとする意思に身体がついていっていない。近年の録音は逆に贅肉がついてしまって、歌に瞬発力が少しずつ欠けている。私にはそう聴こえる。この録音時に、楽器としてのカウシキの身体がベストにチューンングされていたのではないだろうか。タブラ、ハルモニウムとのコンビネーションも理想的。"Pure" が彼女の最高傑作だと思う。





Kaushiki Chakrabarty (1)
Kaushiki Chakrabarty (2)
Kaushiki Chakrabarty (3)
Discography of Kaushiki Chakrabarty Desikan





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by desertjazz | 2011-03-28 19:00 | 音 - Music

前向きに呑む!

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 大震災以来なぜかブログへのアクセスが上がったまま落ちない。なので何となく毎日更新するようにしている。けれども一体何を期待されているのだろうか。アフリカ音楽? マレウレウ? 自身に問うてみれば、今の関心事は読書や音楽よりも、食べることと旅すること。なので美味しい話や楽しい旅の話について書いてみたい。

 しかし、今は震災についての考えをまとめるべきではないかという思いが頭から離れない。音楽や読書を我慢して、震災関連の情報を追い、思索する日々。書いておきたいことは数多あるのだけれど、それらは批判的/悲観的なものばかり。こんな弱小ブログで何か書いてもほとんど無意味だろうし、拙速になるのも避けたいので、今夜も控えておこう(でも後日書くつもりだ)。東電や役人を批判する前に、まず前向きなことを考えるようにしている。

(このブログを書いた後にネットをチェックしたのが、今夜も東電の能天気振りを伝えるニュースや記事ばかり。電力会社には友人が何人もいるし、まじめに働いている「被災者」もいるはずなので、厳しいことは書きたくないのだれど、現在の体系を解体して反省するところから始めないと、間違いなく未来はないと思う。)

 今度の大地震と原発事故のおかげで、4月以降の予定もズタズタだ。4月に予定していた旅行2つも諦めた。自宅でメシを作る時間も心のゆとりも失われて、仲間らとの外食が増えている。そのおかげ?で、びっくりするくらい美味しい店をまた近所に見つけてしまい通っている。ここについては近いうちにメモしておこう。

 じっとしていても仕方ないので、4月/5月はパーティーかホームパーティーを開こうと参画中。

 今晩は金沢のK夫妻と、いつもの「かむなび」で会食。SUKIYAKI などについて前向きな意見交換(したつもりなのだけれど、どうだったかな?)。今夜も美味かったなぁ〜。


 京都土産をいただきました(写真)。これで明日の弁当のおかずが一品増えるので嬉しい!





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by desertjazz | 2011-03-27 23:59

現実感を取り戻すために

 このところ明け方に長い夢を見る。その夢の中で「起きてみたら、これまでのことが全て夢だった」という風になっていないだろうかと考えている。起きていても眠っていても、今どちら側にいるのか時々わからなくなる。すでに半月も経とうとしているのに、相変わらず現実感を取り戻せないでいる。

 被災地に居ない自分でさえこうなってしまうのだから、大きな被害に見舞われた方々の心労はたいへんなものだろう。だから、自分がいくら想像力を働かせても、実際起きていることまでは辿り着けないに違いない。その間隙を埋めるためには、なるべく早く現場を見てくる必要があるのかも知れない。現実感を取り戻すためにも。

 多くの方々が言及している New York Times のページ(写真集)を見た。海外メディアだから掲載できる写真が多い。その分だけ直視するには勇気が求められるのだけれど、被災地の「現実」が今最も伝わってくるものであるように思う。


(いろいろ思い考えたところがあるのだけれど、連日拙い文章を長々と綴っているので、今夜は止めておきます。その代わり、できれば NYT の写真をじっくり見て欲しい。)





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by desertjazz | 2011-03-26 22:40

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 今年もマルセイユで Babel Med Music が開幕した(3/24〜3/26)。毎年春に市内港湾エリアの The Duck で行われる Babel はかなり規模の大きい音楽見本市で、今年で7回目。同じ会場で秋に開かれる音楽フェス Fiesta des Suds と対をなすイベントだ。どちらもワールドミュージック系アーティストのステージをたっぷり見られるし、友人知人たちとも会え、とても雰囲気も良いので、今年の Babel も行くかどうかかなり迷った。結局は見送ったのだけれど、結果としては行かないと決めて助かった。大震災の後では具体的準備も心の準備も出来なかっただろうと思うから。

 中止になった先々週の「東本願寺」に限らず、自分はどうも音楽フェスとの相性が良くないようにも思う。本格的に最初に行った海外のフェスは 2003年のフランス・アングレームの Mettisse だったが、このときは目当てにしていた Issa Bagayogo がキャンセル、Orchestra Baobab はリハーサル後にステージが壊れて中止。他にもいつくかトラブルがあって、一体に何をしに来たのだろうかと落ち込みかけた。

 これまで一番ショックだったのは、2006年秋の Fiesta des Suds での出来事。その日の夜のステージに立つ Cheb Mami に会わせていただけることになって、リハーサル前にバックスーテージで待っていたのだが、Cheb Mami 本人が一向に到着しない。ややあって届いた知らせは「逮捕された」という一報。その後のことはご存知の通り。

 その Mami が23日に釈放されるという情報が一部で流れていた。本当であって欲しいし、彼の歌声はいつか生で聴いてもみたい。

 そして秋になって Fiesta des Suds が近づくにつれて、フランスに行くかどうかまた迷うことだろう。フランスに行けば毎度何かを見つけられているし、フェスの主催者のひとりが毎年しきりに誘いのメールや資料を送ってくれることでもあり(写真は昨年郵送されてきた資料)、パリとマルセイユにはできれば年に一度は行っておきたい。そのためにも日本が早く落ち着きを取り戻してくれるよう願っている。



 ただ、3年前に Babel Med Music に参加したとき、海外のワールドミュージック・フェスティバルの類に来るのは、そろそろこれが最後だろうかと考えたこともはっきり記憶している。それは良い音楽をたくさん聴いて気持ちよいのと同時に、居心地の悪さも膨らんでいったからだ。

 マルセイユを訪れる度に誰もが歓迎してくれるし、オクシタンの音楽にたくさん接して楽しくもある。けれど、これはどこか間違っていないだろうか?

 思い出すのはインドネシア・バリ島のこと。これは以前にも書いたことだが、毎年のようにバリを訪れ現地の人々に暖かく迎えられる度に、自分が「よそ者」であることが段々辛くなってきた。バリで過ごすこと、ガムランを聴くことはとても気持ちいい。けれどもそれはある意味で表面的なこと、一種の逃げでもある。日本人である自分は、自らの音楽を持っていないからガムランに憧れるし、日本の中に心地よい居場所を見つけられないから時々バリに逃れてくる。

 マルセイユでも同様なことを考えてしまった。わざわざマルセイユまで来て音楽を探すというのは、ここに住む人々や彼らの「ローカル・ミュージック」に対する日本人の甘えでもあるのではないだろうか?



 そんな思いは、一昨年〜昨年頃しばらく音楽を聴かなくなったり、以前ほど熱心にワールド・ミュージックについて語らなくなったこととも繋がっている。それらの一番大きな理由ではないけれど、小さな理由とも言えない。

 世界の音楽を探求することは趣味としてとても面白いことだと思う。「グローバル・ミュージック」の時代でもあるので、そうした音楽は自由に聴かれ、自由に語られていいと思う。

 その一方で、日本人が日常の中でともに歌う歌やローカル・ミュージックを持たないがために、世界中の音楽を大量に受容し、時に語りすぎる面もあるように思う。それぞれの音楽に対する敬意をしっかり持っていれば、そうした行為は悪いことではない。しかし、自分の歌を失ってしまったその間隙を埋めるために他者のコミュニティーの音楽が必要とされているようにも思える。そうした立場から、分かった気になって他者の音楽について語ったり評価したりすることは疑問に思う。ここ数年ワールド・ミュージックを聴けば聴くほど、そうした違和感のようなものがどんどん膨らんでいってしまって、どうしようもない。

 ここ何年間か、そうした居心地の悪さをずっと抱えている。一番の理想は「自分の音楽」を取り戻すことだと思うが、それは容易ではない。と言うより、ほとんど不可能だろう。ならば、せめて少しでも自分の足下を見つめてみようと思い、日本の古い本を読んだり、これまで訪れたことのなかった土地を訪ねていったり、人から話を聞いたりするようにしている。



 ここでまた OKI さんと Marewrew の話に戻ってしまう。

 OKI の "Tonkori" や "Marewrew" を聴いて素晴らしいと思ったのは、彼らが自身(アイヌ)の音楽を取り戻していることだ。自身のルーツを魂に取り込んで、そこから新しい次元に進んでいることに、ある種の感動さえ覚える。

 日本人も自らの音楽を、いや音楽に限らない何かを取り戻せないものだろうか。大震災以来、ネットで時々「上を向いて歩こう」について語られているのを目にする。昨日はブラジルの Ivan Lins が歌った「上を向いて歩こう」が話題になっていた。聴いていて心が震えると同時に、このような曲の中にも何かを「取り戻す」ヒントがあるのではないかと感じた。とても漠然とした感想なのだけれど…。

 
 これからも様々な音楽を聴き続けるだろうし、時々は海外にも行きたいと思う。それと同時に、もっと自分の足下を見つめて、取り戻せるものを見つけたいという思いも強い。







追記

1) どうやら Cheb Mami は釈放された模様(→ 参考)。

2) 断るまでもなく、例えばガムラン研究家を批判しているのでも、海外旅行や海外移住を否定しているのでもない。

3) またこれも断るまでないが、音楽のグローバル化を否定するつもりも全くない。逆に未来の音楽の可能性はグローバル化に大きく依存しており、それについて考えることは自分にとっても興味深いテーマだと思う。





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by desertjazz | 2011-03-25 11:11

◆ Omara "Bombino" Moctar

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 毎日24時間、震災関連の情報を追ってばかりいる訳にもいかないので、そろそろ音楽を聴く時間や読書する時間も取り戻しつつある。



 今日はオマーラ“ボンビーノ”モクタール Omara "Bombino" Moctar の新作CD "Agadez" (Cumbancha CMB-CD-20) がアメリカから届いたので早速聴いてみた。ボンビーノはニジェール北部アガデス出身のシンガー/ギタリスト(1980年生まれ)で、最近注目を集めているデザートブルースのミュージシャンのひとり。ゆる〜いティナリウェン、淡々としたアリ・ファルカ・トゥーレ、ゴリゴリしたロビ・トラオレなどと比較したら割合中庸なスタイル。同じトゥアレグであり、ヴォーカルのなよっとしたところなどは、やはりティナリウェンに一番近いポジションにいるかと思う(実際、彼らのフォロワーらしい)。

 こう書くと全然褒め言葉になっていないが、今年の来日公演は間違いなく盛り上がるだろうと断言する。気楽に楽しめるアフリカン・ポップで、断然ライブ向きのサウンドだ。そして、やっぱり 'Iyat Idounia Ayasahen (Another Life) ' がいい。シンプルなリフ一発のトラックなのだけれど、ライブのラストにこれを持って来て大盛り上がりになることを想像してしまう。

 今日届いた CD は、月末のリリースを前に100枚限定で発売された「CD+Dwonload」版のうちの実際のCDの方なのだけれど、この特別仕様のデジパック自体は、全然特別なものではなかった。もしかしたら関係者用のものを一般向けに先行発売しただけなのかも知れない。



 これで、まだ発売前の "Agadez" が3ヴァージョンも手元に揃ったことになる。それらの違いを簡単に整理しておこう。

(1) 昨年送られて来たラフミックス版

 全9トラック。'Tigrawahi Tikma' が 13分04秒、'Tar Hani' が11分21秒というロング・ヴァージョン。

(2) ダウンロード版

 全13トラック。(1) の9曲に 'Kammou Taliat' を追加。さらにボーナストラックとして 'Mahegagh (What Shall I Do?) 11分29秒、'Adinet (Tuareg People)' 4分02秒、'Tigrawahi Tikma (Live Version)' 13分02秒 と「DigitalBooklet」が加えられている。

(3) CD版

 全10トラック。(2) と同内容。ただしボーナストラックは未収録。



 Omara "Bombino" Moctar について詳しく書いてもいいかと思ったのだけれど、今夏の SUKIYAKI MEETS THE WORLD への出演も決定したので、そろそろあちこちで紹介されるはず。興味のある人にはまずはそちらを読んでいただくとして、自分は重複を避けて次のことに取りかかろう。





 気がつかないうちに、好きなアーティストの新譜がリリースされたり発売予告されたりしていた。

・ Watcha Clan の7作目 "Radio Babel" - 2月11日に発売済み(早速試聴)。
・ Adriana Calcanhotto "O Microbio Do Samba" - 次作はサンバ、4月発売。
・ Kate Bush "Director's Cut" - これは5月。
・ Robbie Robertson "How To Become Clairvoyant" - 発売済み?

 どれも楽しみだ。





 読書の方は2日で1冊ペースまで復帰。今日は村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』第2部 予言する鳥編を読み終えたのだけれど、途中であれっ?と思うことがひとつ。一カ所だけ「ねじまき鳥」ではなく「ネジマキドリ」と書かれている(新潮文庫の190ページ)。これって何か意味があるのかな。それとも単なるトリビアなのかな。取りあえず第3部に進もう。





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by desertjazz | 2011-03-24 21:30 | 音 - Africa

「マレウレウ祭り」の感想として書いた「マレウレウ 〜 アイヌの蝶の子守唄」(1)と(2)からこぼれたこと。


1)レクポさんの発言

 震災直後なので自粛すべしとの声に対して。「私たちは歌うことしかできない。」

2)マユンさんの発言(要旨)

「電気を使ってライブするのはエコじゃないと言う人もいるけれど、こうして集まった分、その人たちの家の明かりは消えているのだから、ずっとエコ。」

3)ニューアルバムについて質問したところ

「今年中には出したいと思っている。」ただしそれはプロディースする OKI さんのスケジュール次第だとも話していた。ミニアルバム "Marewrew" はあくまで助走。ライブを見て次のアルバムへの期待が高まる。

4)「マレウレウ祭り」を見逃した方へ

 複数ルートから「ライブ決定」の連絡を受けている。しばらくしたら正式に発表になると思うのでお楽しみに!

5)100万人のウポポ

 ウポポ大合唱はこれからもマレウレウのライブに参加する醍醐味であり続けると思う。継続していって欲しい。

6)アイヌのクリック?

「レクポ」の発音は[rekpo]であって[rekupo]ではない。その[k]は南ア諸民族、例えばブッシュマン(サン)のクリック(発音記号は[!])に似た響きに聞こえ、原初的音楽という見地からブッシュマンとの関連も連想させた。まあ、これは全くのこじつけだろう。

7)サカキマンゴー(その1)

 マレウレウ祭りに出演したサカキマンゴーさん、ディレイがいつもより深めで、ちょっとサイケなところが面白かった。今回はソロ演奏だったので、そう聞こえただけなのかも知れないが。

8)サカキマンゴー(その2)

 特別なコメントはなかったけれど、最後に演奏したタンザニアの曲「私を助けてください」(だったかな?)を聴くだけで彼の想いは十分伝わってきた。

9)サカキマンゴー(その3)

 チウォニーソ Chiwoniso がレコーディングに参加した彼の新作も楽しみ。順調に行けば秋ぐらいにはその音を聴けそう。SUKIYAKI MEETS THE WORLD でも一部披露してもらえるのかな?

10)夢の共演

 マレウレウのコーラスとサカキマンゴーの親指ピアノとの親和性高し。また聴きたい!

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11)オマケ

 マレウレウにインタビューさせていただけないかなぁ? N子ちゃん、お願いします。





(続く??)





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by desertjazz | 2011-03-24 00:00 | 音 - Music

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 これまでマジカルだと感じていたマレウレウのコーラスのしくみを理解できたのには、ステージでのマユンさんたちの説明を聞いたことが大きい。昨日少し書いた通り、基本輪唱であったり、別々の4パートの対比であったり、異なる2つのスタイルの融合であったりすることを、一曲ごと丁寧に解説していた。

 もちろんそれだけですっかり分かったわけではない。だが、アンコール・パートの「ウポポ大合唱」に至って、そうした理解が一層深まった。客や他の出演者たち全員を4グループに分け、実際に合唱させるのだが、一緒に楽しみながらウポポを身体で覚えていくとても良い企画だったと思う。

(写真は入場の際に配られた歌詞カード。「ウポポ大合唱」の必須アイテム!)

 それと同時に、やはり音楽は自ら歌い楽しむものだということについて改めて考えた。

 この数百年間、人間は鑑賞芸術としての音楽を探求し続けてきた。だがその一方で、「自ら歌う」という音楽の本来的な意味が薄れ、自身の音楽すら失ってしまった者も多くなっている。

 私は昔からピグミーやブッシュマンの音楽、あるいは親指ピアノの弾き語りが好きだ。それは音楽の根源的な魅力が伝わってくるからなのだと思う。また、沖縄の民家を訪ねれば三線で歌い踊る人々に出会い、リオの家ではサンバを朝まで歌うパーティーに誘われ、マルセイユでは地元のポリフォニー・コーラスで輪舞する輪に取り囲まれる。そのような生活の中に息づく音楽っていいなと素直に思うし、自分たちの音楽を持っていることをとても羨ましいとも思う。

 マレウレウの歌を聴いて似たものを感じた。彼女たちは、アイヌの伝統を守り受け継ごうだとか、あるいは革新を図ろうだとかいったように気負うのではなく、元からあった地元の音楽が好きで、まずそれを楽しんでいる、そんな姿勢が感じられる。自分たちの生活の中にあった音楽を素直に楽しむ姿が、きっと他の多くの日本人たちにも伝播しているのに違いない。

 彼女たちの音楽が持っている大きな強みは、何も準備なしに始められることだ。極言すれば楽器も電源も何もいらない。恐らくPAなしサウンドチェックなしでだってできるのではないだろうか。ただ軽く手拍子を打ちながら歌い出すだけでいい。

 断るまでもないが、鑑賞音楽も、巨大コンサートも、クラブミュージックも、全く否定するつもりはない。パーソナルな音楽や生活の中の音楽と、その存在が相矛盾する訳ではない。ただ音楽が、生活の一部であったこと、自ら参加するものだったことから、ずいぶん離れてしまっていることを時々は振り返ってみてもいいのではないだろうかと思う。

 マレウレウを聴いて、音楽はもっと身軽なもの、身近なものであっていいと、改めて感じた。世界のどこを訪れても、子供たちが遊びながら歌うのを耳にしては心が和む。子守唄は見知らぬ人が歌うものであっても心地よいものだ。マレウレウの歌は、子供歌や子守唄が持っている素朴な魅力を、私に思い出させてくれる。




(続く?)

(昨晩アップした文章、読み直したらひどいもんですね。全部書き直したくなったけれど、最小限の修正に止めました。)





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by desertjazz | 2011-03-23 20:00 | 音 - Music

DJ
S M T W T F S
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