私論/試論(1)

 「1月19日」の続き、「音に対する感性の絶対的変化」について。

 昨年は音楽をあまり聴かない1年だったのだが、それとは反対に音楽や音のことについて絶えず考え続ける年にもなった。音楽を聴かなくなったのには、年初から猛烈に忙しい時期が続いて、音楽を聴いてもくつろげなかったことがまずある。しかし、いろいろ思索していくと、それ以外の理由にも次々にたどり着いていって、そのことについて考え始めると止まらなくなるほどだった。またそれと同時に自分の音に対する感性がどんどん変化していくこと、そのことをとても楽しんもでいた。もしかしたら、昨年はそのことが一番面白い体験だったのかも知れない。

 音楽、というよりも、レコードやCDを聴く時間が圧倒的に減ったのには、やはり自分の中で「レコード絶対主義」が長年の間に崩れ去ったことが大きいのだろうと思う。もちろん総合芸術としての録音作品には、とって代わりうるものがないだけの価値があることは言うまでもない。昔からライブを聴くくらいなら完成された録音作品を聴く方が有意義だと信じ続けてきたし、今でも録音作品にしか生み出せない音世界の数々を愛して止まない。

 しかし、それと同時に、レコードやテレビや映画などの「平面音響」が苦手になってしまった自分も発見することになった。
(ここにたどり着くには、海外の音楽フェスなどに通うようになったこと、自身の関心が音楽の「ローカル性」や「コミュニティー性」「パーソナル性」などに向かい出したこと、さらには様々な音体験をしたことなどがあり、それらが複雑に絡み合っているのだと思う。これらのことについて「書く」と言いながら、全然まとめられていないのだけれど、取りあえず今回も飛ばして先に進むことにする。)

 とにかく、2本のスピーカーから出てくる平面的な音に耐えられなくなってしまったのだった。そして気がつくと、散歩したりベランダでまどろんでいる時に、いつの間にか周囲のなんでもない音に身を預けていることを心地よく感じている自分に気がついた。これは別に、鳥がさえずり梢がささやくような自然豊かな音には限らない。ちょっとした生活音でも、遠くの高速道路から響いてくるかすかな音でも一緒。3次元空間に伸びる音の複雑さに耳を傾けることが楽しくて、また心地よくてしかたなくなってしまった。
 決して自分を美化して語るような気はないのだが、たとえて言うならば、昆布でとった極うっすらとしたダシの味を舌が味わえるように、空間のかすかな響きを味わえるような耳になっていったのかも知れない。別のたとえ方をするならば、生活の中で「4'33"」を楽しんでいたのだと思う。

 もうこうなってしまうと、もうオーディオシステムで聴く平面的な音には耐えられなくなった。ただただ単純な音にしか聴こえない。たまにCDを聴いてみても、「やっぱり違う」とつぶやいて、ベランダに逃げ出し、都市の立体的なノイズを浴び始めるのだった。

(ここまで書くと、「サラウンドならいいじゃない」といった意見もあるかもしれない。しかし、その考えは間違い。サラウンドのスピーカーはある程度の距離内に置かれるため、ステレオ以上に平面的だとさえ言っていい。まるで檻に閉じ込められているような感覚になることは、多くの方にとって共通した感想だろう。対して実際の空間の音は近似的に無限遠点からの音の集積といった成分も多く含まれるから、その広がりかたや空間的な複雑さはオーディオシステムからの人工的な音とは決定的に異なる。それが、日頃周囲には漏らしている自分の「サラウンド嫌い」の理由でもあり、また「閉じ込め感」を上手く利用することにこそ録音芸術の可能性があるのだとも考える。)

 自分が頻繁に森や砂漠に入っていって、自然の音を浴びてくるのには、潜在的に立体的で複雑な音を求めることが大きな理由だったのかも知れないし、逆にこうした体験の積み重ねが自分の耳を作ってきたのだとも思う。そして、こうした音を聞くという行動をするのは、単に気持ちよいからだけなのではなく、さらにはもっと別の理由もあるのではないかと、最近ライアル・ワトソンを読んで思い至った。そのことについては別の機会に改めて。

(続く)



 ※ 私論であり、その試論でもあり、また上手くも書けていないので、時々書き加えたり書き改めたりすることになると思います。



(iPhone 話の流れならば、iPad 発表を受けて電子書籍への期待感を綴りたいところなのだが、ちょっと面倒くさい。)
by desertjazz | 2010-01-31 19:58

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