2010年 01月 31日
私論/試論(2)
ここ数年の間、自分の頭の中で鳴り続けていたのは「残りもの」という言葉だった。3年あるいは4年ほど前のことになるのだろうか、いくら新作を試聴しても、本当に良い、面白いと思う音楽とほとんど出会えなくなってしまい、もう「残りもの」ばかりなのではないだろうかと思い始めたのは。世界中で新しくて意味のある音楽が生まれてくる/見つかる余地がほとんどなくなっているのに、自分は未だにそれを追い求めている気がしたのだった。
(きちんとした説明抜きに「残りもの」という言葉を使うのは、今の音楽をとことん面白いと思っている人にとっては気分の悪いことだろうし、他人への批判と誤解される危険性があっても困るので、これまで決して使わないできた。しかし、近年の自分の思考を整理する上で避けられない要素でもあると思うようになり、また昨年末若干だけ触れた以上はそろそろ少しでも説明を始めた方がいいのかも知れないとも思う。)
はじめに断っておくと、この「残りもの感」は新しい録音に対してもリイシューに対しても感じている。そのことを確認した上で、改めていろいろな音楽を聴き、じっくり考えてみた。その結果、やはり絶対的に新しい音楽がもう生まれてこない、ある意味でのポストモダン的状況を認めざるを得ないような気がするし、また重箱の隅を突くようなリイシューが増え続けているようにも思う。その一方で、やはり自分は少し考えすぎているのかな、といった反省もした。
結局辿りついた結論めいたことを書いてみると、この「残りもの感」は、いくつかの主観的要因と客観的要因とが重層的に作用していて、簡単には説明し尽くせないものだということだ(結局、結論になっていない)。それでも最後まで残っている主観的な要因の2つについて書いて、取りあえずは書き始めてみたい。
ひとつめ、快楽主義との関係。
どうやらワールドミュージックを聴き始めたときに抱いた心配が現実化したようだということ。どういうことかと言うと、ワールドミュージックを聴き始めたのは、そこに大きな発見や感動があったからこそなのだが、裏を返すと、それまで聴いてきたロックやジャズにそこまでの感動がもう得られなくなってしまったからだとも言える。自分は「快楽主義」者なので、どのジャンルであろうとなるべく最高の音楽を聴いて最大の快楽を得たいと思う。なので、ロックでもジャズでも名盤のうちで自分の趣味趣向に合った作品を一通り聴いてしまうと、大きな感動との出会いはどんどん少なくなってしまう。そうした段階に達した時点でワールドミュージックという鉱脈を知ってしまったならば、そちらに関心が移ってしまうのはある意味で必然なことだった。しかし、その時に考えたのはワールドミュージックも聴き尽くしてしまうと、次は何があるのだろうという危惧だった。
もちろん、どこかで良い音楽が生まれ続けていることは間違いないし、意義深いリイシューも生み出され続けていることだろう。しかし、そうしたものを見つけるには、出会った音楽や聴いた音楽が増えるほど、そのためにはより多くの時間と財力とエネルギーとが求められる。けれども、自分はそのいずれをも持ち合わせない。
(例えば、時間について。音楽ファンには様々なタイプがあって、とにかくたくさんの音楽を聴き尽くしたいというタイプもそのひとつだろう。自分もそれに近いと思っていたのだが、よくよく振り返ってみると、熱心な音楽ファンや音楽評論家などと比較すると、聴いている量が圧倒的に少ないことに今さら気がついた。と言うのは、毎年その半分程度、旅/出張していて、その間ほとんどCDなどを聴かない、といった生活を続けていたことや、移動中に音楽を聴くこともしないことを思い出したから。財力やエネルギーについても、音楽以外の関心事が多すぎて、無理。)
あまりこうした表現はしたくないのだが、多分、音楽を見つける効率のようなものが下がり続けてきたことが不満に繋がっていたのだと思う。
(その解決策のひとつは、自分を導いてくれる書き手を見つけることだと思う。実際昔は「この人がこう書くのだから、自分の趣味を合う(合わない)のだろう」といった判断のできる書き手がそこそこいた。しかし、今はそうした方がまず思い浮かばない。ネット時代になって情報が飽和する中、書き手ひとりひとりの趣味性や事情の方が先行して見えすぎているのかな、とも思うのだが、これはまた別のテーマだろう。)
なにごと快楽を追求し出すと、より強い快楽を求めるのは必然。自分の場合は、音楽という「合法ドラッグ」に麻痺してしまい、より強い刺激を求めてしまった、、、とも言えるのかも知れない。
(つまりは、Salif Keita の"Soro" や Khaled の "Kuche" や Malavoi の "Jou Ouve" や Nusrad Fateh Ali Khan を初めて聴いたときのような衝撃的な刺激を、、、。)
ふたつめ、セレンディピティのこと。
ある理由から(これも昨年書く予定だったのだが、それを綴る時間も全くなかった)、自分のウェブサイトとブログを振り返り、そして自分の音楽ライフを振り返ってみたときに思ったのは、「とても楽しかった」ということだ。そう思えた恐らくは最大の理由は、自分自身で面白い音楽やレコード、貴重な音源などを次々に見つけ出せたことなのだと思う。
特に嬉しかったことのうちのいくつかを並べてみよう(最近の読者のためという訳でもないが)。
・ Fela Kuti のファースト・アルバム "Fela Kuti & the Koola Lobitos" の「発見」。
10数年前に、それまで存在すら全く知られていなかったフェラのファーストを、アメリカで見つけた文献上で「再発見」し、それが最終的にリイシューにまで繋がった。文献著者(レコード所有者)との音源提供に関する実際の交渉は遠藤斗志也さんにお願いしたのだが、聴いた範囲ではこの録音のリイシューはどれも、この時のレコードの音が使われている。そうした意味では、多くの方々に喜んでいただけた「世界的発見」だったと思っている。
・ Hugh Tracey のリイシューを日本に紹介
オランダで始まった Hugh Tracey 音源のリイシューをいち早く日本に紹介。後日国内盤の発売に至った。
・ Analog Africa の紹介
以前からやりとりをしていた Sammy の興したレーベル Analog Africa をスタートする瞬間に日本に紹介。
・ ナイジェリアでカラバリ・ミュージックに遭遇
これは Konono no.1 以上の衝撃だった。
・ Fassiphone、Reggada、Jalal、Sutaifi を紹介
これらはフランス旅行中に偶然発見。自分が聴く以前にも Fassiphone や Jalal のCDは若干数日本に入っていたが、これらが一気に面白くなった瞬間をとらえて日本に紹介することができた。Fassiphone から出た El Anka のリイシューも日本で最初に聴き愛聴していたのではないかと思う。
こうして振り返ってみると、どこからか面白い音楽を見つけてくる嗅覚のようなもの、そしてそうしたものに遭遇したときの瞬発力のようなものが、幸いにも自分には備わっていたのだと思う。
先に括弧書きした通り、私は熱心な聴き手(コレクターやライターなど)に比べると音楽を聴く量(時間)は圧倒的に少ない。コレクター諸氏のように時間を費やして資料やネット情報に丹念に当たるといったこともまずしない。それでもこうした発見する喜びを楽しみ続けることができたのは、音楽に対するある種のセレンディピティを獲得していたからなのだと思う。
ただ、このセレンディピティが大きく働くことが、年々乏しくなってきたのではないだろうか。情報発信する限りは、他のメディアやブログなどでも取り上げるものについて語るだけでは物足りない。人と同じことをやるばかりでは、それは時間の浪費なだけだろうと思うのだ。
自分のサイトやブログは、他では紹介されていない良い音楽について語ることこそがその役割であり、また読んで下さる方々が一番期待されることでもあるだろうと思う。しかし、どうにもセレンディピティが発揮できない。自分のセレンディピティが反応するような音楽が、もうそれほど残されていないのではないだろうか。現実には良い音楽がまだある程度生まれ続けているのかも知れないが、そのような危惧が、自分の中で「残りもの感」を生むひとつの原因ともなっているような気がする。(※ 修正 2/2)
(年々ブログをアップしなくなってきたのも、ひとつにはここで書いた理由が作用している。また、Reggada や Jalal の音楽も、一面では「残りもの」の中で、ギリギリ快楽を呼び覚ますドラック性の高いものを紹介しただけだった、つまりは所詮は「残りもの」だったのかな、というちょっとした反省もある。)
(ついでに Fassiphone に関する余談を書くと、El Anka は自分は楽しんだが、紹介するまでの音楽ではないように思い、ブログではかすかにしか取り上げなかったはずだ。それが、日本盤が出て話題になったのを目にして、最初に抱いたのも「残りもの」が話題になっているという感覚だった。)
長々書いたが、この「残りもの感」を消し去るような素晴らしい作品に出会うことを、強く望んでいるし、そうしたものをまた紹介できる機会があれば、それは読み手の方々の期待に応えるものになるはずだとも思う。実は、自分自身が、そうしたことを一番に期待している。
(続く)
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※ これも、私論であり、その試論でもあり、また上手くも書けていない(ほとんど殴り書きレベル)ので、時々書き加えたり書き改めたりすることになると思います。悪しからず、、、。