2010年 02月 23日
Readings : 「word and sound」
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昨日購入した『音楽から解き放たれるために ──21世紀のサウンド・リサイクル』(原 雅明、フィルムアート社)を早速読み始めているのだが、最初の「word and sound」から微妙に興奮。結論たる「サウンドのリサイクル」という考え方は、まだすっきり腑に落ちて来ないのだけれど、そこに至るまでの記述には少なからず驚かされてしまった。
著者は、「「音楽」ではなく「サウンド」のことを想って」みてきたようであり、また、しょっぱなから引用されているのは、デイヴィッド・トゥープの『音の海』。昨年は「音楽」よりも「音」そのものについて思索し続けてきた私、また『音の海』に惹かれていた私と、どこかシンクロしているように感じられた。
なので、やはり読むべきかと思い、『音の海』を今、ネットでオーダー。
しかし、著者と私とでは、思考対象としての「音」の概念が一致しておらず、従って思考のベクトルも異なる。自分の場合は、著者が思考対象としているような「音響」に限らず、さらには自然音や都市ノイズ、そしてそれらの立体感にこそ惹かれている。そして、地球上の様々なバイブレーションと人体感覚との共鳴めいたことに最近は関心を持っており、そうした効果が生命体の快楽や安心感に通じているのではないだろうかといったことを考え続けている。
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実は、、、'Forest Beat'、'Desert Jazz' に続いて、3番目に用意した名前は 'Urban Noise' だった。
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もうひとつ関心を引きつけられた論点は、音楽評論/音楽を語ることについてのこと。近年、音楽に関わる記事やレビューが持つ諸問題について分かりやすく述べられている。特にディスクレビューに対する(私の)不満の原因についてうまく整理してくれていると感じた。また、そうした不満は音楽を愛する多くの人たちにとっても共通したものであることが、改めて伝わってきた。
読みながら思い浮かべた、ここ数年間ずっと頭の中にあることの断片たち:
・まるで全ての作品を良しとするかのように語るレビューの蔓延が、評論文離れを招き、それが自分の中で「残りもの感」を醸し出している。
・作品の中に良いところばかりを無理に探し出して綴られた文章に辟易している。音楽に関する文章の均質化、器用に文章をまとめる書き手が重用されていること、それが音楽雑誌を読まなくなった理由でもある。
・そうしたことはライナーを読んでも感じる。どの作品もが佳作/傑作であるかのようなマーケティング文章が、ライナーを読む気を失わせている。
・しかし、難のありそうな音楽でも、その中にプラス材料を見出す意味はある。
・例えば、バルク契約/バーター契約にも避けられない意味がある。
・また、書き手がつまらないと思っても、他人にとっては存在理由を持った音楽にもなりえる。
・近年は音楽のカタログ化に興味が持てない(基本的にはカタログ的文献自体は便利だと思っている)。それが最近の音楽書を避ける理由ともなっている。
・ジャンルによっては、売り手と語り手とが重複していることが、ひとつの障害を生じさせていると思う(ワールド・ミュージックなどマーケットが小さいものほど、その傾向が起きやすい)。
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ふたつのテーマとも、発想の大胆な転換の先にこそ、光明が待っているように思う。
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今朝も睡眠3時間で、頭が回らず、飲みながらでの軽いメモ。
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(追記)
ライナーノーツのパート、字が小さすぎてピントが合わない。年寄りには辛い。