2010年 10月 21日
Readings : トマス・ピンチョン『メイスン&ディクスン』
『トマス・ピンチョン全小説』の刊行が話題となり始めたのを受けて、その最初の配本『メイスン&ディクスン』を書店で手に取ってみたのは、確か6月末のこと。もしかしたら発売日だったかも知れない。ページを開いた瞬間に思ったのは「とても難解だ」ということ。想像以上に馴染みにくい文章/文体で、とてもじゃないが自分が読める本ではないことが、最初の1ページを眼で追っただけで分かった。
自分は子供の頃から本を読むことがまずまず好きだった。そして、これまでに小説は人並み程度には読んでいると思う。しかし、深く読み解く能力はないことを自覚している。単に好き勝手に読んで、好き勝手に感じるだけで楽しいのだ。それでも、この作品を読んでみようと思ったのは、それだけ難解であろうと「現代世界文学の最高峰」とまで呼ばれる世界に一度どっぷり入り込んでみる体験も面白いのではないかという考えが頭に浮かんだから。時間に余裕のある時期にこうした体験も悪くないだろうと思ったのだった。
高いのでまず「上巻」だけを持ってレジカウンターに向かいかけたのだが、結局「下巻」も一緒に買ってしまった。いや、正確に書くと「エコ・ポイント」で交換した図書カードで購入した。
最終的に購入を決断したのには、装丁の素晴らしさが決定打となった。こんな美しい本、滅多にないだろう。たとえ読むのを断念することになったとしても、部屋に飾るだけで、それ以前にこの本が部屋にあるだけで幸せな気分になるだろう。特にカバーに用いられたエッチング作品が素晴らしい。そんな風に、とにかく惚れ込んでしまった。
話の筋を大雑把に言ってしまうと、18世紀半ばに亜米利加の南北境界(と後になる)線を引くべく旅した天文家(メイスン)と測量士(ディクソン)の記録。その同行者が後年、孫たちに語り聞かせる、というだけの話。
さて、読み始めると、予想通りさっぱり前に進まない。その理由、
1)全編で当て字が用いられていて読むのに普通の本の数倍時間を要する、しかも毎度ルビが振られる訳ではないので、いちいちそれらを記憶していかなくてはならない。(→公式サイト の「七大長編書き出し全集」でも、その感じが伝わってくる。)
2)時制/場面の変わり目が明示されないことが多い。メイスンとディクスンのやり取り、他の人物たちとのやり取り、後の時代の語り聞かせ、等の場面転換が突然なされることも多い。
3)地理的な話などが図もなくなされるので、頭の中でイメージできない。
4)馴染みのない用語でも解説なくふんだんに使われる。
5)何度繰り返し読んでも意味が掴めない箇所が多い。
>6)ほどほど重要な同じ人物が、すっかり忘れた頃に再登場する。
上巻は幾度となく立ち止まったものの、最初の大きな舞台が南アのダーバンであったため、そのことに興味が湧いたこともあって、2ヶ月ほどで読了。しかし、下巻に入った途端にまたまた停滞の連続。さっぱり進まなくなった。同時期、アディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』とドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』を併読していたせいものあるのだが(3作品とも、覚えにくい/似たようなカタカナの名前がやたらと出てくる)。1日余裕があり調子に乗ると一気に70〜80ページ進んだ日もあったが、たいていはほんの数ページ読んだだけでヘロヘロ。気分転換に『カラマーゾフ』に切り替えると、すらすら読み進むというあり得ないような展開にすらなった。
『メイスン&ディクスン』も『カラマーゾフ』も傑作らしいが、どちらもただのドタバタじゃないかと怒り半ばの毎日。ほとんど苦行に耐えるような日々が続いた。それでも、終盤に至ってこの作品を読むことが楽しくなってきた。ということで、3ヶ月半かかってどうにか読了。
多く指摘されている通り、歴史、宗教、文学、地理、天文、等々の膨大かつ深い知識を駆使して書き上げた大作の面白さが十分に感じられる。特に最先端の宇宙物理学の研究成果をモチーフにして書かれたと推測するしかない文章も多く見つけられた。間違いないなくピンチョンは現代物理にも長けている。そして、古い文体の英語を日本語に移し替えるに用いられた翻訳手法の数々(=「読みづらさ」)も、ひとつの表現手法として評価すべきことが実感できた(しかし、最後まで、平易な文章で出して欲しかったという思いは捨てきれなかった)。
まるで聞いたことがないので、これは彼のでっち上げかと思って調べてみると、明らかに事実である名称や歴史をふんだんに用いて書いている一方、妄想/空想の数々にも楽しませてもらえる。人間より巨大な野菜が登場したり、作り物の鳥が語り、それに恋をする(?)など、奇想天外。読んでいて連想したのが、レーモン・ルーセルの『アフリカの印象』と『ロクス・ソルス』だったほど。しかし、レーモン・ルーセルのそれが、完全に空っぽなもので、読み手を全く豊かにしないのに対して、ピンチョンのそれは心に何かを置いてゆく(ルーセルを連想したのには、読むことが「苦行」であるという共通点を感じたから。ただし、ピンチョンの方がルーセルより100倍くらいキツかった)。
そうしたことよりも、さりげないユーモアにクスッとしたり、暖かいやり取りに心がほんわかとしたり。勿論、オチが何なのかさっぱり分からない章も多かったのだけれど…。
一番気持ち良くなったのは、寂れた道を歩いたり、寒空に光る星々を見上げたりすることが、昔からとても好きだということを思い返させてくれたこと。人気のない田舎道を独り歩いたり、アジアやアフリカの野原を彷徨い歩いたり、北海道でもバリでもアフリカの砂漠でも、ただただ星空をじっと見つめたりしては、いつも至福感に包まれていた。簡単に書いてしまうと、開拓の道行きに触れて旅心がくすぐられたということになるのかも知れないが、もっと深いところの琴線、自分が生きる根源的な楽しみにかすかに触れられてしまったような思いもある。
読了してから約1週間、再読する前に記憶に残ったことを反芻している。メイスンにしてもディクスンにしても、家族、伴侶、同僚、そして様々な出会いと偶然とに左右された人生だった。ふたりの仕事や出世から晩年の生き方に至るまで、そうした諸々からの影響は避けられず、思うようにいかないうちに生涯を閉じる。そんな誰にでも共通した人生の儚さや哀しさのようなものが、今、自身の心の中を漂っている。
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(最近の読後感想を、記憶がまだ鮮やかなうちに、軽く酔いながら綴り出してみた。もっと書きたいし、書こうと思って忘れてしまっていることもあるはずなので、思い出したらこっそり書き加えるかも知れない。→ 10/23 数カ所訂正)
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