2011年 01月 08日
◆ アフリカの地に堕ちて行く男たちの物語
南アのノーベル賞作家、J.M.クッツェーの『夷狄(いてき)を待ちながら』(集英社文庫)を読了。
・昨年読んだ『マイケル・K』、『恥辱』と同様、最底辺まで不条理に堕ちて行く男の話かと思って読んでいたら、違っていた。後半以降は異なる展開で、やがて主人公は出発点に戻っていく。
・その観点からは、あえて絶望を求めて行くような『マイケル・K』の理不尽な彷徨の方に圧倒された。
・読んだ3作品に共通するのは、信念を曲げることを「恥辱」と受けとめていること。いや、『恥辱』は恥辱に抗ってはいないか。
・クッツェーを読むと焦げるような感覚を覚える。太陽の暑熱を浴びるような。クレジオの『砂漠』にも共通するもの。
・ヴァン・デル・ポスト『カラハリの失われた世界』の砂漠空間を連想しながら読み続けた。この情景描写は風土のなせる技だろう。
読後雑感を書いてみようと思ったが、うまくまとまらないし、その時間があれば次の読書に進みたい。
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今日は、中村明一『倍音 音・ことば・身体の文化誌』と村上春樹『1973年のピンボール』も読み始める。『倍音』、かなり面白い。思考がどんどん連鎖していく。『1973年のピンボール』には「1986.5.15 読了」とメモ書きしている。『風の歌を聴け』より2年先。村上作品、この頃は遡って読んでいた。
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2011年も気がつけば一週間が過ぎていました。
年賀状/年賀メールを下さった方々、遅ればせながら感謝申し上げます。私は20年ほど前に、あるきっかけから賀状を出すことを止めてしまったので、今年も失礼いたしました。
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さてこのブログ、今年はいかに? 良質な音楽情報ならいくらでも手に入りそうなご時世、自分が情報発信する必要はさほど感じない。かと言って、無理してブログを止めることもないかと、このごろは考えています。
他人のブログを読まないのに自分は書くのは、矛盾しているのか? ブログは個人的な趣味・思考が綴られているから面白いのだと思うし、そうしたことに今関心が湧かないから私は読まないとも言えます。考えてみたら、定期的にチェックするのは友人らが近況を書いているものばかり。ならば自分のブログも、友人たちへの近況報告くらいの役割は果たしているのかも知れません。
ほとんどブログを読まない中、時々訪れていたいくつか、最近終了していました。ブログの更新をせずに、ツイッターに専念している方も多いように見受けられます。ブログを書いている暇がないのでツイッターに移行、というのであれば、それも理解できます。逆に、ブログを書くのが暇つぶしなら、ブログを読むのも暇つぶし、かとも。
私は今年も暇つぶし的に書くことになるのでしょう。気が乗ったらダラダラ綴り、飽きてしまったらしばらく休む。まともな文章は書けないし、書こうという考えもほとんどありません。暇つぶしとは言いながら、さすがにそれほどの時間はありません。かと言って、ただの日記やメモとも言い切れない。その役割は今はツイッターが担っています。
ならば何故空疎な文章をブログに放るのか? 再考すると、それは思索するきっかけを得るためでもあります。少しだけ自分に負荷をかけて書いてみると、アイディアが浮かんできたり、忘れかけていた記憶が蘇ったりします。それらがやがて連鎖していって、また新たな思考へと膨らんでいく。何か知恵の種のような物が得られたら、あとはもう頭の中で反芻すればよく、わざわざ思考過程を書き連ねる必要はなし。なかなか刺激的で楽しいことです。昨年から実質的にリタイア/隠遁生活に入っているようなものなので、人との会話が薄れた分だけ、思索を深める機会が減っています。ならば、書物や自己と対話する時間を作って、それを補う必要があるのかも知れません。
このように考えているので、今年も明快な文章や有益な情報を披露する機会は少ないだろうと思います。ほとんどが自分のための備忘録の積み重ねでしかないことでしょう。それでも、ここで暇つぶししようとされる奇特な方々には感謝です。