2011年 01月 09日
◆ 倍音が語る「人間と音/音楽との関係性」
中村明一『倍音 音・ことば・身体の文化誌』(春秋社)読了。
何度か書いているように、一昨年〜昨年前半の約一年半の間は、ほとんど音楽を聴かなかったり、あまり音楽を楽しめなかったりした。テレビやパッケージ・メディアの音が苦手になるのと同時に、森や砂漠の自然の音に浸りたい願望が強まり、都市空間の中のアンビエンス・ノイズでさえ楽しんでいる自分を発見した。恐らくは音に対して繊細になっていたのだろう。
しかし、昨年後半は自宅で音楽を聴く時間が増えた。とは言ってもCD1枚聴くかどうかといった程度の日が多かったのだが。それでも、音楽以外の音を恋いこがれる気持ちはかなり収まってきた。月2回が目標だった「週末旅行」が年末に向けて完全に失速した影響もあるのかも知れないが、もしかしたら音に対する感性が退化したのだろうか、もしそうならば何故か。いや、それ以前に、再び音楽を、それもこだわり続けたローカル・ミュージックやパーソナル・ミュージックではなく、アメリカのポップを中心に今聴いている理由は何なのか。
一昨日店頭でたまたま目にしたこの『倍音』という本、タイトルに惹かれ、そしてこうしたこの頃の疑問を解くヒントが得られるかも知れないと思って、読んでみることにした。
これが、大正解!
隅から隅まで面白かった。まず倍音の基本(基音、整数次倍音、非整数次倍音)をしっかり解説した後、歌手・芸人・政治家の声の魅力、視覚に対する聴覚の優位性、日本人と欧米人の脳の言語/音楽/自然音の認識方法の違い、日本の伝統音楽と伝統楽器の特質、そして現代日本の音楽教育の問題点まで、倍音をキーワードに、あるいは倍音から少し離れて、縦横無尽に語っていく。勿論、倍音だけで全て説明し尽くせる話などないだろうが、それでも「ひとつの可能性」以上の説得力のある論述ばかりであった。こうした説得力は、著者が尺八奏者としての実体験に基づいていることからも生まれているのだろう。
例えば、自分がスピーカーからの平面音響よりも、3次元的な都市ノイズに惹かれた理由のひとつは、倍音反射によって説明できる可能性がある。昔から日本語の合唱が大の苦手だった(聴いていると気分が悪くさえなる)ことにも、この本はひとつの説明を与えてくれている。環境音と音楽との境界をあまり意識することなく両者を楽しめることにも、倍音が作用しているのかも知れない。
私が日頃考えていることと、著者の考えとが、全く一致していることの多さも興味深かった。スティーヴン・ミズン『歌うネアンデルタール』、大橋力『音と文明』、小島美子の諸作等々、共通して読んでいる本が多いせいもあるのだろうし、同様の考えをしている人がかなり多数いることも間違いない。それでも、自分が何度も繰り返したフレーズ「人間にとって音、音楽とは何か」がずばり章立てされていたり、昨日の日記を後押しするかのように「自己とのコミュニケーション」の有益性を説いたりされていることも含めて、日頃自分が考えていることに対して勇気を得られた。
音響面から見ても欧米人が理解しにくい日本音楽が存在すること(その逆も真なり)、音を通じた非意識化でのコミュニケーション能力を鍛える必要があることなど、重要な指摘も数多。人間と音/音楽との関係性を考える上でも繰り返し読むことになりそうだ。
(読み始めてから気がついたのだが、中村明一は『「密息」で身体が変わる』の著者でもある。この本も一気に読ませる面白さだった。)
♪
♪
♪