◆ 純愛について語るときにパムクの語ること

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 オルハン・パムク『無垢の博物館』(早川書房)上巻・下巻、読了。


 読後の雑感(ネタバレするといけないのでディテールは省く)。


・オルハン・パムクが「純愛小説」を書いたのには驚いた。しかし、単なる純愛小説だけではない奥深さがあるはずで、これからそこを掬いとって形にしていく楽しみがありそうだ。毎回異なるタイプの作品を発表し、今回もいつくか実験的なことをやっている。偉大な作家は絶えずチャレンジするのだろう。

・とにかく長い(約800ページ)。カズオ・イシグロの『充たされざる者 The Unconsoled 』を読んでいるときと同様、終盤近くまで「早く終わってくれ」という気分で読んでいた。これは主人公ケマルが長年待ちこがれた心理を描くために必要な長さだったのか。それ以前に、とにかく作者が書きたかったのかも知れないが。

・憂愁(フュズン)もいつもより薄め。トルコの歴史やイスラムに基づいた風習を知っていたり、あるいはイスタンブールのあちらこちらを歩いたことあった方が、この作品を味わえるようにも思えた。しかし、パムクは国外の読者にも絶えず語りかけている。

・下巻に入って途端に話が深まった印象。ただ解消しなかったことも多い。訳者あとがきに「ヒロイン(…)の外見的特徴以外にケマルが恋に落ちる理由が明らかではない、という類の批判」もあったことが書かれているが(若い美女の身体に溺れただけという読み方もできる)、それよりも、このヒロインの心理が分からず読んでいて不安になった。彼女の心境の推移は本当なのか、思わせぶりなのか、それともケマルの妄想なのか。終盤でやっとはっきりするので、読み手を宙ぶらりんな気持ちにさせるのは作者の狙いだったとも読み取れる。

・自動車、酒、イヤリング、犬、等々の鍵が巧妙に散りばめられていて、終盤でそれぞれが生きてくる。ただし、少し安易な感じもするけれど。最大の謎もラストの4ページで種明かしされるが(それより前、ハイライトをなす「79章 別世界の旅へ」ですでに伏線、というかほとんど解決している)、それも『私の名は紅』や『白い城』の最終部に較べるとかなり弱い感じがする。

・読んでいる途中で結末は見えている。こうなる以外に終わり方は考えられない。けれども、こんなシーンにするとは。もう少し穏やかなものになる可能性も考えていたが、グレース・ケリーが出て来た時点でピンと来て、それがまさかその通りになるとは。少々新鮮味がないとも思ったものの、正直泣けた。

・ラク酒を飲むシーンがやたらと多くて、ラクをストレートで飲みたくなる。まるで、村上春樹を読んでいるとついついビールを飲んでしまうように。しかし、村上の場合はまだ爽やかさを残しているのに対して、ケマルたちの飲み方はもうダメダメ。ことある度に酔いつぶれ、仕舞には酔った勢いでセックスするような様なのだから。

・他にも、より本質的部分で村上春樹を連想させる要素あり。現在に立つ語り手が、過去に舞い戻り、そこから今現在までを辿っていく文体は、自分のような年代にとっては辛いものだ。村上の初期の作品群にしても、この『無垢の博物館』にしても、夢も若さももう取り戻せないことに、ただただ苦しくなるばかり。人生を失敗した末に「これから先の人生は自分にとってくだらない暇つぶしでしかない」という引用(上巻 P.258)もストレートに響いてくる。

・そう、主人公ケマルは人生の失敗者、ただのストーカーじゃないか。女主人公にしても失敗者。ケマルに夢も何も破壊されてしまった人生。妄想人、壊れたケマルから離れて見たら、何も救いのない話だ。

・けれども読んでいる途中から、女主人公フュスンに恋し、ケマルと一心同体になっていた。ひたすら悲しい。これまでの人生をうまく生きられなかった自分はケマルと変わらない。思わず涙がこぼれかけた。






by desertjazz | 2011-01-17 23:00
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