2011年 03月 23日
マレウレウ 〜 アイヌの蝶の子守唄(2)

これまでマジカルだと感じていたマレウレウのコーラスのしくみを理解できたのには、ステージでのマユンさんたちの説明を聞いたことが大きい。昨日少し書いた通り、基本輪唱であったり、別々の4パートの対比であったり、異なる2つのスタイルの融合であったりすることを、一曲ごと丁寧に解説していた。
もちろんそれだけですっかり分かったわけではない。だが、アンコール・パートの「ウポポ大合唱」に至って、そうした理解が一層深まった。客や他の出演者たち全員を4グループに分け、実際に合唱させるのだが、一緒に楽しみながらウポポを身体で覚えていくとても良い企画だったと思う。
(写真は入場の際に配られた歌詞カード。「ウポポ大合唱」の必須アイテム!)
それと同時に、やはり音楽は自ら歌い楽しむものだということについて改めて考えた。
この数百年間、人間は鑑賞芸術としての音楽を探求し続けてきた。だがその一方で、「自ら歌う」という音楽の本来的な意味が薄れ、自身の音楽すら失ってしまった者も多くなっている。
私は昔からピグミーやブッシュマンの音楽、あるいは親指ピアノの弾き語りが好きだ。それは音楽の根源的な魅力が伝わってくるからなのだと思う。また、沖縄の民家を訪ねれば三線で歌い踊る人々に出会い、リオの家ではサンバを朝まで歌うパーティーに誘われ、マルセイユでは地元のポリフォニー・コーラスで輪舞する輪に取り囲まれる。そのような生活の中に息づく音楽っていいなと素直に思うし、自分たちの音楽を持っていることをとても羨ましいとも思う。
マレウレウの歌を聴いて似たものを感じた。彼女たちは、アイヌの伝統を守り受け継ごうだとか、あるいは革新を図ろうだとかいったように気負うのではなく、元からあった地元の音楽が好きで、まずそれを楽しんでいる、そんな姿勢が感じられる。自分たちの生活の中にあった音楽を素直に楽しむ姿が、きっと他の多くの日本人たちにも伝播しているのに違いない。
彼女たちの音楽が持っている大きな強みは、何も準備なしに始められることだ。極言すれば楽器も電源も何もいらない。恐らくPAなしサウンドチェックなしでだってできるのではないだろうか。ただ軽く手拍子を打ちながら歌い出すだけでいい。
断るまでもないが、鑑賞音楽も、巨大コンサートも、クラブミュージックも、全く否定するつもりはない。パーソナルな音楽や生活の中の音楽と、その存在が相矛盾する訳ではない。ただ音楽が、生活の一部であったこと、自ら参加するものだったことから、ずいぶん離れてしまっていることを時々は振り返ってみてもいいのではないだろうかと思う。
マレウレウを聴いて、音楽はもっと身軽なもの、身近なものであっていいと、改めて感じた。世界のどこを訪れても、子供たちが遊びながら歌うのを耳にしては心が和む。子守唄は見知らぬ人が歌うものであっても心地よいものだ。マレウレウの歌は、子供歌や子守唄が持っている素朴な魅力を、私に思い出させてくれる。
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(続く?)
(昨晩アップした文章、読み直したらひどいもんですね。全部書き直したくなったけれど、最小限の修正に止めました。)
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