2011年 03月 25日
最近考えていること。「取り戻す」こと。
今年もマルセイユで Babel Med Music が開幕した(3/24〜3/26)。毎年春に市内港湾エリアの The Duck で行われる Babel はかなり規模の大きい音楽見本市で、今年で7回目。同じ会場で秋に開かれる音楽フェス Fiesta des Suds と対をなすイベントだ。どちらもワールドミュージック系アーティストのステージをたっぷり見られるし、友人知人たちとも会え、とても雰囲気も良いので、今年の Babel も行くかどうかかなり迷った。結局は見送ったのだけれど、結果としては行かないと決めて助かった。大震災の後では具体的準備も心の準備も出来なかっただろうと思うから。
中止になった先々週の「東本願寺」に限らず、自分はどうも音楽フェスとの相性が良くないようにも思う。本格的に最初に行った海外のフェスは 2003年のフランス・アングレームの Mettisse だったが、このときは目当てにしていた Issa Bagayogo がキャンセル、Orchestra Baobab はリハーサル後にステージが壊れて中止。他にもいつくかトラブルがあって、一体に何をしに来たのだろうかと落ち込みかけた。
これまで一番ショックだったのは、2006年秋の Fiesta des Suds での出来事。その日の夜のステージに立つ Cheb Mami に会わせていただけることになって、リハーサル前にバックスーテージで待っていたのだが、Cheb Mami 本人が一向に到着しない。ややあって届いた知らせは「逮捕された」という一報。その後のことはご存知の通り。
その Mami が23日に釈放されるという情報が一部で流れていた。本当であって欲しいし、彼の歌声はいつか生で聴いてもみたい。
そして秋になって Fiesta des Suds が近づくにつれて、フランスに行くかどうかまた迷うことだろう。フランスに行けば毎度何かを見つけられているし、フェスの主催者のひとりが毎年しきりに誘いのメールや資料を送ってくれることでもあり(写真は昨年郵送されてきた資料)、パリとマルセイユにはできれば年に一度は行っておきたい。そのためにも日本が早く落ち着きを取り戻してくれるよう願っている。
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ただ、3年前に Babel Med Music に参加したとき、海外のワールドミュージック・フェスティバルの類に来るのは、そろそろこれが最後だろうかと考えたこともはっきり記憶している。それは良い音楽をたくさん聴いて気持ちよいのと同時に、居心地の悪さも膨らんでいったからだ。
マルセイユを訪れる度に誰もが歓迎してくれるし、オクシタンの音楽にたくさん接して楽しくもある。けれど、これはどこか間違っていないだろうか?
思い出すのはインドネシア・バリ島のこと。これは以前にも書いたことだが、毎年のようにバリを訪れ現地の人々に暖かく迎えられる度に、自分が「よそ者」であることが段々辛くなってきた。バリで過ごすこと、ガムランを聴くことはとても気持ちいい。けれどもそれはある意味で表面的なこと、一種の逃げでもある。日本人である自分は、自らの音楽を持っていないからガムランに憧れるし、日本の中に心地よい居場所を見つけられないから時々バリに逃れてくる。
マルセイユでも同様なことを考えてしまった。わざわざマルセイユまで来て音楽を探すというのは、ここに住む人々や彼らの「ローカル・ミュージック」に対する日本人の甘えでもあるのではないだろうか?
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そんな思いは、一昨年〜昨年頃しばらく音楽を聴かなくなったり、以前ほど熱心にワールド・ミュージックについて語らなくなったこととも繋がっている。それらの一番大きな理由ではないけれど、小さな理由とも言えない。
世界の音楽を探求することは趣味としてとても面白いことだと思う。「グローバル・ミュージック」の時代でもあるので、そうした音楽は自由に聴かれ、自由に語られていいと思う。
その一方で、日本人が日常の中でともに歌う歌やローカル・ミュージックを持たないがために、世界中の音楽を大量に受容し、時に語りすぎる面もあるように思う。それぞれの音楽に対する敬意をしっかり持っていれば、そうした行為は悪いことではない。しかし、自分の歌を失ってしまったその間隙を埋めるために他者のコミュニティーの音楽が必要とされているようにも思える。そうした立場から、分かった気になって他者の音楽について語ったり評価したりすることは疑問に思う。ここ数年ワールド・ミュージックを聴けば聴くほど、そうした違和感のようなものがどんどん膨らんでいってしまって、どうしようもない。
ここ何年間か、そうした居心地の悪さをずっと抱えている。一番の理想は「自分の音楽」を取り戻すことだと思うが、それは容易ではない。と言うより、ほとんど不可能だろう。ならば、せめて少しでも自分の足下を見つめてみようと思い、日本の古い本を読んだり、これまで訪れたことのなかった土地を訪ねていったり、人から話を聞いたりするようにしている。
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ここでまた OKI さんと Marewrew の話に戻ってしまう。
OKI の "Tonkori" や "Marewrew" を聴いて素晴らしいと思ったのは、彼らが自身(アイヌ)の音楽を取り戻していることだ。自身のルーツを魂に取り込んで、そこから新しい次元に進んでいることに、ある種の感動さえ覚える。
日本人も自らの音楽を、いや音楽に限らない何かを取り戻せないものだろうか。大震災以来、ネットで時々「上を向いて歩こう」について語られているのを目にする。昨日はブラジルの Ivan Lins が歌った「上を向いて歩こう」が話題になっていた。聴いていて心が震えると同時に、このような曲の中にも何かを「取り戻す」ヒントがあるのではないかと感じた。とても漠然とした感想なのだけれど…。
これからも様々な音楽を聴き続けるだろうし、時々は海外にも行きたいと思う。それと同時に、もっと自分の足下を見つめて、取り戻せるものを見つけたいという思いも強い。
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追記
1) どうやら Cheb Mami は釈放された模様(→ 参考)。
2) 断るまでもなく、例えばガムラン研究家を批判しているのでも、海外旅行や海外移住を否定しているのでもない。
3) またこれも断るまでないが、音楽のグローバル化を否定するつもりも全くない。逆に未来の音楽の可能性はグローバル化に大きく依存しており、それについて考えることは自分にとっても興味深いテーマだと思う。
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