2011年 06月 11日
無価値化する世界(2): 3ヶ月目に
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日頃からなるべく禁句にしているのだけれど、このごろまた絶対的に時間が足りない。元々処理能力が乏しいくせに、それがアルコールのせいでさらに下がる。なのにやりたいことは増えるばかり。単にそういうことなのかも知れないのだが。
3.11 以降は、震災/原発事故関連で読んで調べて知らなくてはいけないことが多く、また今後の日本の姿やこれからの自分の生活について考えることにとても時間を取られている。本当のことがまだ掴みきれず、状況が悪化し続ける中、少ない時間がどんどん奪われていく感覚につきまとわれている。
より深く考え、そして行動することが必要なのだと思う。最早ブログをゆったり書いている時間などほとんどなくなっている。なので、またブログはしばらく休もうかとも考えている。更新頻度を下げる、あるいは短い日記程度に戻すことに留まるかも知れないし、明日から当面休止することになるかも知れない。繰り返しになるが、楽しい話をする以前に考えなくてはならないことが山積している。
( "Afro Latin Via Dakar" は、自分をアフリカン・ミュージックに夢中にさせた音源が詰まっているので、どうにか書き続けたいとも思うのだが、どこまでできるか分からない。)
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それにしても、放射線/原発事故関連の情報が多すぎる。東電+国の隠蔽体質とは対照的だ(隠蔽するからこその現象なのだろう)。専門家でもないので、とてもじゃないが全てをフォローすることは不可能だ。先日「徹底的にロジカルに考える必要がある」といったように書いた記憶がある。その考えは変わらないが、ある部分感覚的に捉えることの意味合いも感じている。
(予断になるが、今回の大震災の直前、私が「そろそろ大地震か富士山の噴火が起こりそうな気がする」と呟いていたことを知人から指摘された(なので、「また余計なことを言ったからこうなる」と叱られたのだが)。言いたいのは人間の予知能力の有無云々ではなく(個人的には「ない」と思っている)、どんなことでも起こりうるのだと「想定」する謙虚さが必要だということ。これが東電には全くなかった。)
あれこれ読み調べて分かってきたのは、人類終焉の可能性が高まった(あるいは、その日が早まった)のではないかということだ(明日でブログ止めるかも知れないし、今夜もたっぷり呑んでいるので、この際、一番危惧していることを書いてしまおう)。3ヶ月前に、「人類の歴史はせいぜいあと200年くらいなのではないかと、漠然と考えている」と書いたはずだ。それは即、生物としての絶滅を意味するものではない。具体的には様々な可能性が想像できるが、例え生き残ったとしても人類としての存在価値が喪失された姿が見えてくる。
(実は「200年くらい」と書いた後で、これは短すぎたかも知れなかったかと思い直した。しかし、紛争の拡散も大きいが、環境ホルモンの問題など無視出来ない要素が多すぎて、現状では近未来での人類の絶滅は不可避だろう。数百年単位なのか、数万年単位なのか、あるいはそれ以上なのか分からないが。
数学好きなので、いくつかのパラメーターを設定して計算しようとしたのだが、数式が複雑になり過ぎそうだし、こんな作業がアホらしくなって止めてしまった。)
そしてその前段階として、人としてのあらゆる営みが無価値化する世界があるのだと思う。福島第一原発からの放射性物質の拡散が止まらない状況下、その影響が地域的にも時間的にもどこまで進むのか想像がつかない。原発周辺は恐ろしいまでの時間スケールで生活不可能になってしまった。チェルノブイリと同様に、福島でも、これまでの生活が完全に破壊され、生きる気力や意味合いを失ってしまった人が多いのではないだろうか。
日本の現状を見ると原発が引き起こす「破局」は今のままでは間違いないなくやってくる。もしも別の原発が弾けたら、もう The End だろう。そうなると、生きることが無価値化されるエリアはどこまでも広がっていくことだろう。そしてそれは人類終焉のカウントダウンに繋がっている。
(「最悪の事態」について考え続けていると先日 Tweet したが、無価値化領域が拡大しそれが人類終焉を早める、これが私の考える「最悪の事態」である。もうワンステップ上の「最悪の事態」も想像したのだが、さすがに SF 的で、理論的にも可能性がほぼゼロだとも思うので書かない。
事故の直後、「最悪の事態」がメルトダウンと放射線物質の爆発的拡散であると咄嗟に考えた人も多かったのではないだろうか。私自身もそう考えたので、国家非常事態宣言が必要だなどとも書いた。パニックに陥ってはいけないと自分に言い聞かせていたものの、これは過剰反応だったかとも反省した。しかし、原発事故に関しては緊急事態宣言がなされていたことを後で知ったし、原発爆発で多数の人々が被ばくしてしまったことは最早取り返しようもない。
メルトダウンどころか、メルトスルーすら確実視されている。「最悪の事態」の正解が示されるのはまだ先なのだろう。)
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と、ここまでは長い前置き(それでも考えたことを半分も書けなかった)。
例えば、小出裕章氏の文章を読んでも絶望的になるばかりなのだが、それでも小出氏が諦めていないことが伝わってくる。未来への希望は捨ててはいけないし、可能性を諦めてもいけない。昨日各所で話題になった村上春樹のカタルーニャ文学賞受賞スピーチからも同様な姿勢が感じられる。
原発事故をきっかけに世界の多くの国々が脱原発に転じたことは大きな前進だ。日本でも同じことが市民レベルで、政治レベルで、萌芽し潮流が生まれている。そこに大きな希望を感じる。
いろいろ調べてみて、日本の原発依存率30%というのが真っ赤なウソで、原発全廃しても数字上は電力不足に陥らないことを知った(今も7割くらいの原発といくつかの火力発電が止まっていても問題なしなし)。原発は必要悪ですらないのだ。多くの人々がご存知の通り、間もなく石油が枯渇するというのも、原子力がエコだというのも、見え透いたウソ。
(ウチの月々の電気料金は2000円値度。関電が原発は必要だと騙すために15%の節電のキャンペーンを打ち出したけれど、こんなものにつきあう気など全くなし。これまで以上の節電は考えにくいので、「なんでん関電」の脅しは無視します。)
電力の供給能力だけに絞れば原発なしてやっていけることが分かったことに大きな希望を抱く。それを継続するためには、電力の送受分離と電力の売買自由化も不可欠で、市民運動がどこまで声を上げられるが、政治家がどれだけ腹をくくれるかにもかかっている。
破局を回避する可能性はある。まだ間に合うと考えられる。そこに希望と可能性を見出したい。
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呑まなきゃやってられない気分で書いているので、足りない部分は後日修正か追記したいと思います( → 少しずつ修正中。)。
(続く?)
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