読書メモ:アゴタ・クリストフ『悪童日記』3部作、カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』

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 アゴタ・クリストフ『悪童日記』3部作、先週読んだ『悪童日記』に続いて、第2部『ふたりの証拠』と第3部『第三の嘘』も読了。このハンガリー生まれの女性小説家/戯曲家は日本でもしばらく前に大ブームになったらしいがこれまで知らなかった。彼女のこの連作を読むきっかけは、彼女が今年の7月に亡くなったことから書店で平積み展開されていたのと、出版元がカズオ・イシグロの文庫と同じ早川の epi だったこと。

 最初の一冊『悪童日記』を読んだだけでは、世評ほどの大きな感銘は受けなかった。しかし、続編に繋がるようなカットアウトで終わっているため、必然的に続きが読みたくなってしまった。それで先週東京からの帰りに買った『ふたりの証拠』で、一気にこの世界に引き込まれることに。その勢いで『第三の嘘』まで読了。実に凄い小説だ。

 まず『悪童日記』からして、これまで読んだことがない類の作品である。至って単純な文章の羅列、そして稚拙ともとりうる文章と構成。だがそこに意味がある。それ以上に驚かされたのは、3部が時代に翻弄された双子の少年の物語であるという続きものでありながら、それぞれの構造やテイストが全く異なっていることだ。主人公や登場人物が同じであるのに同じでない。文体が共通しているのに全く違う。連続する話なのに完全に断絶している。

 著者が語るところによると、『日記』を書き終えた後に『証拠』に取りかかり、『証拠』が完成した後に『嘘』の構想が練られたようだ。実際『嘘』を読むと、プロットの構築に相当難儀しただろうと感じてしまう。ある意味三者三様、スタイルも内容もバラバラな小説なのだが、それでいて通底するものはしっかり感じられるし、3冊全体から届くメッシージも確としてある。

 一方で、『日記』に感動した人の中には『証拠』のラストのエピローグは読みたくなかった、あるいは『証拠』の凄さにひれ伏した人で『嘘』に裏切られた思いを否定できない、そんな読み手も少なからずいることだろう。正に、大どんでん返し連続の3作だ。都市伝説「どらえもん 最終回」的な展開と言える。

 この連作、1部と2部で時々話が突然飛ぶ。またそれぞれで女性がひとりづつ殺害されるのだが、その経緯も理由も全く書かれていない。愛されていた女性が殺害されること自体も不可解だ。しかし、2部『証拠』では、「日記」の作者が日記を頻繁に添削・削除したことが書かれている。ひょっとすると、抱いた疑問はこのことの表現なのかも知れない。しかし、殺人そのものに対する謎は謎として残る。

 印象的だったのは、2部『証拠』の P.166 の一節。

私は確信しているんだよ、リュカ、すべての人間は一冊の本を書くためだけに生まれたのであって、ほかにはどんな目的もないんだ。天才的な本であろうと、凡庸な本であろうと、そんなことは大した問題じゃない。けれども、何か書かなければ、人は無為に生きたことになる。地上を通りすぎただけで痕跡を残さずに終わるのだから。

 アゴタ・クリストフの作品は少ないらしい。多数の戯曲は残したらしいが。引用した一節はどこかしら彼女自身の生涯を表しているような感じもする。

 先週読み終えてすぐに1冊目の『悪童日記』はある人に譲ってしまってすでに手元にない。だが、この『悪童日記』は3冊一緒にしておいてあげるべき作品なのだろう。リュカとクラウスのように。




 長らく懸案だったカズオ・イシグロの全長編小説の再読、アゴタ・クリストフと同じ早川書房の epi文庫で、まず第1作目『遠い山なみの光』を読み終えた。

 カズオ・イシグロは『わたしを離さないで』で出会い強烈に惚れ込んで遡って読みふけた作家。特に『日の名残り』や『わたしたちが孤児だったころ』は大好きな作品だ。その一方で、戦後間もなくの日本を舞台にした初期2作『遠い山なみの光』と『浮世の画家』は習作的な捉え方をしていた。しかし、今回この長編デビュー作『遠い山なみの光』じっくり読み返してみて(一文々々を丹念に読み、その度に思考したため、1ページ進むのに5分以上かかったほど)、これが大変な高みにある小説であるとようやく理解できた。

 2組の母娘の境遇が、全く対照的であるようでありながら、ぴったりと重なり合う部分を感じさせる。その構造がまず鮮やかだと思った。

 読んでいて気になるのは、景子の自殺、二郎との別離、再婚し渡英(渡英して再婚か?)。しかし、これら3つの経緯と理由について一切書かれていない(景子の自殺に関しては若干の描写があるが)。これらに関して書くことをばっさり切り落とすことで、読み手の想像力を喚起し、2組の母娘の相関性を浮き立たせる手腕は見事。

 再読を始めてしばらくしてから、景子、ニキ、万里子の3人がイシグロ自身の反映ではないかと想定して読み進めてみた。これら3人の女性(少女)は母の渡英/渡米によってその後の運命を左右されかねない立場にあった。幼少時のイシグロも両親の渡英によって長らく自らのアイデンティティーに悩んだようだ。彼も、景子、ニキ、万里子のいずれかのようになった可能性があった、そんな意識が織り込まれた作品なのではないかと感じたのだった。勝手な解釈だったかもしれないが。

 文章が醸し出すモノクロ的な色彩にも惹かれた。まるで小津安二郎の映画のようなのだ。映画をほとんど観ない自分でさえ、そう連想した。実際、同様の指摘は多いようだ。なので多くは語らない。

 また谷崎潤一郎などからの影響も強く感じた(これもイシグロ自身が認めていることらしい)。現在すでに長編2作目『浮世の画家』の再読に移っているのだが、最初の方の節子と紀子の事情や会話などは、『細雪』の4姉妹、中でも二女・幸子、三女・雪子、四女・妙子を思い起こさせる(紀子は雪子と妙子のミックスといった感じか)。

 日本の映画や小説を連想させたのには、翻訳の良さも大きく影響していることだろう。文体からはまるで日本語がオリジナルであるかのうような雰囲気が醸し出されている。最適な訳者と出会った幸せな小説と言えるのかも知れない(この辺のことも、すでに多く語られているようなので、多言不要か)。




 2つのデビュー長編に対する、ひとつのちょっとした疑問。アゴタ・クリストフはなぜ少年を主人公にしたのだろう。カズオ・イシグロはなぜ女性を主人公にしたのだろう。著者と主人公のジェンダーに関するクロス関係に興味を抱いた。

 


 思えば最近は子供が主人公である小説を読み続けている。悪童日記しかり、先月読了したナボコフの『ロリータ』、ジョナサン・サフラン・フォア『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』もそうである。共通していることは、最も守るべき人から守られない子供の悲劇、守らんとする存在もいながら最後には守り切られない。そんな不条理さが前面に押し出された作品ばかりだ。その点ではカズオ・イシグロの『遠い山なみの光』もまた、守り切られなかった子供が主たる登場人物となる小説と言えるのかもしれない。

 世の不条理さに左右される子供が主軸となっている小説を、なぜ今読んでいるのか、そうした類の作品が実際多いのか、そんなことも考えているのだが、早々には答えが出てきそうにない。『ものすごくうるさくて、ありえないほど近い』が 3.11 以降話題になっているらしいが、この一冊を読んだだけでは、世の不条理さと関連づけて読む心理にはならなかった。しかし、こうして痛切な子供の悲哀を読み重ねることによって、言い知れぬ不安感が募ってきている。子供たちが世の動きに蹂躙されるのは、かの国の出来事ではなく、この国の問題ともなっている。優れた文学作品に接する喜びを味わうと同時に、近未来の予言書をひもとくかのような苦しみを味わってもいる。




 それにしても再読する作業は面白い。人にもよるのだろうが、一枚のレコードを聴いて最初からそれを理解し尽くすことは稀だと思う。一度聴いて全てを楽しみ尽くしてしまうような音楽は、結局はその程度に浅薄な作品なのではないだろうか。本当に愛するレコードは何十度、何百度と繰り返し聴く度に愛着が増し、人生を豊かにしてくれる。真に優れた文学作品なども同様の資質を持っていると思う。しばし考えただけでも再読したい書物が数えきれないほど浮かんでくる。それらを二読、三読する時間があるとは思えないことが悩ましいのだけれど。





by desertjazz | 2011-11-08 23:59 | 本 - Readings

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