2011年 11月 12日
読書メモ:カズオ・イシグロ『日の名残り』

カズオ・イシグロの長編小説3作目『日の名残り』、昨晩再読し始めたばかりなのに、あまりに面白いものだから、1日かからずに午後には読み終えてしまった。
「品格」を誇る執事が、グレートブリテン南西部をドライブ旅行しながら、自身を懐古する体裁をとったこの小説を読み直し始めて最初に思ったのは、自分もイギリスのこの風景の中を旅してみたいということ。けれど、実際そうしたとしても期待外れに終わるかのかも知れない。昔リバプールを歩いたときに、この街が時代から取り残された印象を受けたことや、その帰りに通ったイギリス南西部ではブリストルなどに特段の感慨を抱かなかったことを思い出した。
(そういえば、今日EMI買収の報道が流れた。これもまたひとつイギリスの凋落感を抱かせる話題だろうか。)
初読時には主人公スティーブンスのノスタルジックな語り、セピアトーンを思わせる陰影ある情景描写が印象に残ったのだった。しかし再読してみて、多様な要素が重なり合った複雑な構成の作品であることが実感できた。台詞のひとつひとつ、情景描写のひとつひとつに、深い意味があって、それらが精緻に組み合わさった全体像の見事さに息を呑むとともに、深く感動してしまった。これほど複雑な内容と示唆するものが深い作品を、主人公の語りのみによって成立させたのは見事だ。とにかく、登場人物それぞれの心理や、ものごとの裏表、虚と実を詳らかにしていく筆力は、ただただ凄いと言うしかない。
やはりスティーブンスの独り語りには『浮世の画家』の小野と似たものを感じる。些末なことながら、記憶の不確かさを前置いて語るところも二人一緒。この小説は舞台を日本からイギリスに置き換えた『浮世の画家』の別ヴァージョンとして捉えることも可能なのではないだろうか。カズオ・イシグロの作品はどれもが全く違っていてユニークだと語られるが、同質性や作品ごとの繋がりも見せる一作だったと思う。
小野に較べると、シリアスさよりもユーモアに満ちていることを楽しませる作品になっている。ジョークがジョークになっていないユーモア、会話がことごとくズレまくっているおかしみ。白眉なのは「国際会議」の日で、まるでドタバタ劇だ。「自然の神秘」や「足のマメ」のギャグのような落ちは何たることか。作品が語りかける深さとの対照ぶりには笑うしかない?
スティーブンスは過去を振り返って、様々なことを悟り語るのだけれど、常に肝心なことが欠落している。どこまでも鈍感さが消えない。女心もまるで分かっていないのだから。隠れて泣くミス・ケントンを慰めようと意図した言葉も、まるで逆効果であることに気がつかない。こんなところも、悲しみでありおかしみでもある。
ミス・ケントンの迷い、心の揺らぎの描きかたが何とも凄い。彼女の心証をスティーブンスの懐古する台詞として、あるいは彼女が他人(婚約者)の言葉として語らせるやり方は実にうまいと思った。
焦れったさも時折顔を見せ、フラストレーションを感じさせる。これは、フラストレーションの我慢の限界を超えた1000ページ近い大著である次作『充たされざる者』(1995年)への予兆なのだろうか。
それにしてもエンディングのシーンがたいへん美しい。読み手に対して人の生き方について問い続けてきたこの作品が、著者の答えを示すと同時に、読み手に再度その答えを考えさせる終わり方だ。ここまで辿り着いて、後から「あそこはそういったことだったのか」と、一文々々の意味が染みてくる。全く凄い小説だ。
そのエンディング、最後の最後で、またジョークについて真面目に考え語るという落ちで終わっている。感涙していいのか、笑って読み終えたらいいのか。「ジョークの練習」は、この6年後に不思議なジョークが炸裂する次作『充たされざる者』の前触れであるかのようだ。
#
#
#