読書メモ:カズオ・イシグロ『わたしたちが孤児だったころ』

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 カズオ・イシグロの第5長編小説『わたしたちが孤児だったころ』(2000年)読了。


 読後に浮かぶ感想は「なんて悲しい小説なんだろう」 ただただそれに尽きる。


 この小説はこれまでの作品よりももう一段深いものを目指して書かれたのものなのではないだろうか。それは部分的には成功しており、部分的には至らなかったように思う。

 これまでと同様、主人公が懐古的に語るスタイルであるだけに、彼の語ることにどこまでリアリティーがあるのかと考え続けさせられた(そこが、イシグロ流のリアリティー/ノンリアリティーとしての迷いを浮かばせるのであり、「過去を捏造する」と語られる所以でもあるのだろう)。そして最後には、主人公(大物探偵)がそれほどの大物なのかという疑問を抱かせるのだった。こうした主人公の特徴は『浮世の画家』の小野や『日の名残り』の執事のようでもある。

 不成功に終わっていると思うものの一番は、サラ・ヘミングスの扱い。彼女が随所で登場する役割がよくわからなかった。特に「マカオ行き」の一件では、主人公のダメさ加減は度を超しているようで、いくつかの解釈のどれを取るか迷ったままだ。

 引き取った孤児ジェニファーの効果も薄いのではないだろうか。小説のキーターム「孤児」の象徴であるはずなので、もっと厚く書かれていてもおかしくないのではないだろうか。

 ただし、主人公にもジェニファーにもイシグロ自身が投影されている感はある。イギリス、中国、日本、香港、カナダなどが舞台となり、イギリス人と中国人と日本人が交錯する(フランス人も出てくる)。そこに著者の経歴について考えてしまうが、初期2作に較べるとアイデンティティーへの迷いが払拭され、自己の立ち位置がより作品に活かされている感がある。

 終盤、戦場に舞い込むシーンはもっと激しかった記憶がある。なので、初読時は主人公の妄想のようにも感じた。だが読み直してみるとかなりリアルな書き方がされている。再会したアキラはアキラではないという感想は変わらず。


 少々細かなことをいくつか。

・イシグロ作品では、どれでも「肩をすくめる」という表現が頻繁に現れる。これは英文学では常套句なのだろうか。

・イシグロ作品を読み続けて気がついたのは、妙にませた子供がいること。これは村上春樹の小説を読んでも思ったこと。例えば『羊をめぐる冒険』でも『海辺のカフカ』でも『1Q84』でも。これほど大人ぶった子供ってあり得るのだろうか?

・村上作品との類似性では、どちらもとても音楽好きだということ。ふたりの対談でも小説のことより、ジャズについて話していたらしい。


 ついでにひとつ余談。『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド 』を読んだときの発見(ブログを再読しているのだが、それが何だったかまだ見つからない)と同様なものに気がついた。「モーガンブルック&バイアット社」が一カ所だけ「モーガンブルック・アンド・バイアット社」なっている(P.44)。一文一文を頭に刻み込むごとく精読していたからのことだろう。


 様々なことを考えながら再読した小説だった。疑問やモヤモヤした感触も度々だった。しかし、最終部でこれらが一気に払拭された。終盤での謎解き、核心に迫る筆致は凄まじい。とにかく凄い小説だ。もしかするとカズオ・イシグロの作品の中では最も語られることの少ない長編だったり、評価がさほど高くない小説だったりするのかも知れない。それでも、個人的には一番に惹かれる作品だと思う。荒削りで未完成に思える部分があっても、それを補って余りある独特な魅力を感じる。


 それにしても、なんて悲しい小説なんだろう。心がヒリヒリし出して、耐えられなくなる。まるで Joni Mitchell のアルバム "Blue" を聴いている時のようだ。



 いや、もっと書いておきたいことがあったような気がする。後で書き加えるかもしれない…。





by desertjazz | 2011-11-27 21:00 | 本 - Readings
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