2012年 10月 15日
読書メモ:池澤夏樹を読む

近頃はじっくり小説を読むような時間がなく、ブログに読書メモを残しておきたい作品も少ない。今は旅に関する文献を漁るように目を通す合間に、アフリカや音/音楽に関する書物を少しずつ読み進める程度の読書が続いている。今年は福永武彦の全集を読み直す考えもあったのだけれど、それにも手つかずのままだ。
そのような中、最近一番興味深く読んだ小説は池澤夏樹の『静かな大地』だった(福永の代わりに、その息子を読んだ訳では勿論ない)。北海道静内に入植した開拓民とアイヌとの美しい交流を描いた長編小説。自身にとって土地勘のある舞台だけに懐かしい気持ちで読めた。しかし、実際の歴史の通りアイヌと和人との関係は悲劇的な方向に進む他ない。なので読んでいて心が痛くなる小説でもあった。
この作品の「語る」スタイルの構成が成功しているかどうか分からない。またどこまでが実話でどこまでが創造なのか判然としない作品は個人的に苦手でもある。それでもこの小説には魅入られた。かつてのアイヌの生活も彼らとの関係ももう取り戻しようがないが、それでも今の時代に改めてアイヌの知恵に学ぶべきところは多いと思う。アイヌ民話も久し振りに読み返したくなった。
人間と自然との関係や人間の振る舞い方を問う姿勢は池澤作品に一貫していると思う。中でも『母なる自然のおっぱい』と『楽しい終末』は今こそ読み返すべき作品なのではないだろうか(いずれも約20年前の文章が集められている)。ふとそう思ってこの2冊、安い古本を見つけたので買ってみた。先に読み終えた『母なる自然のおっぱい』は途中から物足りなくなってしまった。だが、著者の危機感がより詳らかに書かれているのは後者の方だろう。そう考えながら読み始めたところだ。
辺見庸さんの著作も相変らず出れば買って読んでいる。辺見、池澤の両氏は人類の行く末に対して時に厳しい見方や表現もするが(今年出版された『瓦礫の中から言葉を―わたしの<死者>へ』も『死と滅亡のパンセ』も極めて痛烈だった)、それは彼らが猛烈な危機感を抱いているのと同時に、未来に対する希望や願いを失っていないからなのだろう。昨年日本が重大な一線を超えてしまった後に『楽しい終末』を読むのは予言書を紐解くようで怖い気もするが、まずはなるべく前向きな姿勢で読んでみようと思う。
ところでこの『楽しい終末』、つい最近、中公文庫から復刻された。やはりこれは、池澤のような観点こそ現代社会が必要としている証拠なのだろうか。
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補1)『静かな大地』を読みながら常に頭にあったのは近年のアイヌ音楽の好感的な受容状況。ただし短絡的には結びつかない。
補2)辺見 庸『明日なき今日 眩く視界のなかで』が出た。今日買いに行こう。読めるのは帰国後になるだろうか。
補3)『楽しい終末』はまだ読み出したばかりなので、著者のスタンスが明/暗(希望/絶望)のどちらなのか分からない。それでも余生の生き方のヒントのようなものが何か得られるだろう。
補4)『楽しい終末』は旅先で置いてくるつもりだったが、鋭い指摘が多く、すでに Dog Ear だらけ。困った。
- 「成長があたりまえとなっている社会というのは、言ってみればネズミ講のようなもので、最終的には帳尻が合わない日が来るのではないか」(P.29)
- 「もうしばらくすれば核は必ずしも国家にばかり属するものではなくなるだろう」(P.46)
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