森と砂漠(分藤大翼の『アフリカ、森の民の音楽と食事』展 - 追記)

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 映像人類学者・分藤大翼の『アフリカ、森の民の音楽と食事』展の会場に並べられていた本の中で気になった1冊、『インタラクションの境界と接続 ―サル・人・会話研究から―』(昭和堂、2010年)をネットオーダーしたら早速届いた。ピグミーやブッシュマンい関する書物は和書・洋書を問わず割とマメにチェックして集めているつもりだけれど、このタイトルでは気がつかなかった。

 まずは以下の4章から目を通してみることにしよう。

 ・相互行為のポリフォニー―バカ・ピグミーの音楽実践(分藤大翼)
 ・「Co-act」と「切断」―バカ・ピグミーとボンガンドにおける行為接続(木村大治)
 ・バカ・ピグミーの歌と踊り―演技技法の分析に向けて(都留泰作)
 ・相互行為を支えるプラグマティックな制約―セントラル・カラハリ・サン(高田明)




 分藤大翼さんが制作された作品『Wo a bele』、その中でもとりわけ、ある男が手作りのギターを爪弾くシーンを見て思い出したことがある。それはカラハリ砂漠で過ごしていたある日、ひとりの老人が親指ピアノを弾き語っていた情景だった。


 野禽たちの悲しげな声とそれらがたてる土ぼこり、はぜる熾き火から舞い上がる煙、見知らぬ虫たちの奏でる細やかなさざめき。そこに交わる大地が放つ独特な熱と香り。空気の粘り着くような濃密さを皮膚が感じ取る。様々な音が漂っているのに、音という音がことごとく吸われて消えてゆくかのよう。騒々しいのに静かという不思議な感覚。

 どこまでも真っ直ぐな地平線に太陽が沈み、満天の星が煌めく宵を待つばかりの頃、古老が自らで組み立てたのであろう垢くれた親指ピアノをひとり爪弾いている。馴染みない侘しげなマイナーコード風な音。その音律の動きと響きに妖艶味と言葉にならないようなかすかな不安定感のようなものを覚える。

 カラハリの乾いた空気に流れるその音にただただ耳をまかせる。次第に心の動きがすっと沈み込んでいく。何もすることがない。何かをしようと考える必要がない。このまま音が消え去り、そして時間までもが止まってしまいそう予感すらする。寂しさばかりの世界なのだけれど、なぜだか幸せな感情が満ちてくる。

 音に満ちた静寂という矛盾した言葉が自然と浮かぶ。ここからどこへも帰らず、ここで生命が終わってしまっても構わない。そんな安堵すら覚えたのだった。




 森と砂漠とでは相違するところが多い。しかし、人工物をぬぐい去り、そこに身を預けることで何かを思い出すこと、身体が喜ぶことは、ほとんど共通しているのではないだろうか。いつのまにか忘れ去ってしまった大切な感覚のようなものが蘇ってくる。森と砂漠は自分の心身を浄化してくれる空間なのだと思う。

 ピグミーの森を実体験することは恐らく夢で終わるだろうし、ブッシュマンが暮らすカラハリ砂漠をもう一度訪れることも難しい。けれども、森と砂漠は地球のあちらこちらに広がっている。しかもそれぞれが個性的な味を持っている。その空間に身を預ければ、身体に快感が蘇り、心に入ったひびを埋め、忘れかけた生体/動物本能を取り戻させてくれることだろう。

 ピグミー本を読んで森での疑似体験をするのも楽しいが、本ばかり読んでいないで、そろそろまた実際に森にも行ってみようと思う。






by desertjazz | 2013-02-27 00:00

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