2013年 05月 25日
プルースト前/プルースト後
どうやら「プルースト前」「プルースト後」といった考え方があるらしい(?) つまりは、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読んだことがあるかどうかによって、文学作品の読解の仕方や、表現方法、感じ方などが違ってくる側面があるということ。それを捉えた言い回しなのだろう。確かに「20世紀フランス小説の最高峰」と讃えられるだけあって、「プルースト的」といったように参照・言及される場面に度々出会う。また数多の文学作品にも多大な影響を及ぼしており、実際そう感じる文章に巡り会うことも多い。確かにこの作品を読んでおく意味はとても大きいに違いない。
自分にとっては、プルーストを読んだ後で何か変わっただろうか? 5ヶ月間かけて完読した余韻のようなものがいまだに残っているが、ひとつ大きく感じるのは、自分の内部に抽き出しのようなものがたくさん生まれたということである。『失われた時を求めて』はとにかくありとあらゆる要素から構成されている。しかもそれらは単線的にストーリーを描くような並び方をしていない。そのために、それらのひとつひとつが自身の体内の各所に保存され、常に参照できるよう控えているような感覚がある。結果、何らかの価値ある蓄えを無数に分散して蓄えもっているとでも言うのか…。
今年の黄金週間、『失われた時を求めて』集英社版13冊の各巻末にあるエッセイ13篇をまとめて読んでみた(これだけでも100ページくらいある)。四方田犬彦、姜尚中、加藤周一ら13人の作家や識者が様々な角度から『失われた時を求めて』を見つめて語っている。その間自分は「そうだよな。そうなんだよ」と呟きながら。この作品は、読者が100人いればそれぞれがまた100通りずつの語り方が可能なほど、とても複雑なものなのだと思う。
読み終えた今も、体内にストックしたパーツを縦横に組み合わせて反芻し改めて味わうという楽しみが消えずにいる。そのような知的作業を通して生まれる出るもの、それは人によって異なり、またいくらでも組み上げ可能だろう。文学論、絵画論、建築論、色彩論、服飾論、貴族社会のありかた、旅のスタイル、食べること、ジェンダーや同性愛の問題、ユダヤ問題、戦争論、老いの哲学、人間の二面性の、等々と実に数限りない。そればかりか、もっともっと細やかな襞を織りなし重ね合わせることで、この超大作の中に別の新たな構造を見出し思索することも可能となる。自分にとって言えば、音が誘起する潜在的記憶のことがとても興味深く思える(果たしてそうかな、と批判的にも考えながら)。プルーストが語ったところを、また別の読書体験や実体験と照らし合わせることによって、新たな発見が待っているようにも思う。
『失われた時を求めて』という作品は、ただ読んで面白かったというに止まらず、こうした蓄えももたらしてくれる。それゆえ、その蓄えを思い出し活かすためには、繰り返し読むことが望ましいのだと思う。一度読んでそれっきりというのでは勿体ない。それほどに圧倒的な読書体験だった。
しかしそれだけに、読み終えた後の消耗は激しかった。連日朝5時頃に読み始める日々。深夜寝るのが遅くなっても、翌日は早起きして読み続けた。そしてとうとう読み終えてしまったという脱力感。疲れ切ったこともあるが、次に何を読んだらいいのか分からないというのが正直なところなのだ。ならばすぐに今度は岩波版で2周目に進んでもよさそうなのだが、さすがに今はそんな気力も体力もない。おかげで今月は読書がさっぱり進まなくなっている。
もうひとつ、自分にとっての『失われた時を求めて』は「ヴェニス体験」だった。だが、ここに書いている文章がうまくまとまらないため、ヴェニスの話まではなかなか辿り着けないでもいる。
(つづく?)
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