2013年 10月 27日
読書メモ:Tony Allen + M. E. Veal "Tony Allen : An Autobiography of the Master Drummer of Afrobeat"
これから読む方の楽しみを奪ってもいけないので、具体的な引用は極力避けています。興味ある方にとって何かご参考になればと思います。
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(以下、主に Twitter からの転記/修正。)
1) トニー・アレンの伝記本は、トニー本人からマイケル・ヴィールに相談した企画だそう。イントロダクションには、トニーは名料理人だとか、ハイハットを多用することでハイライフのドラムスタイルから先に進んだだとか書かれている。
2) トニー・アレンの伝記本には写真もたっぷり約30ページ。でもフェラ・クティが1枚もない!徹底している!?(それとも別の理由があったか?)
3) トニー・アレン伝記本、本編はトニーのピジンまじりの英語をマイケルがリライトしており、平易な語りなので、英語が苦手な私でもサクサク進む。1ページ目からユーモア効いたエピソードの連続。
4) ドラムを始めるまでの経緯が詳しい。最初の楽器はアギディグボ / ラジオ修理技師のかたわら週末はDJとして E.T.Mensah、Ramblers、Stargazers、Bobby Benson などをプレイ / そして運命的出会い…、などなど。
5) トニー・アレンは Peter King からも教わった / 5時寝8時出勤に耐えられずプロのミュージシャンに。それにしても彼の父は理解あるなぁ(アマチュアながらも演奏者だったからか?)
6) 1965年にジャズ好きという繋がりでフェラとトニーが出会い Koola Lobitos 結成へ。ジャズを演奏しても受けなかったので、ハイライフ・ジャズを編み出したという経緯も詳述。71年までフェラはバンドの楽器をほとんど持っていなくて、その間何とボビー・ベンソン (!) から借りていた!
7) 60年代のガーナのハイライフ・シーンが詳しく描かれている。トニーが憧れたのは Uhuru Dance Band のドラマー Rim Obeng だった。P.60
8) フェラの金銭的だらしなさが具体的に書かれている。トニーが胃潰瘍で2週間の静養を医者から言われた時にも無理矢理ステージに連れてこられた。金と音楽のどちらを取るか迷ったトニーは音楽を選択した。バンドを抜けようとした時、フェラは赤ん坊のように泣き叫んだ、とも。
10) 第4章、1969年6月いよいよアメリカへ。ラゴスを離れたのには、ガーナの上級警察の妻たちに手を出して?トラブルになった G.Pino がそれから逃れるためのラゴス進出もあったが、ビアフラ戦争も影響した。戦時下っdの凄惨な殺し方についても書かれている。P.68
11) 69年、DCに飛んだが用意されていたのはナイジェリア人向けのパーティーだけ。西海岸でも誕生会や結婚式のパーティーばかり。何しにアメリカに行ったんだ? ずっこけるよなぁ。
12) VC7 はフェラ抜きの Koola Lobitos で、リーダーは Isaac だとはっきり書かれている。これは新事実?(音を聴けばフェラが参加していないのは明らかだったけれど)P.61
13) 60年代レコーディング時のフェラの完璧主義が凄かったらしい。小さなミスも許さないので1曲録音するのに何時間かかるか分からなかったとか。P.??(何ページだったかな?)
14) 69/70年のアメリカ滞在中 JBに会いたかった/ライブを観たかったが叶わず。
15) アメリカ体験を通じてトニーのドラムスタイルは大きく変化した。マイルスやコルトレーンとの共演歴もある Frank Butler から「朝起きたら1時間枕を叩く、それを1ヶ月続ける」とアドバイスを受ける。それを成し遂げて成果が出た。
16) アメリカに行くまでフェラはタバコを吸わず、メンバーが吸うのも好まなかった。それが変わったのはサンドラからの影響。トニーは葉っぱはやっていたが、ヘロインは知らなかった。
17) アメリカでは常にステージが入っていたわけではなかったので、トニーはいろいろな仕事(主にエンジニアリング)をして稼いでいた。ジャズを断念したのは、聴き手にアフリカ人の演奏という先入観を持たれたから。
18) アメリカ滞在は2ヶ月のつもりが10ヶ月に。帰国を決めたのにはビアフラ戦争終結も作用。フェラに「帰ろう」と言ったのはトニーだった。
19) フェラたちのアメリカ体験は散々だったと語られてきたし、この本でも人種差別の具体例が割合長く綴られる。けれども悪いことばかりではなかったんじゃないかな。トニーは仕事、滞在ビザやグリーンカードまで用意して帰国を引き止められたくらいなのだから。
20) アメリカから戻りバンド名を変更。フェラの音楽も変化。要素が多すぎるとの Wandell からの忠告に従って曲をシンプルにしたことが良かった。P.85 フェラが作曲する様子が具体的に描かれていて、これがいい。その姿を想像してニンマリしてしまう。P.92
21) 70年にJBたちがナイジェリアに来た時、JB本人はライブを観に来なかった。Bootsyのコメントがいいネ!P.85,86
22) 最初は警察の人間たちもフェラのファンだった(批判の対象になっているのに)。内容を恐れたポリグラムのA&Rは "Zombie" を出したくなかった。この傑作アルバム、危うくお蔵入りだった!?
23) 米ツアーに帯同したダンサー Dele は、現在 Ebenezer Obey の奥方(のひとり)。さすがにこんな話は初耳!
24) 長時間プレイし続けられる理由を問われて「姿勢を正しているから」と。他のドラマーは無駄に激しく動いていると批判も。'... I wanted to be a smooth drummer.' P.90 '... keep the groove instead of accenting so much' とも。P.92 なるほど。
25) フェラがどうやってジンジャー・ベイカーと出会ったかは分からない。それについてはフェラは話してくれなかった。P.94
26) 「1973年こそが本当にクレイジーネスの始まりだった」さてこの先どうなる? P.96
27) Africa 70 に在籍しながら自身のソロアルバムを作り始める話は P.105 あたりから詳しく語られる。
28) 「オレが神だ」話。この時点でもうヤバくなっている。メンバー名をナイジェリア流に変えたのは76年頃。トニーは自分の名前を変えてクレジットされることには反対。P.106
29) 77年のカラクタ攻撃はフェラに対して精神的にも相当のダメージを与えた。ただ、一方的な攻撃だったのではなく、フェラ側にも大きな問題があったように読み取れる。P.115/116
30) 77年、デッカとの契約は1年の8枚のアルバムを制作するというもの。かねてから伝えられている通り、レコーディングされたもののいまだにリリースされていない音源があるようだ。P.118
31) ベルリン・ジャズ・フェスティバル出演に用意された金は何と25万ドル! 実際必要だったのは 28人だったが、フェラは 71人を連れて行った。ここから、トニーがバンドを去る決意をするに至るあたりまでが自伝中の白眉。P.118〜122
32) トニーがバンドを去った3つの理由。P.123/124
33) ダブル・キックドラムの試み、シンセサイザーの導入、Roy Chicago のクラブでのリハーサル、フェラがトニーのソロ活動をスパイ、「自分で歌い始める」というフェラの予言、Propeht 5 を買うときにイミグレにアドバイスされた話。
34) グラストンフェリー・フェスでの共演を求められながらも、結局は酷い仕打ちを受ける。その根底にはフェラの嫉妬があった? P.148
35) トニーがいなくなったバンドへのフラストレーション。P.150 など
36) フランスに残るために2度目の結婚。P.159
37) 父の葬儀でのフェラの態度があまりに非人間的すぎる。この事件がトニーのフェラに対する姿勢の2度目の決定打になったようだ。P.159/160
38) 初来日した時の話も。「会場はスシ詰め。演奏が終わっても客が皆はけるまで出られなかった」(今はなき渋谷 La Fabrique でのことだろう。地下のフロアにはドラムキットに密着するように客が入った。確かに客がそこを離れるまで、トニーはイスから立上がれないほどだった。)「日本食大好き!スシを食べ始めたら止まらない。いつ止められるか知るのは神のみ」とか。P.180
39) La Fabrique ではジャックダニエルのボトルを握った彼と差しで飲み、某国某所では2人きりになったときに「This is special」と囁きながら、怪しい煙を燻らせていた。懐かしいなぁ。また会いたい。
40)終盤はドラッグ話が結構長く続く。パリ時代初頭にナイジェリアのヘロインを売って喰いつないでいた話も出て来る。自伝全編を覆うのは金で苦労した話。それでも幸せだったと語る彼の人柄が伝わってくる。
41) 近年の活動に関してはデイモン・アルバーンのことを大きく評価(感謝)している。
42) バンドの演奏については全てのアレンジを指示するなど異常に細かかったフェラ・クティも、トニーの演奏パートだけは全て彼任せだった。そのことも繰り返し書かれている。フェラとトニーとは互いを認め合う関係だったことがしっかりと伝わってくる。
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