
塚田健一の著作を集中的に読んでいる。先日の
『アフリカ音楽学の挑戦―伝統と変容の音楽民族誌』に続いて、『世界は音に満ちている』 (2001年) と『文化人類学の冒険 人間・社会・音楽』(2014年) を一気読み。ガーナやザンビアを中心としたアフリカの音と音楽を巡る考察を期待して読み始めたのだが、1993年以降月刊誌に連載したエッセイをまとめたものだった。内容は多岐に及び、『世界は音に満ちている』では日本への深い憂慮にも至る。
「日本は明治期に持ち前の器用さでほかに類を見ないほどの速度で短期間にその近代化を成し遂げ、西洋文化をたくみに摂取してきた。ところが、どうも日本人はこの明治期の「西洋」という衝撃に対して、自分を表現するよりも、むしろそれに「のみこまれる」ことになかに精神的な安堵を見いだしてきた観がある。(...) この近代日本精神史のなかに見え隠れするごまかしが結局集団としての日本人を西洋に対して根源的に自信のない国民にしてきたと僕は考えている。」(P.166)
「(...) 複数民族とはいえ、日常的にそうした共生感覚をほとんどもち合わせていない日本と日本人は、そして一国のなかで他民族と共生することを暗に拒んでいるようにさえ思える日本と日本人は、いつしかそのためにたいへんな精神的・物理的代償を支払わねばならなくなるかもしれない (...)」(P.180)
「では「日本人は社交が下手」という海外での定評はどうなのだろう。そのぎこちなさこそ、まさに歴史のなかで他民族と共存・共生することを学んでこなかった民族の精神的風土が創りあげたものなのだとぼくは考えている。」(P.183)
電車の中での携帯電話による「かなりプライベートなゴシップ」のやり取りを観察して、「その共同体に生きる人々にとっては、その共同体の外に住む人々はあっていないも同然の存在、見えて見えない存在なのだろう。そうした共同体の自己中心主義あるいは自己完結性は、たぶん今日の若い人々の生活感覚をまことによく反映したものなのだろうと思う。」(P.210)
(音/音楽に関しては、パリのオペラ、ジャコモ・マイヤーベーアの「アフリカの女」をとっかかりにしたワールドミュージック都市パリについて (P.40) や、バリの竹細工ピンジャカンと欧州のカリヨンとのサウンドスケープ的同質性について (P.56) などに興味を覚えた。)
続編作『文化人類学の冒険 人間・社会・音楽』においても、「国際的な場で通用するような会話力や社交術、国際常識やエチケットなどを身につけた人材を、日本が今後あらゆる分野でどんどん輩出するようにならないと、日本は世界の趨勢から完全に取り残される、ということを言いたいのである。世界のリーダー格気取りでいると、気がついた頃には中国にも韓国にも先を越されて、日本はいずれ世界のなかで「平凡な三流国」に転落してしまうだろう。」(P.104-105)
研究書ではなく、著者が感じたことを綴ったエッセイである分、果たしてそうかな?と思う指摘も多いが、氏の危惧するところは現状ますます悪化しているように思う。特に「平凡な三流国」に転落するという予言には完全同意。いや、すでに転落している?
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塚田健一はかつて、クラシック音楽の成立以降、音楽を「演奏する側」と「聴く側」に分離してしまったことを批判的に書いていたことを思い出した。その点で自分は彼の論から多分に影響を受けていると言えるだろう。
この機会に『アフリカの音の世界 音楽学者のおもしろフィールドワーク』 (2000年) 、『アフリカ音楽の正体』(2016年) 、坂本龍一との共著『commons: schola vol.11 - Traditional Music in Africa』(2012年) も読み直してみよう。
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