アフリカの記憶 073

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 Ethiopia / Addis Ababa 1997


 私が海外を巡り歩く時、何の因果か毎度過酷なこととなりがちである。特に 1990年代は、砂漠(カラハリ、中国西域、メキシコ、エチオピア)と熱帯(ザイール、インドネシア、など)への旅が多かったので、ある程度必然だったとも言いうるが、実際はそれ以上のものだった。中でもこのエチオピアでの彷徨は、とりわけタフさを要求されるものになった。

 旅の起点、北部の町メケレ Mekere に着くなり、強烈な腹痛と謎の発熱 38.8度(無理しすぎなのか、海外出張で40度前後の熱を出すのは度々のことなのだが)。ここからダナキル砂漠 Danakil のアファールを目指したが、聞いた話によると30年振りの大雨で、道が崩れた岩で埋まっていて思うように進めない。まるで道を切り開きながらの移動になり、目的のアファールに着く前に途中で時間切れ。ガルルタでテントを張って一晩ビバークするも、深夜に豪雨に襲われ、危うく濁流に流されそうになった。テントの位置が数メートル違っていたら、果たして今生きていたかどうか。

 翌日ようやくブラハレ Berhale に到着。メケレからわずか 120km移動するのに2日を要した。しかし、ここから先の道は軍が閉鎖していて、目的地まで辿り着けず。アファールで切り出される岩塩の通商も半年途絶えているという。確かに塩の集積地メケレの市場は寂しかった。

 ダナキルの岩漠に留まっている間も、周囲を軍人たちがうろつき回り、ミリシア(民兵)も見え隠れし、自分のような素人でも反政府組織の者が存在している気配さえ感じ取れる。実際のところ、この頃はアファール反政府組織の活動が活発な時期だったようで、振り返って調べてみると、ダナキルに来るには最悪のタイミングだった。その証拠に、帰国後ほどなくしてエチオピアとエリトリアとの間で戦争が勃発。そして、滞在していたメケレも爆撃されたことを報道で知ったのだった。

 アファールから退却してからも悪いことが続き、ここに書けるようなことは何もない。まさに「空白の旅」となり、写真を撮る余裕などほとんどない毎日だった。そのため、この「アフリカの記憶」エチオピア編に何か文章を添えるのは難しかったし、そうした気にはなれなかった。

(それと、カラハリとエチオピアの写真の何枚かは、それだけに何かを物語っているのではないだろうか。拙い写真ばかりだが、私個人としてはそのように思う。)

 それでも、エチオピアを旅することができたのはとても幸運だったし、数々の情景を今でも記憶している。4000m級の峠越えから一気に海抜下の低地まで下り降りるドライブ。その峠で停車した時に空気の薄さをリアルに実感。海面下数10mに立った感慨。デセ Dese から走り、アファールの州都アサイタ Asayta に至る茫漠とした景色。海岸から延びるハイウェイを、高速で走り抜けるジブチからの大型トラック群。病みつきになるインジェラの旨味/臭みとローカル・ラムの味わい。過酷な時空を共にしたエチオピアの仲間たちの穏やかな人柄。デブレ・ビルハン Debre Birhan の通りに集う素朴な人々。その先、デブレ・シナ Debre Sina で出会った牧場(まきば)の少年、突然現れた野生の猿たち、そして何よりアンコベル Ankober からの大絶景。ほぼ垂直に 1000m切り落ちた下のゴマ粒のような民家に目を凝らし、アフリカ大地溝帯の雄大さを実感したのが一番の感動だった。

 メケレの街で撮った写真はないし、首都アジスアベバの写真もこれ1枚だけ。アジスでレコードを探す時間も、ライブを観に行く余裕も全くなかった。エチオピアを北へ東へ南へ、1ヶ月で実に 7500kmも走行した。それでもラリベラの教会群はまだ訪れていないし、アジスでもゆっくりできていない。何より、この旅の「空白」を埋める為にも、エチオピアをもう一度訪ねたいと、ずっと願い続け、また丹念に下調べを重ねている。






by desertjazz | 2020-07-25 00:00 | 旅 - Abroad

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