Houcine Slaoui : The Father of Moroccan Chaabi <2>

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■ホスィン・スラウイの生涯

 ここ10年間調べた限り、ホスィン・スラウイに関する日本語文献は皆無。英語によるものも非常に少ない。例えば、あの重厚なラフガイド "The Rough Guide to World Music - Africa & Middle East" の最新版(2006年の第3版)でさえ短く(P.255 におよそ1行のみ)記載しているだけと、実に素っ気ない。彼に関する記述をネットで探索してみても、少ないばかりか、明らかな誤記や相矛盾する記述が散見する。

 そのような訳で、ホスィン・スラウイについては本当に分からないことばかりだ。経歴についても判明したことは少ないが、読むことのできたいくつかの仏語文献やアラビア語記事の情報を整理しつつ、まずは彼の生涯を辿ってみよう。


 ホスィン・スラウイ Houcine Slaoui(Hocine Slaoui)の本名は Houcine Ben Bouchaïb。1921年にモロッコの王都ラバトの隣町サレ Salé で生まれ、1951年4月16日に30歳ほどという若さで、同じくサレで亡くなっている。「スラウイ」という後年の呼称(芸名?)は、この生地「サレ」が転じたものだという。

*Houcine ではなくHocine と綴られることも多く、フランスで発売されたレコードのほとんども Hocine と綴られている(初期のSPには Houssine と、モロッコで発行された記念切手では Houssaine と綴られたこともある)。一方で現在モロッコでは、Houcine と綴ることが普通のようだ。Houcine にせよ Hocine にせよ、元々アラビア語の発音をフランス語表記に置き換えたものだろうから、どちらが正しいとは言い切れないと思う。

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*Houcine の発音は、モロッコでは「ホスィン」「ホシン」「フスィン」に近いようだが、フランス語だと「フーセィン」といったようにも聞こえる。SP盤の冒頭に録音されたクレジットはどれも「フスィン」「フーセィン」などに近い。ローマ字表記が [ou] であることも含めて考えると、「フスィン」の方が整合性の取れているようにも思える。しかし、いくつか見たモロッコ制作のビデオでは、ナレーションもインタビューの誰もが「ホスィン」(稀に「ホゥスィン」)と発音しており、2012年にフェズで行った現地聞き取り調査でも「ホスィン」に近い「ハスィン」だと教わった。よって、日本語表記はモロッコで馴染まれているらしい「ホスィン」とすることにした。

*生年を1918年(や1920年)とするものもあったが、これは誤りだろう。細かい理由まで書かないが、1921年生まれと判断してまず間違いないと思われる。


 幼くして父と兄を失った少年ホスィンは、母と6人の姉妹を支える立場に置かれた。だが、彼は早くから音楽に目覚め、コーラン学校に通ってイスラムの教えを学ぶことよりも、サレの広場で演じられる音楽や大道芸の方に夢中になった(それらの中でも、後述する「ハルカ」という大道芸から多くを吸収し、Boujemâa Farrouj と Moulay al Bouih という2人から多大な影響を受けたと伝えられる)。そのため母親はずいぶん気を揉まされたとか、自転車のブレーキワイヤーを使った手作りの弦楽器を演奏していた、といった逸話も残されている。

 そんなホスィンは、12歳の時に母の苦言に耐えかねて家を飛び出す。そして、ハルカの演者として生きる道を選び、トルバドール(吟遊詩人)のような生活を始める。この12歳という時分には、ハルカ・グループの一員としての野外でのパフォーマンスですでに注目を浴びるなど、地元ではずいぶん早くからその存在が噂になっていたらしい。

 その後、カサブランカでしばらく生活し、(一説によると)14歳頃にはウードを携えてパリに移り住む(皮なめし職人の見習いとして生計を立てていたという話もある)。このパリで1937年夏に万国博覧会が開催されたのだが、北アフリカ文化を紹介する一例としてハルカのグループがパフォーマンスを行った。その中の一人が若きホスィン・スラウイだった。「メロディアスな声とムラートの顔色」を持つ彼は評判を呼び、即座にレコーディング契約を申し込まれたほどだったという。

 さらに、20歳からは作詞と作曲も始め、音楽活動をより本格化させる。だが、第2次世界大戦が拡大・激化したため、モロッコに一度帰国することに。そして、その戦争でパリが解放された 44年に再び渡仏。ここでパテ・マルコーニ Pathé Marconi と契約を結び、レコーディングを重ねたのだった(1948〜50年の3年間)。

*ただし、14歳でパリに移住したというのは、どうも怪しい。パリに渡ったのは 42年頃で、それはあるフランス人ピアニストからの助けを得られてのことだったとも言われる。また、ホスィンの息子ムハンマド・スラウイは「1941年にモロッコで初録音、42年に初めて渡仏、一時帰国中に3曲目を録音し、44年に再びパリに渡った」と、最近のインタビューで答えている。なので、最初のフランス行きに関しては、こちらが正しい可能性もある。果たして実際はどうだったのだろう?(14歳で海を渡ったとするのは早すぎるで、様々な話が混じり合っているように思える。パリ万博の時に注目されたとしても、それはモロッコでの関連イベントの時だったとは考えられないだろうか?)

 (参考)https://aljadidnews.ma/archives/2020/05/10876/?fbclid=IwAR09DUGnR7XoIIWKAUytZGB7uPZzzZcRFYNQg2NjgqP1-lZw6jiovM8bv3g

*初録音は22歳の時であり、44年に発売した “Zine ou Layn Zarqa” が大ヒットしたと書いているものもある。同じ44年には彼の最高曲 "El Maricane" を録音したという記述もあった。なので、仏パテ時代以前にもレコーディングを行っていたようなのだが、確認には至らなかった。


 一方、レコーディング・スタジオの向かいにあったキャバレー Cabaret d'Alger を拠点にライブ活動も行なった。パリ時代、こうした場においてヨーロッパの音楽を吸収し、エジプト、アルジェリア、チュニジアなどの音楽家たちとも交流を重ねて、スラウイ流のシャアビを確立していったのだろう。中でもチュニジア人の Mohammed Jemmoussi (1910-1982) やアルジェリア人の Missoum といった音楽家たちと親交を深めたという。

 このように彼の音楽は、ライブ演奏によってパリに暮らすマグレブの人々に親しまれ、録音作品を通じてマグレブ諸国に広く行き渡った。そして、人々から愛され、やがて彼は「シャアビの父」とまで呼ばれるようになったのだった。

 しかし、1951年、謎の病に侵されたスラウイはモロッコに帰国。国王ムハンマド5世からの経済的援助も虚しく、故郷のサレで亡くなった。中毒死や自殺だったとする説もあるが、死因は謎。毒殺説が根強く、彼が大成功したことへの嫉妬が死をもたらしたとも囁かれた。


 ホスィン・スラウイはわずか30数曲の録音だけを残し、30歳(あるいは 29歳)という若さで世を去った。彼の写真を探したのだが、見つけられたのは3枚ほど。実際その程度しか現存していないのかもしれない。シャアビという大衆音楽のスタイルの開拓者、数少ない録音とポートレイト、そして謎の早逝も含めて、ホスィン・スラウイはまるでロバート・ジョンソンを連想させるミュージシャンだ。



(*「後述する」と書いた「ハルカ」については、次回解説します。)


(続く)








by desertjazz | 2021-04-02 00:00 | Sound - Africa

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