Houcine Slaoui : The Father of Moroccan Chaabi <15>

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■もうひとつのストーリー

 この連載の第13回で触れた疑問について再検証してみよう。

 様々書いてきた中で、現時点までに確定できずにいる主要なことは次の2点。

(1)ホスィン・スラウイのフランスへの渡航年
(2)彼のパテ・マルコーニでの録音期間(初録音年と録音総数)

 これまでは Ahmed et Mohamed Ehabib Hachlef による "Anthologie de la Musique Arabe (1906-1960)" (Centre Culturel Algérien / Publisud, Paris, 1993) のディスコグラフィーに基づいて、ホスィン・スラウイのパテ録音を整理してきた。しかし、この本のディスコグラフィーはかなり厳密さに欠けることが段々分かってきた。

 そこで、このディスコグラフィーのデータはひとまず措いておくとして、それ以外の情報から最大公約数的なホスィン・スラウイの履歴/録音歴を描くとどうなるだろうか。

 まず、14歳の時にパリに渡ったのかどうか。そうだとすれば、彼は 1921年生まれなので、それは 1935年頃。しかし、12歳で家出したことを考えると、幾ら何でも早すぎるのではないだろうか。37年のパリ万博で彼のパフォーマンスが着目されたのが事実であったなら、それはとても魅力的な逸話ではある。パリで職人として稼いでいたという具体的記述も目にしたので、まだ完全には否定できないのだが。

 14歳で渡仏したとする記事を除くと、多くは、スラウイがフランスに渡ったのは 41〜44年だったとしている。モロッコでの音楽活動が認められた彼は、パテからも評価を受け、それで 41年か42年にパリに移動し、即座にパテへの録音を始めたのではないだろうか。この流れだと経歴がスッキリするし、実際こうだった可能性はかなり高いように思える。

 #5. Azin Oualain (El Maricane) は、1942年11月の米軍モロッコ上陸による世相悪化を受けて書かれた曲。ならば、これがレコーディングされたのは、43年か44年と考えるのが順当だろう(42年の録音と書かれているものもあるが)。先のディスコグラフィーには 49年に発売と書かれているが、だとすれば再発だったということか?(少なくとも再録音とは考えにくい。)そもそも SP の再発というものはあったのだろうか? 録音場所はモロッコかパリか? 多々疑問が浮かぶ。しかし、今に至るまで評価の高いこの生涯の名曲を、彼が録音し残せた諸条件を想像すると、やはり 42年までにはパリに来ていたはずだ。

 ただ、第二次世界大戦の状況が悪化する最中、パリでポピュラー音楽のレコーディングが普通になされていたのだろうか、この時代にモロッコで出張録音のようなことは行われていたのだろうか、といった疑問は残る。その辺り、詳しいことを知る方からのご教示を願いたい。

 考えてみると、この大名曲を書いたのが 42年暮れだったとすれば、スラウイはまだ 21歳。その早熟ぶりに改めて驚かされる。

 ホスィン・スラウイは 1948年から 50年にかけてパテ・マルコーニに 33曲録音したと書いてきた。だが、#5. Azin Oualain (El Maricane) の録音年を 42年頃へと前倒しすると、他の曲群の録音時期/発売時期についても、再検討する必要が生まれるだろう。

 つまりは、これまでの記述とは異なるもうひとつのストーリーが考えられはしないかということだ。彼の録音は 48年〜50年に集中していたのではなく、40年代(41年頃から50年頃まで)を通じてなされたのではないだろうか。その方が自然に思えるし、40年代初頭の録音に関して随所で言及されていることとも辻褄があう。

 こんなことをずっと考え続けており、これまでに見つけた文献を再読/再検証し、彼の経歴に関しては継続調査したいとも思っている。だが、「リアル・ストーリー」の探求は、あくまでも個人的興味の範囲内に収めておけば、それで十分なのかも知れない。そもそも、ほとんど誰も知らない音楽家についてのバイオなのだから。初録音が何年であろうと、それがモロッコでのことであろうとパリであろうと、彼の録音の全てが40年代から50年にかけてなされたことには変わりはない。そんなことに関心を持つ人もいないだろう。なので、何れにしても大差ないことなのかもしれない。

 もうひとつ。"Anthologie de la Musique Arabe" が厳密さに欠けるのだとすれば、彼のパテ録音は 33曲に止まらないと考えても良さそうだ。これまでに紹介して来た通り、このバイオから漏れているらしい曲がいくつもあったので、それは尚更だ。もしかすると、彼の録音は 40曲を超えていたのではないだろうか? そのように希望を込めて考えてしまう。

 まあ、何が真実なのか、まだよく分からない。だが何より重要なのは、ホスィン・スラウイは恐らく 40年代前半頃にパリに移り住み、そこで 40曲前後の貴重な録音を残し、それが後年のモロッコ音楽へ多大な影響を及ぼしてシャアビの礎ともなったということである。



(続く)




(追記 2021/04/15)


 #6 "Ahdi Rassak" という曲は、モロッコの現地レーベルからも SP 盤としてリリースされていたことを思い出した(Moroccophone 980:『第5回』の記事に追記) 。『第13回』で取り上げた Dust to Digital 盤 "Kassidat : Raw 45s from Morocco" の解説によると、60年代にカサブランカでレコード・レーベルが相次いで誕生し、7インチを大量に制作した。それがモロッコにおける音楽産業の先駆けだったと思っていたのだが、どうやらそれ以前にも Moroccophone のようなレーベルが存在していたようだ。そして、そのレーベルから #6 "Ahdi Rassak" の SP がリリースされていたことから想像するに、ホスィン・スラウイの録音も #1〜 #6 くらいまでは現地レーベルからも SP で出ていたとは考えられないだろうか。

 さて、この "Ahdi Rassak" なのだが、これは Pathé 盤より先か後か? 40年代のモロッコにはレコーディング・スタジオがなかったとするならば、これは Pathé から配給を受けた音源のコピーだろう。反対に Moroccophone 盤が先ならば、その録音は 49年より早かったことになるだろう。再三触れているディスコゴラフィーが信頼できる根拠として、Matrix Number が妙にほぼ連番になっていることだ。実際手元の SP 盤と照合すると、記載されている数字は全て正しい(曲名がことごとく間違っているのにも関わらず)。なので、一連の録音はある時期に集中的に録音ないしは発売されたと考えたくなる。そこで類推したのは、これら Pathé 盤の多くはリイシューなのではないかということ。

 結局のところ、この「後先問題」はいくら考えても解決しない。だが、どちらだったにせよ、ホスィン・スラウイの初期の録音が 48年より前であった可能性は幾分強まったように思う。この探求、さらに続けることにしよう。






by desertjazz | 2021-04-15 00:00 | Sound - Africa

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