読書メモ:Sandra Izsadore with Segun Oyekunle "Fela and Me"

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 サンドラ・イザドレ(イザドル?)の著書 Sandra Izsadore with Segun Oyekunle "Fela and Me" (Kraft Books, badan, 2019) を読了。

 サンドラはフェラ・クティに多大な影響を与えた黒人女性である。ブラックパンサー党に属していた彼女は、1969年に渡米したフェラと出会い、すぐさま恋人関係になり、そしてフェラに対して黒人の価値を重視する思想を植え付けた。また、ジンジャー・ベイカーがフェラ・クティと共に制作したアルバム "Stratavarious" (1972) やフェラの "Upside-Down" (1976) でヴォーカルを担当したことでも有名だろう(ちなみに、彼女は2度結婚しているため、本やレコードによってクレジットのファミリーネームが異なっている)。

 そんなサンドラがフェラとの関係や個人的な思い出を綴った本を出すので、これは必読と思い、19年秋に出版されると同時に探し続けた。しかし、販売されたのはナイジェリア国内のみだったらしく、どうしても手に入らない。そこで Facebook で繋がっているサンドラさんご本人にメッセージを送ると、「近々北京に行くので、その時に何冊か持って行くわよ」との返事。しかし、そのためにわざわざ中国まで行くわけにもいかず、"Fela and Me" を手に入れて読むことは半ば諦めかけていた。

 ところが、エル・スールの原田店主にさりげなく相談すると、「今帰国しているナイジェリア人に頼んでみよう」という話になった。そこで、あまり期待せず待つことに。それから1年近く?、どうにか見つけられたと連絡があり、今月ついに待望の一冊を手にすることができた。ヨルバ人の彼曰く「レゴスでもなかなか見つからず、今はもう手に入らないよ」とのこと。改めて感謝!


 さて、この "Fela and Me"、個人的に関心の深いフェラ・クティの話とあって、ほとんど一気読み。フェラ・クティやアフリカン・ポップに大きな興味のある方ならば、軽く目を通すだけでも色々発見があるかと思う。ただし、ナイジェリア政府との対立、カラクタ襲撃、それによる母の死、27人のダンサーたちとの結婚、国際メガカンパニーへの強烈な批判、等々については具体的には何も書かれていないので、ある程度予備知識がないと理解できない部分も多いだろう。

 通読して面白かったのは、やっぱりフェラとサンドラがLAで出会う序盤、サンドラ初のナイジェリア滞在、そして76年と81年の再会について書いた中盤(第17, 18章あたり)だった。正直なところ、それ以降は物足りなかった。

 サンドラがこの本を書くことを決めた動機としては、これまで事実と異なることを散々言われ書かれたことから、自分自身が真実を語ろうと考えたことが大きかったようだ。


「フェラは未成年をレイプしたと書かれたけれど、あれは私が18歳の時に自ら身体を捧げたものよ」(第1章)


 ちなみにサンドラにとってフェラは最初の男性だったのだそう。彼女の性生活に関しては、結構明け透けに書かれている。それにも関わらず、プライベートなことについては全ては書かないとも。

 序盤では、彼女が人権意識を深めた過程、父も彼女もなかなかスピリチュアルだったこと、フェラと出会った成り行きなどについて、割と詳しく書かれている。フェラがマルカムXやマーティン・ルーサー・キングなどから影響を受けたことは良く知られているが、その詳細について語られることは、これまでなかったかと思う。それだけに、具体的には誰のどのような言動に強く感化されたかについて興味を抱いていたものの、残念ながらこの本にもそこまでのことは書かれていない。ただし、彼女がフェラたちのライブを観た時の次のやりとりはなかなか面白いと思う。


「サウンドはとてもいいのだが、歌詞内容を尋ねるとスープについて歌っていると言う。そう聞いて大爆笑。それはあなたの才能の無駄遣いよ。あなたは音楽を使って黒人たちを教え諭さなくては」(第5章/P.41-42:やや意訳)


 実際、アメリカに渡る以前のフェラ・クティはアフリカに対して批判的で、白人社会を上に見ていたようだ(だから、ロンドンに留学し、ジャズに夢中になったのだろう)。それに対して、サンドラは彼に読むことを勧める。

 フェラたちのLA滞在はあまり成功しなかったとこれまで伝えられてきたが、その詳細についても書かれている。ディズニーランドで演奏する話もあったが、契約に至らなかったとも。労働ヴィザを持っていなかったことが大きかったようだが、ジャズの本場アメリカにアフリカからやってきてジャズ(的な音楽)を演奏したところで、それが評価されるとはとても考えにくいだろう。

 第9章以降しばらくは、1970年にサンドラがフェラを追ってナイジェリアに行ったこと、それは内戦直後で困難を伴ったこと、Afro Spot と Shrine のこと、フェラの家族たちのことについてたっぷり綴られる。フェラには何人の子供がいたのか、またあれだけの数の女性と結婚していながら子供が少なかったのは何故なのかといった、かねてからの個人的疑問についても、一応の答えが書かれている。

 その後、レゴス滞在が限界に達して(違法滞在だった)、サンドラはアメリカに帰国するのだが、その後のことについて書かれた第17章は壮絶。ナイジェリアから帰国した日、自宅で3人組に銃を突きつけられ、そして・・・! 生涯最悪の悲劇に襲われる。それ以来、黒人より白人と一緒にいるようになってしまう。また、拳銃を所持し始め、それを幾度も使うことにも。それがまた別の悲劇を招く。まるで映画のような展開だ。

 続く第18章では、カラクタ襲撃によって母が殺されたことに負い目を感じ落ち込んだフェラの様子が描かれる。サンドラは 1976年に再びナイジェリアで過ごすのでが、その時にはカラクタもフェラもすっかり変わってしまっており、恋人関係も解消されていたようだ。それでも、1981年にフェラからパリに呼ばれ求婚された。しかし結婚には至らなかった(その説明にはとても納得がいく)。

 中盤過ぎからは、サンドラによるナイジェリアとアメリカの政治や人権をめぐる状況の分析が多くなり、そこにフェラが続けた闘争の評価を絡めて綴られる。そのようなこともあって、やや面白みに欠ける内容が多かった。

 そうした中でひとつ興味深く思ったのは、ミュージカル "Fela !" について繰り返し言及し、しかも意外なことにとても高く評価していることだった。このミュージカルの制作を知った時、彼女は最初激昂し、またプロデューサーの中心にかつてフェラが激しく糾弾したゴールドマン・サックスの Steve Hendel がいたのにも関わらずだ。「結果が良ければそれで良し」というスタンスで、高評価する理由も詳しく語られる(思うに、このミュージカルがアメリカ人に向けたアメリカからの視点だったこと、そのためサンドラを讃える側面が大きかったからなのかもしれない。いや、このミュージカルにはサンドラが描かれていただろうか? あとでビデオを観直して確認しよう)。

 著書全体としておおむね時系列に語られるとは言え、話が急に変わり易く、また繰り返しが実に多い。なので、正直構成が良くないと感じた。例えば、フェラのブツが「黒くてデカかった」と何度も何度もしつこく語られる一方、あまり興味の湧かない女性同士の諍いや不和についてもしばしば書かれている。

 何より感じられるのは、サンドラという女性の「強さ」だ。そして、フェラと真剣に愛し合ったこと、彼の思想を方向付けたという、強烈な自負心である。この本はほとんどそれだけで成り立っていると言っても過言ではないくらいだ。

 それでも、これまで知らなかったエピソードも随所に登場するので、興味深く読める部分も多い一冊ではあった。どこまで真実かという疑問も一部に残るが、フェラ・クティ研究の上で貴重な資料とは言えるだろう。


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 貴重な写真も数々掲載されている。少女時代やフェラと出会った頃のサンドラはとても可愛い。20代は飛び切りの美人だし。フェラがいかに女性たちからモテたかという話もたっぷり。





 ところで、2005年にナイジェリアを旅した時に訪れた New Shrine の中には、祭壇のような一角があり、そこに供えられていた/飾られていたものがそれぞれ何なのか謎だったのだが、それらについても今回読んでわかった。(例えば "Fela Egypt 80" original signage だとか。興味のある方は P. 109 をご一読を。)

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##以下、個人的に興味を持ったところについて軽くメモ(ネタバレにならない範囲で)。

・フェラが両こぶしを上げるポーズは、1968年のメキシコ・オリンピックで表彰台に立った黒人選手2人のポーズに由来するらしい。
・オバサンジョへの抗議として運ばれた棺には母の遺体が入っていたかどうか?(第1章)

・69年の Koola Lobits 渡米メンバーがはっきり書かれている。ダンサーの Dele を含めて10名。(第2章/P. 22)

・初代ダンサー Dele が16歳で加入。Dele は Bobby Benson 楽団のダンサーだった。彼女は特別扱いを受け、Sunday Afternoon Jump のみに出演。72年に Cheif Musik Man の子を身籠って脱退。この頃にはすでに「鳥かご」が使われていた。
・サンドラとフェラが出会ったのは、69年8月。LAの家(現存する)では2ヶ月同室。そこで深い関係になった。 ちなみにフェラ・クティがタバコを始めたのは、別のガールフレンドからの影響。(第4章)

・トランペット盗難事件。こんなこともあったとは知らなかった。(第8章)

・1970年3月、フェラ・クティがナイジェリアに帰国。(第9章/P. 68)

・フェラの子供は公式には Yeni、Femi、Kunle、Seun、Sola、Motun の6人。ただし、、、。
・次男 Kunle は現在 Kalakuta Museum の屋上バーのマネージャーをしている。

・子供が少なかった理由:彼は毎日3〜4人とセックスしていたため、精子が薄かった。/精子が薄くなる治療を受けていた。/タイトなパンツは精子の働きを弱める効果があり、彼はそれを知って履いていた。/(要約すると)彼は自分本位ではなく愛のあるセックスをしていたから妊娠させなかった。(ホントか??)

・第35章はフェラ・クティの死の前後について。第36章(最終章)にはサンドラとサニー・アデが1983年にレコーディングしたが未発表だとも。(P. 282)

 などなど。




by desertjazz | 2021-05-22 20:00 | 本 - Readings

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