◇マイケル・スピッツァー『音楽の人類史 発展と伝播の8億年の物語』読了。
昨年の晩秋に翻訳書が出た時、気になりつつも見送った。表紙の印象から、クラシックを中心とする西洋音楽の歴史を綴っているのだろうと推測し、それは自分の興味の対象外だと思ったからだ。しかし図書館でこの本が目に留まり改めてページを開いてみると、冒頭からヌスラット・ファテ・アリ・ハーンが登場する。これは考えていたものとはちょっと違うかもしれないと思い、ひとまず読んでみることにした(実際その通りだったので、この本は表紙に選ばれた絵で損をしているかもしれない)。
とは言え、相当なテキスト量。時間をかけてじっくり精読していては全体を捉えられないと考え、ひとまず軽く通読することにした。それで7日間で本文 533ページを一気に読み終えた。
この本は、いずれも4章からなる3部構成(全12章)で、それぞれが、幾分短めの時間軸、やや長めの時間軸、そして長大な時間軸といったように、異なるタイムスケールで音楽の歴史を3度にわたって辿っていく。1回目は人間の一生程度の時間で、2回目は世界史の中に位置付けながら、そして3回目はもっとも広範囲にわたる時系列で (著者はこのように3つの時系列に分けたように書いているが、実際はそれほどはっきりと分かれているわけではなく、それぞれにおけるのテーマが交錯し合う)。特に3回目は、20億年前の細胞の振動から話を始め、音楽の未来予想に至る実に長大なもの。まるで劉慈欣『三体』か、リサ・ランドールあるいはミチオ・カクの宇宙論かというくらいにスケールの大きな議論になる。
とにかく各章とも実に膨大な知識を織り合わせて、音楽がどのように生まれ、どのように進化してきたかを紐解いていくのだが、これがまさに博覧強記。クラシックは勿論、世界各地の民族音楽から、ジャズ、ビートルズ、J-POP や K-POP までを俯瞰。参照されるのは、脳科学、生物学、古代史、植民史、病理、神話、文学、等々と挙げていくとキリがない。よくもこれだけのことを知っているものだと感心させられる。
そのためどのパートも単体として読んでも興味深い。ただし突然話は飛ぶし、普通なら削除されるような余談も多いのだけれど、著者はとにかくあらゆることを書き込みたい性格なのだろう。そうした細部も著作を面白くしているが、一方でやはり冗長さを招いているとも思う。そんなことを感じながら読み進めると、忘れた頃に以前取り上げた内容が新たなテーマとウェブのように結びついていく。
ギリシャの音楽、ローマの音楽が、後年の西洋音楽に繋がっていくあたりも、先日読み終えた加藤文元『数学の世界史』を連想させて興味深かった。例えば、遅れていた西洋の音楽がイスラムやインドの音楽を取り入れることで発展したのは、数学の歴史と全く一緒。その一方で、音楽も数学も独自の路線を進んでいた中国とは(影響を受けながらも)やや距離を置いていた。そうしたことは、昔は数学と音楽(さらには天文学)も同じ学問だったことを思い出させる。
個人的に大きく興味を持ったのは、洞窟に関する記述だ。洞窟壁画は音の響きの良いところに描かれているとする研究があるが、洞窟が音楽を育んだのだとすれば、洞窟への興味がますます膨らむ。
(*)洞窟に関して付け加えると、昨年秋に出た五十嵐ジャンヌ『洞窟壁画考』もとても読み応えがあった。フランスやスペインの洞窟壁画を紹介しながら、「何を描いたか」「どうやって描いたか」「なぜ描いたか」「いつ描いたか」「どこに残っているのか」「誰が描いたのか」という6つの疑問に答えていく。取り上げる対象が地域的にも時代的にも広範なため、巻頭に地図と年表があれば理解を助けただろうと思うのだが(余談になるが、文法的に怪しい日本語が延々続くのには、始めのうち戸惑った)。
それと、著者本人も書いているが、残念ながら洞窟の音響や演奏されただろう音楽に関しては全く触れられていない。このあたりに関しては、次作に期待しつつ、デヴィッド・ルイス=ウィリアムズ『洞窟のなかの心』や土取利行『洞窟壁画の音 旧石器時代・音楽の源流をゆく』を読み直した方が良さそうだ。
もうひとつ『音楽の人類史 発展と伝播の8億年の物語』で見逃せない指摘は、かつて音楽は歌い演奏するものであったのが、大半の人にとって聴くだけのものになってしまったという指摘だ。そうしたように、本来音楽は自ら歌い奏でるものだったのが聴くものへと変化したという音楽史の一面については、デヴィッド・バーン『音楽のはたらき』でも同様な立ち位置を感じた。
(*)デヴィッド・バーン『音楽のはたらき』は自伝的要素もあるが、それより音楽史や録音史についての概説や探求が興味深かった。例えば水増し感の強かったテリー・バロウズ『THE ART OF SOUND』より100倍中味が濃い。引用文献には既読のものが多く(彼は読書家であり良い意味でインテリなんだな)、頷きながら楽しんだ。一方で、ビジネスのパートはやや長すぎ。それらを踏まえて、「音楽のはたらき」は何かということを突き詰めていく。そこにバーンの真摯さを感じた。全編を通して皮肉を交えたポジティブな論調がいい。
マイケル・スピッツァーはそのように膨大な知識を駆使してロジックを丹念に積み上げ、音楽誕生の進化の謎に迫っていく。ところが、辿り着いた最後の最後のまとめは正直チンプンカンプンだった。あれこれ語りすぎてまとめきれなかったのか、音楽の進化は決して一つだけの流れではないからなのか。音楽がなぜ、そしてどのように生まれたかに関しては謎が多く、それは決して解き明かされることはないだろう。その現実に対して、著者の想像や情感が空回りしてしまった印象を受けた。
♪
◇『フロンティア ヒトはなぜ歌うのか』視聴
『音楽の人類史』を読み終えた直後、続いて、NHK-BS の番組『フロンティア ヒトはなぜ歌うのか』(2024年5月7日、初回放送)をネット配信で(2度)観た(拙宅では BS が映らないこともあって、テレビ番組は全く観なくなったが、さすがにこの番組は観逃せないと思ったので、ネット配信されたのは幸いだった)。
「なぜ歌うのか」という問いは、「なぜ音楽が生まれたのか」ということを言い換えたようなもので、両者の意味するところはほぼ等しい。正しく表裏一体の問題と言えるだろう。その証拠に『音楽の人類史』とこの番組とで同じ研究がいくつか取り上げられている。例えばビート予測(スノーボールも登場)や、クロススピーシズ(種間比較)Cross Spiecies /クロスカルチャー Cross Culture という観点に基づくものなどだ。こうした研究は音楽進化を探求する上で特に重要であり、またこのような主要な研究は限られているとも言えるのかもしれない。
(*)「ビート予想」はビート(リズム)を把握した上で、次のビートが来るタイミングを予想する能力。これを持つのはホモサピエンス(ヒト)にほぼ限られているが、その稀な例外として登場するのがスノーボールと名付けられたオウムだ(ただしスノーボールがビート予想できるということに対して否定的見解もある)。
「昔の音楽は化石として残っていないので」(インタビューを受けた学者の言葉)、番組では、クロスカルチャーという視点から 20万年前の DNA を持ち続けていると言われるアフリカの狩猟採集民バカの集落を訪ねる。バカはムブティ、エフェ、アカと並ぶ4大ピグミーのひとつで、主にカメルーン東南部の森に暮らしている(そのバカのンビンベ村に誘うのは、京都大学の矢内原佑史さん。彼の著書『カメルーンにおけるヒップホップ・カルチャーの民族誌』もとても良かった)。
個人的にはこのバカ・ピグミーの現地取材が一番の見どころだった。深い森の光景、生き生きとしたバカの人々、川の水を叩いて豊かで豪快なリズムを生み出すウォータードラム。そうした全ての映像にワクワクしっぱなしになった。
そうした中でも、バカのコーラスをマルチトラック録音しての分析はとても興味深い。その結果分かったことは、一人一人が異なるフレーズを歌い、また異なるリズムで多拍子を打っているということ。彼らのコーラスをこれほどまでにしっかり録音し解析までなされたことは、これまでになかったのではないだろうか。
(*)録音・撮影は、7人の女性一人一人に小型カメラ(GoPro?)とマイクを向け、Sound Device の 8ch デジタルレコーダー 788T 2台をスレーブさせて(Time Code Link させて)録音する本格的なセッティングだった。ただし、西洋の音階とは異なる音高で歌っているはずのピグミーのコーラスを楽譜に落とし込み、それを基に完全4度の音階差でコーラスするところが多いとする指摘には、幾分疑問を感じた(実際その通り、あるいは近似値として当たっているのだろうけれど)。
そしていよいよ「なぜ歌うのか」という主題に挑んでいくのだが、その答えは「集団の絆」を感じるからというものだった。「なぜ歌うのか」という問いに対する答えは、簡単に言ってしまうと、まず気持ち良いから/快感を感じるからなのだと思うのだが、そのことを番組中のマルチトラック録音が実証していたのではないだろうか。そしてそのことがあった上で(ドーパミンを生み出した先に)「集団の絆」という感覚が生まれるのだろう。映像を観た学者が「(彼らの歌は)いろいろな機能をはたしている」と指摘する通り、「集団の絆」は一つの可能性であり、「なぜ歌うのか」という問いへの答えを一言に集約することは難しいのではないだろうか。
スティーヴン・ミズン『歌うネアンデルタール 音楽と言語から見るヒトの進化』(ミズンの学説は『音楽の人類史』でも引用されている)、ジョーゼフ・ジョルダーニア『人間はなぜ歌うのか?』、ウィリアム・ベンゾン『音楽する脳』、ダニエル・J・レヴィティン『音楽好きな脳 人はなぜ音楽に夢中になるのか』『「歌」を語る 神経科学から見た音楽・脳・思考・文化』などを読んでも、音楽が生まれた仕組みについてスッキリ理解することはできなかった。それはやはり「化石」が残されていないために、正確な答えに辿り着けないからなのだろう。それだけに、『音楽の人類史』のような研究を読み、『ヒトはなぜ歌うのか』のような番組を観て、それらでの結論を一つの可能性として受け止めながら、より想像力をたくましくさせることに意味と楽しみがあるように思う。
(覚え書き)
1.ピグミーたちは 20万年前の DNA を保ち続けているのかもしれないが、勿論それだけの長年間、彼らの音楽が変化しなかったということではない。例えば番組 31分台の「リカノ」などはチャーチ・コーラス風に聞こえたので、近年キリストの布教から影響を受けたものではないかと思った。
2.ピグミーのフィールド録音を行ったシムハ・アロム Simha Arom(1930年ドイツ生まれ)の著作を探してみると、番組中でも映っていた "African Polyphony and Polyrhythm: Musical Structure and Methodology" などがあったが、どれも高い!
♪
それにしても、ピグミーの音楽とブッシュマン(サン)の音楽は本当によく似ている。今回、番組を観て改めてそう思った。両者の音楽の共通点は、番組でも取り上げられたポリフォニー・コーラスで顕著だ。まず、それらは女性だけで行われるパフォーマンスである。コーラスがヨーデル風の歌である。そして、コーラスも手拍子も各人それぞれ異なっている。
ピグミーもブッシュマンも共にアフリカの狩猟採集民ではあるが、遠い昔から全く異なる環境の中で、別々の暮らしをしてきた。そのような両者が、これほど高度でありかつ類似した音楽を持っているのはなぜなのだろう? その理由を紐解いた研究を読んだことがないだけに、ますます興味が膨らむ。
以前、同じくカメルーンのバカ・ピグミーを研究されている分藤大翼さんの講演を聞いた時、「歌が若者に受け継がれておらず、消えつつあるものも多い」と語っていた。その一方で、今回の番組では母親が娘に歌を伝えるという微笑ましいシーンが挟まれていた。カメルーンの森は開発が進んで森が小さくなり、そこに暮らすピグミーたちの心も変化も激しいと聞く。そのような時代による変化は避け難いのだろう。それでも、このようにピグミーの歌や音楽がまだまだ受け継がれているのなら、もっともっと知りたいものだ。
♪
♪
♪