読書メモ:村津蘭『ギニア湾の悪魔 キリスト教系新宗教をめぐる情動と憑依の民族誌』(及び、憑依と癒しに関する考察)

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 村津蘭『ギニア湾の悪魔 キリスト教系新宗教をめぐる情動と憑依の民族誌』(世界思想社、2023)読了。

 現代のアフリカにおいて、カトリックから派生したペンテコステ・カリスマ系教会が興隆しており、西アフリカの小国ベニンでもその一派であるバナメー教会が大きな支持を得ている。このバナメー教会の特異なところは、パーフェットと名乗る少女に神キリストが憑依している(乗り移っている)と主張している点だ。また彼らの集会においては、信者たちに何らかの霊が憑依して倒れ込むということが頻繁に起きている。そうした中には、本来忌諱すべき存在である悪魔が信者に憑依し、それが神への信仰心を諭すといった、通常ではあり得ない逆転現象さえ目撃されている。ここでは従来の宗教観から外れた俄には信じがたいことが相次いでいると報告されているのだ。しかしバナメー教会は、彼らに対して疑念を抱いていた人々からさえも篤い信仰を獲得するに至っている。著者は、そうしたことが現実として起こっている過程や理由を丹念に探求していく。

 フィールドワークを通じて明らかになったことのひとつは、(神や悪魔といったような)従来より不可視的存在と見做されていたものを、可視領域にもたらしめられたことで生まれた説得力だった。つまり神や悪魔が現前した(と受け止めた)ことで、人々の中にバナメー教会への信仰心が素直に生まれたのだった。その過程では、教会/癒す側と信者/癒やされる側が、互いの信仰の方法に熟練していくとでも言いうるような「エンスキルメント」の効果も大きかった。不可視的存在の可視化やエンスキルメントは計算されたものではなく、偶然もたらされたのかもしれないが、それらはバナメー教会が多くの信者を獲得する上で大きく作用した(バナメー教会の拡大には他にも重要な要因があるが、いずれも複雑すぎて、ここに簡潔に綴るには私の手に余る)。

 バナメー教会の集会は、人々の問題や悩みを受け止め、その原因を探り、解決と癒しを図る場でもある。誰かが心身に不調をきたしたり、人間関係が崩れたり、突然の不幸や不慮の事故に見舞われたりするのは、妖術師などが憑依したためだと説明されることもある。集会ではそのような憑依を取り払い、悩める信者を救おうとする。そうした中には、実際に病気が治る体験をした者もいる。実はそれらは病気が治癒したのではなく、そのような錯覚を植え付けられただけの可能性も考えられるのだが(後で触れるように、ここにはトリックのようなものが介在しているのだろう。その一方で、医療従事者の中に、妖術、呪術、悪霊などの存在を否定しない者が少なくないことは興味深い)。

 著者は、一般人には馴染みのないこのようなアフリカの宗教世界や、そうした場に登場するパーフェット(神)、神父、枢機卿、呪術師、妖術師、そしてさまざまな信者たちの混み入った関係性について鮮やかに解き明かしていく。その文章力に唸らされる。バナメー教会の教義が実践される場に自ら入り込み、数々のインタビューを重ね、まずはそこで得られたことから演繹し推測することによって(そこに従来の学説をも対照させながら)結論に至る論理展開が見事だ。そうしたインタビューが生々しいだけに、著者の推論が十分な説得力を持っているし、読み物としても抜群に面白い(インタビューした中には、実の母が娘に憑依するという信じがたい例もあった)。

 ただ、私はこうした分野に関して専門知識を持たない門外漢なだけに、博士論文をベースにしただろう硬質な文体には、正直少し苦しんだ。例えば、「憑座」「卜全」「按手」などの用語は馴染みがなく、調べてもその意味を明確にできなかったものもあった。一般向けの読み物としては、そうした用語に関する説明がやや欠けていたように思う。それでも、概ねは理解でき、全体を通して十分な読み応えがあったのだけれど。

 著者の卓越しているところは取材力や文章力だけではない。各章に挟まるエッセイもとてもいいのだ。フィールドワークの合間に出会った興味深いエピソードを、単に綴ったようでありながら、実は本論の流れの中の的確な場所に置かれいて、主題としっかりリンクしながら論考全体を下支えしている。また、難解になりがちな本論からしばし離れることで頭休めにもなる。実に計算の行き届いたエッセイの挟み方だ。同様に写真も実にいい(写真について素人の私にも、技術の確かさと、視点の鋭さが伝わってくる)。この本を書店で目にした時、語られるテーマは勿論のことなのだが、実は写真とエッセイにも大いに惹かれて買ったのだった。

 深い洞察を形にする巧みな文章、効果的なエッセイ、見応えのある写真に加えて、著者はインターネット上でも関連するコンテンツを公開している。それらは現地で撮影した写真やビデオを組み込んだ読み物になっていて、集会の様子やインタビューの肉声に触れることができる。現代の文化人類学者の研究は、論文を発表し本を書くだけには留まらず、動画や録音なども用いたハイブリッドな(マルチモーダルな)手法による(そこに可能性を見出す、あるいは求められる)時代になったのだと思う。


 この『ギニア湾の悪魔』という本を読む気になった理由は、ギニアという国への興味、エッセイや写真の魅力もあるが、それだけではない。このところ、憑依という超常的な現象と、その延長上でもたらされる治癒について関心が膨らんでいて、そうしたことがらについてもっと知りたいと考えている。この本もそうした興味事に関して理解の助けとなることを期待して読んでみたのだった。

 憑依を喚起するような音楽儀式は世界中にある。ハイチのヴードゥー、キューバのサンテリア、ブラジル(バイーア)のカンドンブレなどはよく知られているだろう。これらに共通するのは、コーラスとドラムとダンス(輪舞)が重要な構成要素であること。これら3つの要素が作用して憑依を喚起するのだろうか。ベニンはヴードゥーのルーツとされているので、『ギニア湾の悪魔』にはそうしたことも書かれていることだろう思ったのだが、音楽と憑依の関係についてはほとんど触れられておらず、その点に関しては期待はずれだった。

 アフリカにおける憑依現象を他に探すと、例えば大陸南部(ボツワナやナミビア)のブッシュマン(サン)にもヒーリング・ダンス(癒しのダンス)がある。これもヨーデル風のコーラス、強烈な手拍子のビート、そして円を描きながらのダンスというように、先の3者に似た特徴を持っている。一つの仮説として、憑依をもたらす要因としては日常レベルを遥かに超えた強烈な刺激の重なり合いが考えられるのではないだろうか。インドネシア・バリ島のバロンダンスというパフォーマンスが生まれるヒントとなったサンヒャン・ドゥダリという宗教儀式においても、強烈な音に包まれる中で男たちが気を失っていく。これも似たような現象ではないだろうかと、トランス状態に陥った男たちの姿を想起させる。

 バナメー教会の場合、コーラスやドラムやダンスなどは重視されないようだが、それでも様々な強いストレスを受けた信者が憑依状態に陥っていると見ることができる。集会に際して、開始まで長時間待たされる肉体的/精神的疲労、会場の蒸し暑さ、群衆が生み出すノイズ、神父との間でのコールアンドレスポンス等々。著者は、神父から按手(頭や首に手を添えて癒しを与える)を受けた時、押し倒そうとするような圧力を感じたことも明かしている。世界各地の音楽儀式は音やダンスが延々繰り返されることで、参加者たちは陶酔状態になっていく。バナメー教会の集会でも長時間の演説にさらされる。そのような時間ループが心身にストレスを与えている点で、いずれにも通じ合うものがあるように思う。

 こうした憑依を伴う儀式(音楽儀式)の多くは、バナメー教会に限らず、癒しを目的にして行われる。互いに離れた数々の儀式の間で、そのような共通点があるのはどうしてなのだろう。また癒しと言いながらも、それは病気の治療だったり、人間関係の改善だったり、社会の不安定さを取り除くことだったりする。ひとつの儀式がこのような全く性格の異なる問題を対象にしている。そうした多様さも世界各地の憑依儀式に共通しているようなのだが、それはなぜなのだろう。

(昔、ブッシュマンの研究者から「ヒーリング・ダンスでの病気の治療はトリックですよ」と示唆されたことも思い出した。癒す側も癒やされる側も、それぞれ癒しに対する本気度がどの程度なのかについても興味深いものがある。)

 ところで、憑依や世界各地の儀式に関する書物を読むと、憑依状態になることは単なるトランスとは異なるとか、変性意識状態に陥ることとも異なるといったようなことが度々書かれている(変性意識状態とトランス状態もまた全く同じではないらしい)。このあたりのことに関しても私自身はよくわかっていない。世界各地の憑依現象を俯瞰し比較して論じたような書物はないのだろうか?(憑依を研究した脳科学の文献なども探してみたが、一般向けの読み物は見当たらない。)


 余談を一つ。

『ギニア湾の悪魔』を著した村津蘭さんは、女性だろうか、男性だろうか。名前から判断すると女性かもしれない。そのように思いながら読み始めた。しかし、文体や写真の質感、バイクの後部座席に座って撮影するなどの行動力から、いつの間にか書き手は男性だろうとすっかり思い込んで読んでいた。

 ところが、読み終えた後に著者について調べて、この研究者が女性であることを知った。正直、これには驚いた(この著書、最後の「あとがき」でも驚きが待っていた。本当に上手い書き手だ)。

 勿論、ひとつの研究を読む際、書き手が女性か男性かによって評価は変わらない。しかし振り返ってみると、ベナンで憑依を体験したのはほとんどが女性だった。そうした人々に細かなインタビューをできたのは、聞き手が同じ女性だったことも大きかったのではないだろうか。もしそれが男性だったなら、尋ねにくいことも多いし、彼女たちも素直に心を開いてくれたかわからないように思う。

 アフリカをフィールドにしている研究者の中で、今個人的に特に注目しているのは、ボツワナのブッシュマン(サン)を研究する丸山淳子さんと、タンザニア人によるインフォーマルセクターを研究する小川さやかさんの2人。どちらも女性だ。そこにまた一人、今後の研究が楽しみな女性研究者がまた一人加わった。

(* 出版元の世界思想社の公式サイトを見ると、国際宗教研究所賞と日本アフリカ学会研究奨励賞を受けたことが報告されている。村津蘭さんと『ギニア湾の悪魔』はすでに大きく評価されているようだ。)


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(追記)

 村津蘭さんは、川瀬慈さん編著の『あふりこ フィクションの重奏/遍在するアフリカ』にも書いていた。「太陽を喰う/夜を喰う」、これは完全に記憶から消えていた。カメルーンのヒップホップを研究する矢野原佑史さんの「バッファロー・ソルジャー・ラプソディー」も収録。読み直そう!


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by desertjazz | 2024-06-07 11:11 | 本 - Readings

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