Afro Cuban Music in Senegal

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 セネガルの音楽の歴史、特にアフロキューバン音楽からの影響についてより詳しく知りたくて、Richard M. Shain "Roots in Reverse: Senegalese Afro-Cuban Music and Tropical Cosmopolitanism" (Wesleyan, 2018) を再読中。前回読んだ時には取り急ぎ目を通したところもあったので、今回はじっくりと精読しているのだけれど、改めて気が付くことが多くて興味深い。

 以下で、そうしたことのいくつかをざっと書き並べてみよう。

 この本は、アフロキューバン音楽がどのようにセネガルに受け入れられたのか、それを経てセネガルらしいアフロキューバン音楽がいかにして生まれたのかを描いている。まず最初の方で20世紀前半の時代背景やサンゴール時代の政治体制を中心に整理し、それからアフロキューバンの受容ぶりに話が転じていく。今日読み終えた 56ページまでがそうした内容である。

 アフロキューバン音楽は主にパリ経由でセネガルにもたらされたが、セネガルの人々はその音楽の中に自身の音楽との等質性を見出したことで、愛好するようになっていった。そのようなアフロキューバンが流行したのには、まずSPレコードと蓄音機の購買層が増えたことがある。1920年代に流通し始めた蓄音機がやがてポータブルなものになった影響が大きかった。その一方で、レコードは需要を満たすほどの数は流通しなかったという。

 そこで生まれたのが「レコード・クラブ」あるいは「アフロキューバン・ミュージック・クラブ」だ。若者たち(学生たち)が手に入れたレコードを持ち寄って、お茶を飲みながらそれらを鑑賞し、評価し、踊るというパーティーだ。珍しくて内容の良いレコードを持っている者ほど周囲から評価され、また女性たちも集まったという。つまり、珍しいレコードをたくさん持っているほど、女性たちからモテたようだ。今ではとても考えられない話でちょっと羨ましい?

 また、とりわけ珍しいレコードを持っている者は、それが何か悟られないように、レーベル面を削って消すこともあったという。(マイアミ?で、キングストンで?)ジャマイカのレアなダブプレートを手に入れたDJが、その特別なサウンドを独り占めするために、同じようにレーベル面を削り取ったという話を思い出した。コレクターは世界中で似たようなことをやっていたのだろうか?

 レコード・クラブのような集まりは、ブラジルや欧州の国にもあった。(どの本で読んだのか思い出せないのだが)そこでは、個々のレコードが誰のものか分からなくならないように、ジャケットなどに名前を書き込んでいたという。私がセネガルなどで集めた古いレコードの多くにも、所有者と思われる人物の名前(と恐らく購入した日付)が書き込まれていた。どうしてこのようなレコードを汚すことをするのだろうと、入手した時には不思議に思ったのだが、これらはレコード・クラブで再生して仲間たちと一緒に楽しんだものだったのだろう。1980年前後に発売されたレコードにも結構名前が書き込まれていたので、こうしたパーティーは少なくともその頃まで続いていたのだと思う。

 それで思い出したが、ナイジェリアなどアフリカの中古レコードにはジャケット表面をカットしたものもよく見かける。これも所有者をはっきりさせるための目印だったのか、あるいはミュージシャンの名前を消すためだったのだろうか?

 レコード・クラブを率いる者の中には、後年音楽業界で大物になる人物もいた。この本では2人を紹介している。一人はご存知、イブラヒム・シラ Ibrahima Sylla(P.45, 48)。もう一人はダニエル・クザク Daniel Cuxac(P.52〜)。カザマンス生まれのクザクはエア・アフリックの客室乗務員をしていたことから、その立場を利用して機会があるとニューヨークやハバナでレコードを漁っていた(アフリカ音楽のリイシューを専門とする某レーベルのオーナーも昔、某航空会社の客室乗務員だった頃、それを利用して世界中でレコードを集めた話を思い起こす人もいるでしょう)。ダニエルは学生時代にスペイン語を勉強していたというから、ニューヨークやハバナのラテン・コミュニティではそのスキルが大いに役立ったことだろう。その彼は 1960年代半ばにアビジャンに移り住み、業界の重鎮へとのし上がっていく。1960年代末にスターバンドを脱退してアビジャンに移ったラバ・ソッセー Laba Sosseh とデクスター・ジョンソン Dexter Johnson を支援したのも彼だった。

 レコード・クラブの若者たちの活躍する場はエンターテインメントの世界だけではない。卒業後に彼らの多くは、政治、経済、教育などの多方面においてセネガルを率いる立場に立つことになり、当時の思想や空気感を形成する上で大きな役割を担ったことだろう。

 レコードを愛聴する段階を経て、1960年代初頭にはアメリカ合衆国のラテン・ミュージシャンたちが実際に西アフリカへと向う時代が訪れる。それ以前には 1930年代から続いていた定期航路を往復する船内で演奏していたミュージシャンが、寄港したダカールやサンルイで小遣い稼ぎに演奏する程度だった(記録ははっきりしないが Septeto Habanero もダカールで公演を行ったらしい)。なので生演奏に触れる機会が生まれたことは、アフロキューバンの愛好家たちにとって、とても大きなインパクトをもたらしたことだろう。

 最初にやってきた大物は Johnny Pacheco だった。それに Eddy Zervigon と彼が率いるチャランガ・バンド Orquesta Broadway と、Orquetsa Tipica Ideal が続いた。彼らはギャラの安さも気にせず、繰り返し訪れた。それには、熱烈な歓迎を受けたこと、南米などで悪条件のツアーになれていたこと、さらには地元アメリカではチャランガの人気が下火になったことも影響したらしい。それで Tipica Ideal は "Vamonos Pa' Senegal / Para Bailar Y Gozar"(「セネガルに行って踊って楽しもう」という意味)というタイトルのアルバムを作ったのだろう。

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 1950年代以降しばらくの間、セネガルにやってきたのはアメリカ合衆国のバンドばかりだった。アメリカの思惑としては、国内の黒人ミュージシャンをアフリカ諸国に「冷戦大使」として送り込むことがあったようだ(同時に人種差別国というレッテルも剥がしたかったらしいが、国務省がその候補として選んだのはジャズやブルースのミュージシャンが中心で、アフロキューバンは重視していなかったという)。一方、キューバのグループがなかなかセネガルに行けなかったのには、サンゴールの意向が強かった。彼はキューバとカストロを敵視していたために、キューバのミュージシャンの来訪には許可が下りなかった("Roots in Reverse" の最初の方はサンゴールの政策などの説明が長々続き退屈したのだが、アフロキューバンの興隆について語るには、その背景にあった状況を知ることも不可欠ということなのだろう)。

 そのようなこともあって、Orquesta Aragon が 1972年に初めて西アフリカをツアーした時、セネガルの若者たちは隣国マリやギニアのコンサートに大挙して押しかけていったというのだから、なんともすごい熱意だ(そこにはサンゴールの施政に対する反対の意思表明も含まれていたという)。

 その Orquesta Aragon のコンサートがセネガルでようやく実現したのは、サンゴール治世の末期 1979年のことだった。
(Lusafrica が制作した小冊子、Francois-Xavier Gomez "Orquesta Aragon: the Story 1939-1999 - La Charanga Eterna" (1999) にも目を通してみた。彼らのアフリカ・ツアーについて割と詳しく書かれているが、残念ながらセネガル公演については触れられていなかった。)

 ダカールの若者たちは、このようにアフロキューバン音楽を受け入れながら、新世代らしい購買意欲やファッション・センスを磨き、コスモポリタンな視線やポストコロニアルな考え方を滋養し、新たな時代に相応しい価値観やアイデンティティーを獲得していったのだった。

 そして、セネガルのミュージシャンたちも、1960年代以降、アフロキューバン音楽を積極的に吸収しながら、自分たちらしい新鮮な音楽を生み出していく。"Roots in Reverse" の 57ページ以降では、そうしたことについて詳細に綴られている。




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(写真のレコードは全て私がダカールで出会ったコレクター氏から譲り受けたもの。こうした資料からも、ダカールにおけるアフロキューバンの受容ぶりが伺われる。)






by desertjazz | 2024-06-11 10:00 | 音 - Africa

DJ

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