Richard M. Shain "Roots in Reverse: Senegalese Afro-Cuban Music and Tropical Cosmopolitanism" 再読の続き。第4章の「From Sabor to Sabar - The Rise of Senegalese Afro-Cuban Orchestras, 1960s-1970s」(PP. 57-91)を読み始めた。
輸入レコード、あるいはアメリカやキューバからやってきたグループの生演奏を通じて、セネガルで人気が高まったアフロキューバン音楽。そうした刺激を受けて、今度は国内でどのようなバンドが生まれたかということが具体的に語られる。その代表として、1960年代は Star Band と Xalam を、1970年代は Baobab と No.1 を、そして最後に Laba Sosseh を取り上げている。この章は何度も読み返したはずだが、じっくり精読し直すと、忘れていたことや読み落としていたことに気が付く。
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Star Band に関しては、Club Miami のオーナー Ibra Kassé が Dexter Johnson をバンドのリーダーとしてスカウトしたこと、2人の厳しい管理と指導の下で Star Band がセネガル一番のバンドに成長したこと、Kasse の払うギャラが安く、人間的にも難しい人物だったことから、メンバーたちが相次いで大量脱退すること等々は、これまでに他の文献でも幾度となく語られてきたことだ。
最初期の Star Band はフランス語圏、英語圏、スペイン語圏、ポルトガル語圏の国々の出身者が混じるインターナショナルなバンドだった(セネガル人は少なかった)。またレパートリーも広く、サンバ、タンゴ、ビギン、ワルツ、ジャズ、ルンバなどを演奏していたという。Orchestra Baobab に先んじる、まさに Specialist in all Styles と呼べる存在だった。しかし、バンドから離脱して国外で活動する者が増えたことから、Kassé は次第にセネガル人を優先的に採用するようになった。また客の要望に応えてアフロキューバンの曲を中心に演奏するようになったという。
興味深く読んだのは、本家のアフロキューバンと Star Band など当時のセネガルのバンドとの相違点だった。大きな違いは2つ。ダンスを伴わないことと、パーカッションの軽視である。
ステージが狭かったことと、ギャラが生じることからダンサーは採用せず、ミュージシャンたちもダンスが得意だったのにもかかわらずほとんど動かずに演奏していたという。またパーカッション奏者が活力に溢れる激しいプレイをすることはなく、ソロも滅多に取らなくて、終始ステージの後方で淡々と演奏していたようだ(給料も他のメンバーたちより少なかったという)。
つまりこの頃のアフロキューバン音楽は鑑賞するものではなくて、クラブに来た客たちがダンスするためのものだったということだ。セネガルがフランスから独立したのは 1960年。アフロキューバン音楽は、そのような時代において、脱植民化、近代化の象徴だったことも反映したのだろう。また Star Band は伝統楽器のサバールを使い始め、ウォロフ語でも歌うなど、ローカルな音楽的要素も混ぜ込んでいたものの、それらはまだ副次的なものに留まっていた。新時代にふさわしい洗練度の高い音楽を目指していたようだ。
(グリオ的な要素は現代化とコスモポリタリズムに対するアンチテーゼだった、というような指摘もされている。またステージ衣装も洗練されたものを選んでいた。第3章で書かれていたことだが、フリルのついた衣装は好まなかったという指摘には失笑してしまった。)
Star Band はメンバーチェンジを繰り返しながら、演奏力を高めていき、セネガル随一のバンドにまでのしあがり名声を高めた。それはセネガルの音楽シーンの基礎を築くことでもあった。しかしその活動はクラブでの演奏に限定され、国内ツアーを行うことはなかった。また 1960年代にはまだレコードが作られることはなく、彼らの演奏がラジオで流れることも滅多になかった。そのため Star Band を聴くことができたのはクラブに通うことのできる上流階級者に限られ、彼らの活動範囲は結構限定的だった。セネガルで生まれたバンドが国民的規模の人気を獲得するには、よりワイルドなスタイルの音楽を指向し、それらがレコードやラジオで容易に聴ける、(Star Band から派生した)次の世代の登場を待つ必要があった。
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Dexter Johnson の経歴に関しても、割と詳しく書かれている。
1932年にナイジェリアのイバダンに生まれた彼は、ラゴスに移動し Samnel Akpabot Orchestra というハイライフバンドに加入。その頃はドラム奏者だった。その後、リベリアの軍隊のバンドに入りサックスを担当する。さらにバマコへと移り住み、そこでセネガルから来たミュージシャンたちと出会い、そのことがきっかけで 1957年にダカールへと活動の場を移したようだ。
ダカールでは最初ハイライフを演奏していたが、全然受けなかったらしい。それでもギニア人のギタリスト Papa Diabaté と Guinea Jazz を、さらには自身のバンドを結成し、それが成功に結びつく。その姿が Kasse の目に留まり Star Band に呼ばれたのだった。
実際には「リーダー」という肩書きはなかったようだが、実質的にそうした立場から、Kassé と一緒に曲を選び、全てのアレンジも担当していた。そんな彼は多くのミュージシャンたちにとって憧れの存在で、誰もがそばにいることを願ったようだ。
しかし、1964年に彼は Kasse と対立しバンドを離れ、Laba Sosseh たちと別のバンドを組む。その辺りのことについては以前にも書いたので、ここでは割愛。
彼は1960年代末からは拠点をアビジャンに移したのだが、そこで(Laba Sosseh とも袂を分かった後に)Raymond Fernandez と組んだ双頭バンド Conjunto Estrellas Africanas のレコードが2枚作られている。
・ Estrellas Africanas de Dexter Johnson "Conjunto Estrellas Africanas - Volume 1" (Disco Stock LPDS 7901, 1975?)
・ Estrellas Africanas "Vol. II Manisero" (Star Musique SMP 6009, 1979)
1枚目はレコード店で時々見かけるが、2枚目には記憶がない。Dexter Johnson の名前が書かれていないので気が付かなかったのだろうか。Raymond Fernandez なるヴォーカリストもどのような人物なのか不明。"Volume 1" の仏語ライナーには Guinea Jazz 時代からの仲間だったように(?)書かれているのだが。先日その名前を Africando の(8作目の/最後の?)アルバム "Viva Africando" (2013) で見つけた。11曲目 Destino の作者とリードヴォーカルが Raymond Fernandez とクレジットされている。Estrellas Africanas と聴き比べてみたのだが、確かに同じ人物の声のように思える。しかし、この CD は買わなかったので、それ以上のことはわからない。まあ、もう少し調べてみることにしよう。
なお、Dexter Johnson は 1981年に亡くなっている(享年 48?)。
(追記)
この記事を読んだ方が、早速 "Viva Africando" のライナーをコピーして送ってきてくださいました。ありがとうございます! それによると、、、
Raymond Fernandez はカーボヴェルデ人の両親の元でダカールに生まれた。Destino は Africando のスタジオ5作目 "Mandali" (2000) のために録音されたものの、アルバムリリース前に Raymond が亡くなってしまっため、このトラックはアルバムから外され、発表するのに良いタイミングを見計らっていた、とのこと。
彼が 1950年代から?活動していたとしたら、2013年の録音というのはちょっと無理があるのではと疑問を抱いてしまったのですが、これで謎が解けました。
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