◇ Senegal 1975
前回軽く触れた次の5枚のアルバム、1970年代中頃にダカールでリリースされたこれらは本当に聴きごたえがある。
・Le Sahel "Bamba" (Musiclub LPS-MUS-001, 1975)
・Le Xalam "Daïda" (Musiclub LPX-MUS-005, 1975)
・Le Diamono "Bitaa Baane" (Musiclub LPX-MUS-0010, 1975)
・Idy Diop (Idrissa Diop) "Dioubo" (N'Dardisc 33-15, 1976)
・Orchestre N'Guewel de Dakar "Xadim" (Discafrique Records DARL 008, ? )
アフロキューバン、サルサ、ロック、ソウル、ハイライフなど、様々なスタイルの曲が並び、アルバムとしての統一感には欠ける。演奏も荒削りで未完成だ。だがそうした中に、新たな音楽を模索し、次第に出来上がっていく過程が垣間見られるところに魅力を感じる。
興味深いのは、Adamantios Kafetzis が「(セネガルのアルバムで)本当に素晴らしい」と挙げた最初の3枚が揃って 1975年のリリースであること。Idy のファーストアルバムも 1976年のリリースだ(最後の "Xadim" だけはリリース年不詳なのだが、音の印象からは 1977〜78年頃ではないかと思う)。
同じ 1975年には Orchestre Baobab も Buur Records というレーベルからアルバムを5枚リリースしている。"Cookin' "、"Workin' "、"Relaxin' "、"Steamin' " というアルバム4枚分の録音を一気に行った Miles Davis のマラソン・セッションみたいだと思いつつ、この 1975年頃に Baobab たちが最初のピークを迎えた印象を受けたのだった(Baobab の5枚も Miles と同様、集中的に録音したものと思っていたのだが、これは大きな思い違いであることに最近気がついた。"Roots in Reverse" にも書かれていたのだが、この件については後日)。
1975年に一体何があったのだろうか? Sahel も Xalam もこの年にファーストアルバムをリリースした後、活動が止まる。Diamono は Super Diamono へと移行する。1975年に比べると、翌年、翌々年は決定的作品が少なく感じられ、Baobab も次にレコーディングを行ったのは 1978年だ。1975年には何か特別なことがあったのだろうか? そう思ったのが、今回 "Roots in Reverse" をじっくり読み直す気になった動機の一つだった。
しかし、セネガルの歴史を調べてみても、 1975年に特別なことがあったというような記述は見当たらない。強いてあげれば、この年は独立15周年ではあるが、それを記念してレコード制作が盛んになったという話もない。
◇ Orchestre Baobab & Number One
"Roots in Reverse" の第4章では、Star Band と Xalam (un) に続いて、オルケストル・バオバブ Orchestre Baobab とナンバー・アン Number 1 について結構なページが費やされている(PP. 69〜83)。1970年代を代表するこれら2つのバンドについて、まず歴史や主要メンバーについて紹介。Baobab で中心的に語られるのは、シンガーのバラ・シディベ Balla Sidibé とルディ・ゴミス Rudy Gomis、トーゴ出身のギタリストのバルテルミ・アティッソ Barthélémy Attiso、サックスのイッサ・シソッコ Issa Cissokho という結成時からのメンバー4人。Number 1 に関しては、途中からシンガーに転身したパペ・セック Pape Seck とギタリストのヤーヤ・フォール Yahya Fall に集中しているのは当然だろう。そしてそれらを詳細に綴ることより、彼らの音楽性に関し、本の主題に沿って主にアフロキューバン音楽との関連性という視点から分析することを重視している。その上でなされる主要曲の分析も参考になる。
興味深い指摘がいくつかなされているのだが(果たしてそうだろうかと思うものもいくつか)、まず Baobab に関しては、
・Baobab はセネガル南部カザマンスから最初に登場したメジャーなバンドである(カザマンスは、他の地域とは民族も地勢も異なり、イスラムよりキリスト教の方が優勢である)。
・Baobab はセネガルの北部と南部の両方の伝統音楽を探求した最初のバンドであり、また曲作りに秀でた初めてのバンドでもある。
・Balla Sidibé はマンデの要素を、Rudy Gomis はギニアビサウの要素を、Barthélémy Attiso はハイライフの要素を持ち込んだ。
・Baobab は、学生、非グリオのミュージシャン、グリオという3つのタイプのメンバーから構成された。
・グリオのシンガー Abdoulaye Laye M'Boup は、1964年からソラーノ劇場に立ち、 N'Diaga M'Baye と並ぶウォロフの大スターだった。
・セネガルのバンドは大抵キューバ音楽のコピーから始め、それからオーセンティックなアフリカ的なサウンドに向かったが、Baobab はその反対だった。
・ナイジェリアやコンゴでは LP 片面全部を費やすような長い曲が演奏されるようになったが、Baobabの曲は短く、8分を超えることはほとんどなかった。これはダンスフロアで踊る客たちが1曲終わるごとに席に戻って仲間と歓談することを好んだのに対応したもので、またメンバーたちがキューバの曲に魅了されていたから、それに準じた尺の演奏をしたからでもある。
・スタジオ録音の機会を得ることで、彼らは演奏の欠点を修正し、様々な音質のヴォーカルを試すことができた。
・グリオの2人 Thione Seck と Laye M'Boup が抜けたことで、ヴォーカルセクションの改良が迫られた。
などなど、書き出すとキリがないのでこれくらいにしておこう。
Number 1 についても興味深い指摘が続き、特に Yahya Fall に関して知ることが多かった。そうした中、特に印象に残ったのは Baobab と比較しての分析である。
・Number 1 はダカールに立ち現れたストリート文化に声を与えた最初のグループだった。Boabab が 1960年代のダカールの広い通りやおしゃれなクラブに目を向けたのに対して、彼らは賑やかな港や地方から上京してきた人々を描いた。
・Baobab はセネガルの音楽伝統をアフロキューバンの中に位置づけた(ローカルをグローバルに結びつけた)のに対して、Number 1 はアフロキューバン音楽をウォロフ文化の文脈の中に置き換えた(グローバルをローカルに繋いだ)。
・Number 1 はライブ活動に忙しかったため、スタジオで録音する機会は Baobab ほどはなく、その分だけ演奏力が向上せず、荒々しいサウンドだった。しかしそうしたサウンドの方が性能の悪いラジオでも伝わりやすかった。結果として彼らの方が Baobab よりもずっと稼ぎが良かった。
(しかし、音楽性が対照的だったと指摘される2つのバンドなのだが、Number 1 の看板ギタリストだった Yahya Fall が今はバオバブでギターを弾いているというのはなんとも奇遇だ。)
読んでいてもう一つ興味を持ったのは、ミュージシャンたちが音楽協会を設立したという出来事だった。Baobab が結成された(Club Miami から抜け出した)1970年から Number 1 が誕生した 1976年というのは、セネガルでもレコード制作が始まり、コンサート活動が活発化するなど、音楽ビジネスが発展した時期だった。そして、この頃はまだミュージシャンたちは搾取される傾向にあったようだ(例えば Baobab は 1978年にフランスに渡って8ヶ月活動し、レコーディングとライブを行ったものの、ギャラは全く支払われなかったという)。そうした状況に対処すべく、1975年にセネガル音楽協会 L'Association des Musiciens du Sénégal(AMS) が結成されたのは見逃せない。やはり 1975年というのは一つのターニングポイントとなった年だったのだろう。
その AMS は 1976年に Iba Mar スタジアムで巨大なコンサートを開催した。当時 Pape Seck と Yahya Fall が在籍していた Star Band もそのステージに立ったのだが、この時のある事件が、彼らが Star Band を脱退する決定打となった。Star Band のコンピレーション LP "Star Band de Dakar (Ostinato Records OSTLP006, 2019) のブックレットに掲載された Yahya Fall のインタビューによると、他のグループたちは主催者側が用意した高級な PA 機材を使えたのに、Ibra Kassé はそれを許さなかったという(機材使用料をケチって、コンディションの悪い Club Miami の機材で演奏させたということなのだろうか)。それに激怒して Yahya Fall たちは Ibra Kassé の支配下から抜け出したと証言している。Kassé は口喧しく、金にも相当がめつい人物だったようだが、この脱退劇はそうしたことに対する積年の不満が積もり積もってのことだったのだろう。
Kassé の方も、我がものと思っていたミュージシャンたちが AMS に加入していることを知って驚愕した(どうも Pape Seck は AMS の中心人物の一人だったようだ)。それで、彼らが脱退した後、顔のきく国務省へのコネを利用して彼らが Star Band の名前を引き続き使うことを阻止したという。そのため、彼らはバンド名を度々変更することになってしまったのだった。
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"Roots in Reverse" の中で詳しく書かれている Star Band から Baobab、No.1 までの分析を読んで感じたのは、バンドやミュージシャンはそれぞれの出自や好みだけによって音楽性が定まるわけではないということだった。活動時期の社会状況や聴き手の趣味、音楽ビジネスの進展具合、録音や放送のインフラと技術レベルなど、様々な要因によって彼らの音楽が方向付けられるのだ。
冒頭に挙げた Le Sahel や Le Xalam、そして Baobab の場合、彼らの音楽性が頂点に達したのが 1975年頃であり、それが録音インフラの向上、さらには音楽ビジネスがライブ演奏を中心とするものからレコード販売によっても利益を得る方向へ転換した時期と重なった。その結果、1975年に歴史的な作品が相次いで生まれたのかもしれない。
いずれにしても、ミュージシャンの音楽活動は外部要因に大きく左右される。そうした関係性は "Roots in Reverse" でこの後たっぷり語られる Laba Sosseh の項(PP. 83〜91)を読んでも強く感じたことだった。
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