Afro Cuban Music in Senegal (From Afro-Cuban to Mbalax) (5) : Laba Sosseh

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 Richard M. Shain "Roots in Reverse" の第4章では、最後にラバ・ソッセー Laba Sosseh を取り上げ、彼の経歴を辿りつつ、その才能と実績を大きく評価している。Laba については以前にも Blog と Facebook に書いた記憶があるが、もう一度改めて整理してみたい。

 Laba Sosseh は祖国ガンビアで歌手生活をスタートさせ、その後はセネガル、コートジボワール、アメリカ、キューバ等々と渡り歩きながら、アフリカ最高のサルセーロと讃えられるほどまでに名声を高めていった。特に西アフリカとニューヨークなども含めたカリブ世界とを音楽的に結びつけた功績は高く評価されている。なので Richard M. Shain が書いている通り、彼はアフリカのミュージシャンとして真にグローバルな活動を成し遂げた最初の一人と言えるだろう。

 その一方で、活動拠点を移すのに合わせて、音楽的パートナーや所属バンドも変わっていき、個人的には落ち着きのない(あるいは節操のない)人物のようにも感じてきた。そのような経歴に至ったのにはもちろん自発的な面も強かったことだろうが、しかし "Roots in Reverse" を読み直すと、それと同時に様々な外部要因に動かされた結果だったことも理解できた。

 Laba Badara Sosseh は 1943年3月12日に、その後ガンビアの首都バンジュルとなる街(当時は Bathurst)の一角で生まれる。家族は著名なグリオ一族だった。彼は成長するにつれキューバ音楽を耳にするようになり、中でも Septeto Habanero や Septeto Nacional に惹かれたという。そうした 78回転盤を聴きながら一緒に歌うことで、アフロキューバン音楽とスペイン語を学んで行った。20歳の時にはすでにプロとなっており、The Harlem Jazz Band、Rock a Mambo といったローカルバンドで活動していたらしい。

 1960年代の始め頃、Ibra Kassé と Dexter Johnson がバンジュルを訪れた際に、才能豊かな歌手がいるという噂を耳にしたことで、Laba は Star Band に誘われることとなる。
 以前 Laba Sosseh について書いたとき、Kassé たちにスカウトされたのは 1965年で、それは Star Band を脱退したのが1964年であることとは矛盾すると疑問を残した。しかしこれは私の英語の読み違いであった。 Ibra Kassé と Dexter Johnson が訪れたのは「1965年の独立へ向けての機運が高まるガンビア」であり、1965年だったとは書かれていない。(ということで、遅ればせながら訂正いたします。)

(ちなみに Laba Sosseh の父親はダカールに空港で働いており、その関係からか Laba はダカールで学業を終えたラシ。なので彼がダカールで暮らすのは Star Band 加入時が初めてだったわけではなさそうだ。)

 今回 Mazzoleni Florent "Afro Pop - L'âge D'or Des Grands Orchestres Africains" (Castor Music, 2011) のセネガルの部分にも軽く目を通し直してみたところ(この本の表紙でサックスを持っているのは Super Star 時代の Dexter Johnson)、Laba Sosseh がダカールにやってきたのは 1962年と書かれている。(P.187)同じく "Afro Pop" によると、彼が Star Band にいたのは 1964年の終わりまでとのこと。どうやら彼の在籍期間は 1962〜64年と考えて良さそうだ(ちなみに Laba によると、Dexter Johnson は愉快な男だったが、音楽の技術的な正確さには妥協がなかったそうだ)。

 "Roots in Reverse" の内容に戻ると、Star Band のサウンドが伝統的なキューバ音楽(típico)に方向付けられたのは Laba Sosseh の加入によってとのこと。それまでセネガルのバンドのレパートリーは、ラテン、フレンチポップ、カリプソなどのいわゆる variété、さらにはリズム&ブルースだったという。Laba 加入後の Star Band も、それまでのイージーリスニング的なスタンスは捨てて、Arsenio Rodriguez や Chappotin のようなもっと動きのあるサウンドを聴かせるようになったという。これは注目すべき指摘だ。その通りだとすれば、Laba Sosseh こそがその後のセネガル音楽の傾向を決定づけたとさえ言えるのだから。

 1932年生まれの Dexter Johnson と 1943年生まれの Laba Sosseh は11歳違いだったが、音楽的には理想的なパートナーだったようだ。2人は Star Band の音楽性を豊かなものに磨き上げた後、1964年末ないしは 1965年に Star Band を脱退し、Super Star de Dakar などで活動。さらには両者ともコートジボワールのアビジャンに転身していくのだが、その辺りのことが相変わらず正確にはわからない。

 前回(数年前に)Dexter Johnson と Laba Sosseh について調べて分からなかったことの一つは、どちらが先にアビジャンに行ったかだった。"Roots in Reverse" には「大統領に招かれるなど Dexter Johnson がアビジャンで成功した姿を見て Laba は刺激を受けた」といった意味のことが書かれて、てっきり Dexter の方が先かと思ったのだが、他に何を読んでも Laba が先だったように書かれている。これはどういうことなのか理解できなかったのだが、Dexter は Laba より先に拠点を移したのではなく、呼ばれれば演奏をしにいくということだったのだろう(この件に関しては最後にもう一度検討したい)。

 Super Star de Dakar はダカール時代のバンドだったのか、アビジャン時代のバンドだったのかもさっぱり掴めなかったのだが、Wikipedia で Laba Sosseh を検索してみたら、面白いことを書いていた。Laba はアビジャンに移ってからも Super Star de Dakar というバンド名を使い、一方ダカールに残った Dexter も同じ Super Star de Dakar を使い続けたというのだ。だから、ディスコグラフィーを整理しても混乱するばかりだったのだ!

 まだまだ不明な点の多い 1960年代後半の動きなのだが、ただ、2人が音楽拠点を移したのには、レコード制作の活発化や、マーケットの拡大といった時代変化が大きく作用したことは間違いない。1960年代後半には、例えばセネガルというローカルなエリアではなく、仏語圏西アフリカといったより広いエリアが意識されるようになった。1960年代にはダカールよりアビジャンの方がずっと大きなマーケットだったので(キンシャサとジョハネスバーグと並ぶ3大拠点とまで書かれている)、ミュージシャンにとってアビジャンに進出することは大きなステップアップだったのだろう。

 そうした音楽マーケット拡大の中心にいたのが大物2人 Daniel Cuxac と Aboudou Lassissi だった(セネガル出自の Daniel Cuxac もアビジャンでビジネスを営んだことは、それだけそのマーケットが拡大化していた証拠と言えるのかもしれない)。そんな2人は Laba Sosseh に目をとめ、売れると見込んで声をかけたようだ。Laba はまたしても音楽界の重要人物に促されて拠点を移し、時流に乗ったのだった。

(セネガル人の Daniel Cuxac と、ナイジェリアとコートジボワールの血を受け継ぐ Aboudou Lassissi は、ともにレコード・ビジネスに着目し、それぞれ Cuxac's DC Productions と Lassissi's Sacodisc International を設立。当初はレコーディングもレコードプレスもパリで行われたが、1974年にはアビジャンにも立派なスタジオが完成したという。)

 しかし不思議なのは Laba Sosseh のファースト・アルバム "Formidable Laba Sosseh" が Cuxac により制作されるには、1977年まで待たなければならなかったことだ(1976年に "El Sonero De Africa" という LP が N'Dardisc から出ているが、これは 1960年代のシングル集だと思う。また、最初 Laba は Lassissi 寄りだったものの、Cuxac からアルバムが出たことで、Cuxac と Lassissi との関係は悪化したのだとか)。

 このように、アビジャンでの Laba と Cuxac との関係は1970年代を通じて続くのだが、その一方で 1970年代にリリースされた Star Band の LP に彼の名前がクレジットされていることが謎だと以前に書いた。しかしこの謎も "Afro Pop" を読んで解けた。それによると、Laba Sosseh は Star Band にカムバックして 1973年にリリースされた3枚目のアルバムに参加したという。やはり彼は 1970年代の一時期、ダカールに帰っていたようだ。

(ただし、"Afro Pop" には明らかな間違いも散見され、こうした年次などは当てにならないところもある。また Wikipedia には「Laba は Super Star de Dakar を 1972年に解散させ、そこから Pape Fall を擁する Super International Band de Dakar などのグループが派生した」なんてことも書かれている。)

 "Formidable Laba Sosseh" はかなり売れたようで、音楽的にも商業的にも成功を収めたと書かれている。それなのに、Laba が次にスタジオに入るのは3年後の 1980年だったことに、Richard M. Shain も疑問を呈している(Number One と同様に、ライブ活動に忙しかったのだろうか?)。

 このようによくわからないことばかりの Laba の 1970年代なのだが、この時期に重要な出会いがあった。それは Orquesta Broadway や Johnny Pacheco のパチャンガバンドでも活動したモンギート Monguito(Mongito El Único / Ramón Quián)との巡り合いである。

 当時、コートジボワールの金持ちたちはお気に入りのバンドをアメリカから呼び寄せることもしていた。その一つが Monguito のオーケストラだった。彼のパチャンガ・スタイルの音楽は次第に時代遅れとなり、ニューヨークでは受けなくなる一方で、アビジャンでは大いに歓迎されて彼も気を良くしたらしい。そのオーケストラに Laba が招かれ共演することに。2人の「黒さ」は相性が良かったようだ。

 しかし、今度は Laba の方がアビジャンの時流にそぐわなくなる一方、ニューヨークでの可能性を感じ始めた。また Laba が大西洋を挟んだ2つの地域を音楽的につなぐことに、Lassissi がビジネスチャンスを感じ資金提供を決める。Laba がアビジャンを離れるに至ったのにはレゲエ人気の高まりもあったとされる。彼はまたまた、ビジネスマンの思惑と時代変化に後押しされたと言えるだろう。

 Laba にとってそのニューヨーク生活は居心地が良かったようで、その後8年間過ごすことになる。音楽的にまずまずの成功を収め、ヒスパニック社会から歓迎されたのには、イギリスの植民地だったガンビアで生まれ育ったために英語が話せたことと、アフロキューバンを歌いながらスペイン語が学んだことが大いに役立ったようだ。
(Laba 本人は、ニューヨークには行ったきりで一度もアフリカに戻っていないと言っていたらしいが、Daniel Cuxac は、彼は西アフリカとの間を何度も往復したと証言したとのこと。"Roots in Reverse" では Laba の 1970年代のセネガル時代について全く触れられていないこともやや解せなかったのだが、彼の経歴に関しては不明な点が多いのかもしれない。)

 その後 Laba Sosseh はセネガルに舞い戻り、フランスでは Orquesta Aragon とレコーディングを行い(?)、Africando にゲスト参加し、キューバ遠征を果たすなど、旺盛な活動を続けた(2007年9月20日に 64歳で亡くなる晩年までのキャリアについては、また機会があれば書いてみたい)。まるで渡鳥のような遍歴なのだが、しかしそうしたことは、Laba がビジネスチャンス(と金)にめざとかったというより、彼の実力を認め、その歌声を愛する人々に願われてのことだったのだろう。そしてそれは、自身の音楽キャリアを高めただけではなく、人気が下火となったことから逃れるためでもあり、そしてミュージシャンとして生き残るための必然的選択でもあったのではないだろうか。

 今回 Laba Sosseh について読み直してみて、彼と Dexter Johnson 2人の移動歴についてある程度のことが見えてきた。1960年代末、どちらもダカールからアビジャンに完全に移り住んだのではなく、どこかから声が掛かれば飛んでいくといったように、結構頻繁に行き来していたのではないだろうか。例えば Laba Sosseh はアビジャン時代に Issa Cissokho の Vedette Band ともレコーディングしているだから(これはダカール録音のはずだ)。

 Daniel Cuxac と Aboudou Lassissi が西アフリカ、さらには北米という広大なマーケットをターゲットにしていたのと同様、ミュージシャンたちも1国内に捉われることなく、音楽的チャンスやビジネスチャンスを見出す度に国境を超えていったのだろう。例えば Youssou N'Dour でさえ、1983年にはアビジャンに渡り、アルバム "Diongoma" をレコーディングしている。グローバルに活躍したミュージシャンとしては Manu Dibango なども連想する。

 今回改めて Laba Sosseh の経歴を調べ直してみたのだが、明確にできない点が多いままだ。しかし考えてみると、彼が大西洋を跨いで幾つもの国々を飛び交ったことは、例えば韓国や中華圏の歌手が自国と同時に日本でも活動するのと似たようなものだったのではないだろうか。そう考えると、Laba Sosseh がいつどこで活動していたのか細かく明らかにすることには、さほど重要性はないのかもしれない。







by desertjazz | 2024-07-05 12:00 | 音 - Africa

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