Massilia Sound System のアルバムを聴いたりしながら、鳥海基樹の『マルセイユ・ユーロメディテラネ:文化化と享楽の衰退港湾都市再生』や深沢克己の『マルセイユの都市空間 ー幻想と実存のあいだでー』を読み終えて、次は Massilia Sound System に関する文献に目を通し始めた。
その一つは彼らに関する研究書 Camille Martel の "Massilia Sound System - La façon de Marseille"(Le Mot et le Reste、写真左は 2014年の初版/右は 2021年の増補版)。ひとまず 40ページまで読んでみたのだが、知らなかったことばかりでとても興味深い。
第1章 'Ceux Qui Racontent Ecrivent Leur Conte'(PP. 9-17) は、François Rider (Tatou) の生い立ちから、1980年代前半の Massilia Sound System 結成前夜までの話(Tatou がマルセイユにやってくるまでについてはあっさりとしか書かれていない)。
・1959年11月23日、パリで生まれ、18歳で結婚。
・オクシタン語の発見。
・レゲエを愛好。
・母方の祖母の家のあったラ・シオタへ。教師を目指す。
・仲間たちと 122e Sous-Sol を結成。
・ヘロインを使い出すが、肝炎になって止める。
・Prince Tatou と命名し DJ活動。
・Jagdish Kinnoo、Jo Corbeau、Philippe Bauer、Little John、Docteur Muller ら仲間たちとの出会い。
第2章 'Sound System, C'est Massilia Sound System!' (PP. 19-40) は1984〜87年頃の話。
・1984年5月20日に初ライブ、罰金を課せられる(その日から数えて40年!)。
・1984年、飢餓で苦しむエチオピア支援イベントに参加。
・住んだエリアには船員が多く、彼らは世界中から話を持ち帰った。
・初めてのカセットのレコーディング。
・ファンジン "Vé !" についてと、掲載された「辞典」。
・Lux Botté (Lux B) との出会い。
・オック語で歌を書くことを勧められる。
・TV初出演時のインタビュー。
・1987年、パリでレコーディング。
Massilia Sound System を作った Tatou は若い頃からレゲエに夢中になり、特に Bob Marley や Yellowman から影響を受けた。レゲエをほとんど聴かない私が Massilia に夢中になったのは、Tatou たちがレゲエを高速化したことにポイントがあるらしいことが掴めてきた。
意外に思ったのは Jagdish について結構書かれていること。1960年2月2日にインド洋のモーリシャス島で生まれた彼は、インド経由で 1982年にマルセイユにやってきた。英語とフランス語も話せるトリリンガルの Jagdish は MicMac 界隈にモーリシャスの音楽セガ sega を持ち込んだ人物だ。前回紹介した Port de Bocan All Stars で聴けるインド音楽の要素も、彼がもたらしたものなのではないだろうか。
第2章まで読んで一番驚いたのは、その Jagdish が Massilia Sound System の最初期のメンバーの一人だったこと。単に MicMac などのアソシエーションにおける繋がりから、Tatou が彼のアルバムに参加したり、2人が Port de Bocan All Stars で一緒になったりしているのかと思っていたのだけれど。このことには今まで全く気がつかなかった。
マルセイユには歴史的にアルジェリア系の人々(ベルベルなど)が多いが、仏語圏アフリカの住人も少なくない。中でもセネガル人が多く、Tatou たちも結構早い頃からそうした人々と音楽的な交流があったことも書かれている。Toko Blaze のルーツも同様で、両親はカメルーンとコートジボワールの出身らしい。
(Jagdish のアルバム2作)
ここまでは Tatou たちがプロになる前の時代の話。まだ Papet J も Claude Sicre も出てこないが、第3章から1988年以降に進んで内容が深まっていくのだろう。私には聴き取り不能な歌詞の分析もたっぷりなされているので、この先も楽しみだ。400ページ以上ある大著だが、何とか目を通そう。
(Massilia Sound System 関連の文献など)
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『マルセイユ・ユーロメディテラネ:文化化と享楽の衰退港湾都市再生』の中では、マルセイユの文化化という文脈の中で Tatou や Massilia Sound System、Fiesta des Suds のことが度々語られている(P. 91、P.92、P.138、P.185、P.198、P.407 など)。
「1982年に開局し、1996年にFBMに入居したのが、その名も苦役ラジオ(Radio Galére)である。マルセイユのヒップ・ホップのパイオニアと言えばマッシリア・サウンド・システムだが、設立メンバーのフランソワ・リデル、通称タトゥーは、せっかく入学した最難関校・高等師範学校(ENS)を中退して根無し草の頃、苦役ラジオでDJをしていた。」(P.198)
*FBM(フリッシュ・ラ・ベル・ドゥ・メ):ベル・ドゥ・メ地区にあった閉鎖中の煙草工場を芸術家たちのためにコンヴァージョンしたもの。
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