◇メモ:映画『ヴァタ ~箱あるいは体~』鑑賞記
映画『ヴァタ ~箱あるいは体~』(監督・脚本・制作 亀井岳)を観てきた。この映画について、多くの友人・知人たちが SNS で取り上げたり、雑誌で論評したりしている。それならば観ておくべきだろうと考えた次第だ。何よりマダガスカルの竹製楽器ヴァリ(ヴァリハ)Valiha の音をたっぷり聴けるドキュメンタリーらしく、彼の国の音楽に深い興味を持っている自分にとっては必見だろう。ところが、ヴァリについても、ドキュメンタリーという点でも、その予想は半分当たり半分外れていたのだが。
この映画を観るに際して、友人たちの綴った文章は一切読まず(唯一の例外は、見た夢と重ね合わせて書かれた感想を斜め読みしたもの)、ほぼ予備知識ゼロのままでいた。なので、以下の感想もそのままの条件で書いてみよう(全く的外れかもしれないが、答え合わせは後日のお楽しみ?)。
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映画のストーリーは、他所の村に嫁いだ姉が亡くなり、しばらく経ってからその遺骨を箱に納めて故郷に持ち帰るというというもの(合っている?)。上映中そのことを知って思ったのは、これは「複葬」を紹介するドキュメンタリーなのだろうかということだった。
「複葬」とは、一度埋葬した遺体(遺骨)を掘り起こすなどして、然るべき時に然るべき方法でもう一度葬儀を行うこと。複葬という風習としてよく知られているのはバリ島のものだろう。バリ人たちは、仮埋葬しておいた亡骸を、数年後にまるで祭りのような盛大な葬儀を執り行って、故人を天に送る。そうした資金のない人々も、費用を出し合って合同葬儀という形で同様に弔う。インドネシアには複葬を行う民族は他にもいて、例えばスラウェシ島のトラジャ人の葬儀もその代表例と言えるのではないだろうか。
(昔タナトラジャを旅した時、ランブソロという盛大な葬儀に偶然めぐりあい、見舞い金をお渡しして列席させていただいた。それはその年最大規模のものだったらしく、バリ島とはまた違った祝祭感に満ちた賑やかさと、声明のような静謐な合唱に圧倒された。トラジャの人々の中には、一度風葬などをした後、タウタウという可愛らしい人形を供える風習がある。崖に並べられたタウタウも実際に見てきたのだが、これも「複葬」の一種と言えるように思う。)
インドネシア各地に複葬があることを知り、それに刺激を受けて「複葬」について調べたことがある。すると、複葬は古代の日本(関東)にもあり、また沖縄や台湾にも、さらにはマダガスカルにもあることを知った。インド洋も含めた環太平洋圏には「複葬」文化の繋がりがあるのだろうか。そう考えて関連する文献を探したり、「複葬」をテーマに「世界葬式紀行」といったドキュメンタリー・シリーズを作れないかと提案したこともある。
そのようなことを思い出しながら、『ヴァタ ~箱あるいは体~』を鑑賞したのだった。
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映画が始まってほどなくして違和感を抱き始めた。その最初は登場人物たちの会話が皆「棒読み調のセリフ」に聴こえること。映像の映し方も「カット撮り」だ。その一方で、ドキュメンタリー的なシーンも混じる。これはドキュメンタリーとドラマのハイブリッド、言い換えればノンフィクションとフィクションの二重性を持った作品なのではと考え始めた。
ならば、セリフは監督の亀井が書いたものなのだろう。それは事実に基づいたものに違いないはずだが、それを実際に語るマダガスカルの人々にとっての意味と、監督が再現しようとするものとの間に、ズレは生じてはいないだろうか。言うなれば、両者が抱く死生観に対する二重性が存在しうるのではないか。
(先の「世界葬式紀行」を提案したとき、プロデューサーから「いつ人が死ぬの?」と突っ込まれた。再現はそれへの一つの解答たるものだったのかもしれない。)
映画の終盤、本来見えるはずのない存在が、可視化される(これは映画で多用される常套手段でもあるのだが)。そこにも「夢か、現か」という二重性を感じたのだった。
さらには、遺骨を納める箱と、箱型の竪琴の箱までもが重なって見えてくる。
この映画は、亡き家族を思う気持ちや彼らの死生観を描いた作品だと思う。だが、強引な解釈をすると、このように二重性が幾重にも重なり合っており、その分だけ自由な解釈が許されるように感じた。実際、マダガスカルに暮らす人それぞれで死生観は多様であるだろうし、それを観ての受け止め方もまた違っていて構わないだろう。
さらにより強引に、この映画は、嫁ぎ先での1度目の埋葬と故郷での2度目の埋葬という「複葬」、つまりマダガスカルにおける埋葬文化の二重性を扱っていると解釈したくなった。しかしこの映画で再現されるものは、世界各地に見られる「複葬」とは異なるようなので、さすがにこれは深読みが過ぎるか。やはり、故人に対する気持ちの持ちようや死生観について素直に考えるだけで十分なのだろう。
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期待していた音楽面でもたっぷり堪能することができた。あいにくヴァリは登場しなかった?ようだが、それでも多様な楽器が演奏され、今のマダガスカルに息づく音楽と歌を感じることができた(録音もとても良かった)。
マダガスカルの人々のルーツはどうやらマレー諸島にあるらしく、紀元前300年頃にボルネオ島南部の人々が渡っていったという説もある。そのこともあって、ヴァリという楽器はマレーから渡ったと考える人もいる。その説を最初に唱えたのは中村とうようさんだっただろうか(『アフリカの音が聞こえてくる』P. 200/201)。このタイプの楽器、古いものは、弦は後から張るのではなく、胴体の竹の表皮を細長く切り出し、ブリッジを噛ませて浮かせて弦にするという構造だった点も面白い。
このように、マレー(インドネシア)とマダガスカルに共通する複葬文化や、楽器に関する歴史的繋がりを思い出して、両地域の関係性について改めて調べたくなったりもしたのだった。
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(・・・繰り返しになりますが、これは映画の公式サイトさえまともに見ていない段階での勝手な解釈・雑感です。悪しからず。)
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