中村隆之『環大西洋政治詩学 二〇世紀ブラック・カルチャーの水脈』(人文書院、2022)読了。
中村隆之さんの書かれたものをここ最近よく読んでおり、この本もたっぷり楽しめた。全編書き下ろしだろうと思って手にしたところオムニバスだったのだが、それでも時期の離れた原稿がうまく並べられて構成されていて、流れがとてもいい。マルティニック(マルティニーク)島やグアドループ島の黒人たちの、植民地状況への抵抗、それを支える思想などについて理解しながら、5日間で読み通してしまった(ゆっくり読もうと思っていたのにも関わらず、先が気になってしまって)。
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今年はアフリカとカリブ海の歴史や思想について学び直そうと考えて、中村達『私が私が諸島である カリブ海思想入門』(書肆侃侃房、2023)、マリーズ・コンデ『生命の樹 あるカリブの家系の物語』(平凡社、2019)、山口昌男『アフリカ史』(講談社、2023)、河野哲也『アフリカ哲学全史』(ちくま新書、2024)などを読んでみた(昨年は復刻したマンゴ・パーク『ニジェール探検行』なども)。『環大西洋政治詩学 二〇世紀ブラック・カルチャーの水脈』も、そうした流れで選んだ1冊である。
『アフリカ哲学全史』や『環大西洋政治詩学』を読むことで、レオポール・セダール・サンゴール、エメ・セゼール、フランツ・ファノン、エドゥアール・グリッサンなど名前は知っているものの、きちんと理解していなかった重要人物たちに関して頭の整理をできたことは大きい(それにしても、マルティニックという小さな島から偉大な作家や優れたミュージシャンが相次いで登場したのはどうしてなのだろう)。
ネグリチュードがフランスに集ったフランス植民地の若者たちが打ち立てた概念であることもあって、従来より、そうした仏語圏の詩人・作家や政治家に関する研究が先行している観がある。そうしたことを指摘しつつ、英語圏カリブ文学を研究し、英語圏カリブのフランス語圏に劣らない重要性、歴史や現状について著した『私が私が諸島である』は興味深い。ただ、常に仏語圏の研究を参照点としながらも、英語圏の特殊性が何かというところまで捉えきれていない印象を受けた(フランス語圏とは異なり、カリブの英語圏の島々には労働力を補うためにインド人が多数移民していることをこれを読んで知った。読後時間が経っており、著者の中村達さんは最近各所で評価されているようなので、この本は再読すべきだろう)。
もう一人の中村さんのことに話を戻そう。フランス語文学や音楽を含めたアフリカ文化などを専門に研究されている中村隆之さんの存在に気がついたのは(遅ればせながら)約2年前。アラン・マバンク『アフリカ文学講義 植民地文学から世界 - 文学へ』の翻訳やオレリア・ミシェル『黒人と白人の世界史ー「人種」はいかにつくられてきたか』の解説を読んで、良い仕事をされていると感じたのだった。それで、結構な数出ている彼の著書を少しずつ読んでいるところだ。
しかし、中村さんへの興味の契機となったのは、なんと言っても彼があるフランスの歌手について著した『魂の形式 コレット・マニー論』だった。細田成嗣さんが編集された『AA 五十年後のアルバート・アイラー』に圧倒されて以来、カンパニー社の本はほぼ全て読んでいるのだが、この『魂の形式』はどうするか正直しばらく迷った。コレット・マニーなる歌手は全く知らなかったので。ところが読んでみたら、これが圧倒的に面白かった(フランスのジャズ界との関係なども初めて知る興味深いことばかり)。実はこの頃はまだ、アフリカやカリブの研究者である中村氏と同一人物だとは気がついていなかったのだが。
そして、岩波書店の『世界』(2023年8月〜2024年1月)で連載された「ブラック・ミュージックの魂を求めて」を読んで中村さんへの興味が決定づけられた。アフリカから奴隷として連れ去られた人々が、アメリカやカリブでどのように音楽を支えとして生きてきたか、それが現代の音楽までどのように通じているのか。全6回という長くないテキスト量に、音楽を主軸とした広い世界観と長い歴史観が見事に描かれていたのだった。
中村隆之さんの著作に惹かれる理由は、視点の興味深さ、研究の精緻さ、論考の深さなどに圧倒されるからだ。可能な限りあらゆる資料に目を通し、作品を読み/聴き、対象とする人物に、まるで旧知の仲であるかのように肉薄する。そのレベルが尋常じゃないのだ(振り返ると、グリッサンやフォークナーへの迫り方は、コレット・マニーの時も一緒だ)。そうした内容もさることながら、文章の読みやすさにも感心してさせられる。加えて、文章に間違いがなく、誤植やケアレスミスもほとんどない。一体どれだけ時間をかけて丁寧に書かれているのだろう。
(・・・余談になるが、最近専門書を読んでいてスムーズに進まないことが多い。内容を十分に理解できないことは自分の責任だとしても、何度読み返しても意味が掴めない文章、明らかに日本語としておかしな文章、延々同じ語尾を繰り返してリズムの悪い文章、極端に長い一文、基本的事項の誤り、読点の位置が悪い、助詞が間違っているなどして正しい意味を掴むのに苦労する文章、そうしたものがとても目に付く。そうした本に限ってケアレスミスも多い。最近は編集者は校正までしないのだろうか? 例えば中村とうようさんや、友人の作家たちは、内容の深いものをとても読みやすく書く。こうしたスキルは結構重要なのではないだろうか。)
河野哲也『アフリカ哲学全史』と『環大西洋政治詩学 二〇世紀ブラック・カルチャーの水脈』はどちらもクロード・マッケイを重要人物として挙げている。やはり彼の代表作『バンジョー』くらいは読んでおかなくてはいけないか。
昔マッシリア・サウンド・システム Massilia Sound System のリーダーのタトゥー Tatou がムッスーT Moussu T e Lei Jovents を結成した直後、マッシリアとは別のグループを始めた理由をタトゥー本人に直接尋ねたことがある。それに対して彼は、クロード・マッケイの『バンジョー』を読んで、かつてマルセイユの港にはアメリカやカリブから来た黒人の船乗りがいて、彼らがバンジョーで奏でるオペレッタなどがあることを知った。そこからムッスーTを着想したのだと語ってくれた。それでマッシリア・サウンド・システムのギタリストのブルー Blu がバンジョーを弾き始めたのだった。
だが、『バンジョー』は訛った英語で会話がなされるので、英語が不得手な自分には少々手強く、一向に進まない。いつか日本語訳が出ることを期待しているのだが(訳しにくいし、売れないだろうな)。
『環大西洋政治詩学 二〇世紀ブラック・カルチャーの水脈』は装丁の美しさも魅力である。しばらく前に読もうと思い実際の本を探したのだが、図書館にも近所のどの書店にもなかった。高いので迷ったが、結局内容を確認せずに買ってみたら、これが正解。この本に限らず、『第二世界のカルトグラフィ』(共和国、2022)などもデザインと装丁がよく、それだけで手元に置いていて嬉しくなる。
さて、『環大西洋政治詩学 二〇世紀ブラック・カルチャーの水脈』を読んで、グリッサンやシャモワゾーも読みたくなったものの、そのような時間は取れるのだろうか。ところが、書棚には 1995年に翻訳されたパトリック・シャモワゾー+ラファエル・コンフィアン『クレオールとは何か』(平凡社、1995)が並んでいた。1990年代初頭には、マラヴォワ Malavoi やカリ Kali の音楽を熱心に聴き、いつかマルチニックやグアドループを訪ねてみたいと考えながら、このような本も読んだのだった。しかし、「エピローグ フランス海外県ゼネストの史的背景と<高度必需>の思想」を読んで、カリブの美しい楽園というイメージが生やさしすぎることを痛感させられた(東琢磨『全--世界音楽論』の書名はグリッサンを真似たものだと気がついたりも。このことは著者自身が「はじめに」に書いていた)。
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ところで、専門家でも研究者でもない私がこうした類の書物を読むことに意味があるのだろうか。あくまで個人的趣味、知的好奇心を満たす楽しみで十分だと思っている。だが、アフリカやカリブの音楽を聴く上での心構えとして、こうした知識は持っていた方がいいと思う。そして、それらは意外なところで結びつき合い、新たな視点も与えてくれる(実際、レコードの解説や雑誌の原稿を書く際に生きてくる)。
『環大西洋政治詩学 二〇世紀ブラック・カルチャーの水脈』で、植民地政策が人種差別を生み出したこと、差別する者がそれを意識していないことを繰り返し解説している。そして、それと全く同様な構図が日本にも当てはまること、それが今の日本におけるヘイトスピーチ/弱者への差別を生み出していることを認識させられた。
続いて、石田昌隆さんの新刊『ストラグル STRUGGLE - Reggea meets Punk in the UK』(TypeSlowly、2024)を読んだ(石田さんの本は毎度面白く、今回も一気読み)。英語圏カリブ(ジャマイカなど)とUKとの関係が、仏語圏カリブとフランスとの関係と、植民/被植民という観点から捉えるとそっくりだと感じた。その本の「Chapter 1 ウィンドラッシュ世代の移民 UKにおけるレゲエとパンクの出会い」は、最後に The Special AKA の「傑作」"In The Studio" の中の1曲 'Racist Friend' の一節を取り上げている。
「あなたの友人が人種差別主義者なら縁を切れ」
そういうことなのだ。人種差別は他人事ではなく、無自覚であってはいけない。そのことを心に刻み、自身の行動を考える上でも、「読んで考える」必要があるのだと思う。
中村達さんは『私が諸島である カリブ海思想入門』の終盤で、先代の作家や学者には、ジェンダーやフェミニズムやクィアに関する視点が欠けているという批判の高まりについて書かれている。中村隆之さんも、ジェンダーやセクシュアリティの視点の不十分さについて、反省を込めて指摘されている。最近そのような潮流があるのだろうか。しかし、あらゆる研究も前世代からの積み重ねによって進む物であり、最初から一気に全てを網羅するようなものなどあり得ない。なので、そのような批判にこそ無理があるようにも感じた。
だが、それを許してしまうと、無意識的に植民地化/奴隷化を行っていた人々に対しても「そうした時代だった」と前時代性を理由に許容してしまうことにもなりかねない。そのことを深く認識しているからこそ、2人の中村さんには、前向きな反省と自己批判があるようにも思った。
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(考えてみると、カリブーフランス、カリブーUKという関係性は、マグレブーフランスとの関係性とも共通する点が多い。特にかつての植民地アルジェリアとの関係においてそれは顕著で、私が1995年〜96年にマルセイユに移民問題の取材で滞在した時にも「対立」が顕著だった。その時を含めてマルセイユに都合9回通っているのも、マグレブ移民社会の定点観測やオクシタン/カタルーニャ問題への関心が少なからずあるからだ。今年7月に久しぶりにマルセイユを歩いた時にも、そうしたことを意識した。
ところが、今回マルセイユで様々な人たちと語り合った中で最も印象に残ったのは、トルコによる虐殺からマルセイユに逃れてきたアルメニア移民と、1970年代に彼らが起こした凄惨なテロに関する話だった。ニューヨークに渡ったアルメニア移民の生み出した豊かな音楽、2011年に旅したマレーシアのペナン島のアルメニアン・ストリート、そして 2018年に旅したアルメニアの首都エレバンから見上げた(トルコに奪われた)聖なる高山アララトを思い出したながら、重い話を伺ったのだった。そのようなことは、また別の機会に。)
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