角幡唯介『地図なき山 日高山脈49日漂泊行』読了。著者は常に独創的な探検を続けていて、デビュー作『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』を筆頭にどれも読み応え十分。『狩りの思考法』以降は思索の度を強めている印象だが、今回は地図を持たない山歩きを通じた思索がますます興味深い。(「原始時代の人類の旅」の行動様式の前提にはやや疑問を持ったが、正確なことは分かっていないのだから、その辺りは自由でいいのだろう。余談になるが、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』も前提が文化人類学の知見には反すると思う。)
改めて強く感じたのは、現代人がスマートフォンやGPSに頼ることで、動物としての能力や生存本能を失っているということ。自分も長年ケータイを持っていなかったので「旅先でどうやって歩くの?」とよく訊かれた。国内でも海外でも地図1枚持って、太陽や建物の影を見ながら方向を確認して歩いていた。今でも地下鉄の駅から出て最初にするのは太陽を探すことだ。
それでも最近 iPhone を持ち歩くようになってから、ついつい Google Map に頼ってしまう。食事するにも検索して評価の高い店を探してしまう。だが、昔は自分の勘で店を決めた方が旅の楽しさがあった。気ままに歩くことで、ガイドブックに載っていない素敵な場所に出会うことも度々だった。iPhone 片手の旅はどうにも退屈、それが最近の反省点。来年からは宿も食事処もなるべくネットに頼らない旅に戻そうかと考えている。
『地図なき山』の舞台となった日高の山はガキの頃に遊んだ土地なので懐かしい(この本に出てくる額平川も)。日高山脈の最高峰、幌尻岳は幼少時に暮らした土地の象徴だった。そこでまた疑問が。
小学校の校歌の冒頭の歌詞は「♪ 聳えて高き幌尻の〜〜」だった。でも「幌尻」は「ホロシリ」と歌い「ポロシリ」という呼び方は耳にしたこともない。ところが OKI さんの曲で「ポロシリ」という言い方を初めて聴いて驚いてしまった。いつから「ポロシリ」に変わったのだろう? いや元々「ポロシリ」で、これは教科書にない漢字の読み方で小学生を混乱させないための配慮だったのだろうか、あるいはアイヌ(とアイヌ語)への無知や差別から生じたことだったのだろうか?
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