私がインドネシアに、中でもバリ島に通い続けてきた理由の一つは、その音環境に惹かれたからである。特にウブド周辺の自然の音が素晴らしく、これまでウブドの中心から幾分外れた場所に宿を取ることが多かった。
今回もウブドに11泊してみた。最初に6泊、ジャワからバリに戻りサヌールに2泊してから(バリ島で最も古いこのリゾートビーチに来るのは約30年振り)最後に5泊。そのウブドでは大したことは本当に何もしなかった。有名美術館はどこも繰り返し観ているし、観光客向けのガムランを観てもつまらない。雨季の今はフルーツが最高に美味しくて、もうそれだけで天国だった。
なるべくゆっくり、することがなくても気持ちよく過ごせるよう、宿は、眺めの良さそうなところ、静かそうなところ、部屋数の少ないところを探した。ウブドには宿が1000軒あるとも言われている(1000室ではない!)。これだけ多いと、その分なかなか候補を絞りきれない。選択肢が豊かなようだが、意外と理想的なところが見つからない。ネット情報だけでは実際の様子まではわからないからでもある。
ジャワのジョグジャカルタとソロの宿も似たような考えで探した。静かで雰囲気が良さそうで、なおかつレビューで評価の高いところを選んだつもりだった。だが、予想外な要素もあった。それはバイクの音の喧しさだ。どちらの街も走るバイクの数が尋常ではなく、1日中バイクのエンジン音ががなりたて続けている。2つの宿とも通りに接していて、夜遅くになってからはそのノイズがなおさら酷くなる。交通量が減った方が高速で走りやすいのだろう、爆音で走り抜けるバイクが増えるのだ。ソロの宿では耳栓をしないと寝付けないほどだった。途中でコンクリート造りの近代的なホテルに移ることも考えたが、土地勘のない街だったので、このことは諦めるしかなかった。
昔からウブドの宿は、主要な通りから極力離れたところを選ぶようにしている。だがそのウブドでも結局見込み違いがあった。どこに宿泊するか散々迷った上で選んだのは、深い谷や田んぼに挟まれた人気の宿3ヶ所。きっと自然の音に包まれるだろうと期待していたのだったが、たどり着いてみると、どこも周囲は建設ラッシュで耐え難い騒がしさだった。谷には高級ホテルが所狭しと建設され、田んぼも次々潰してヴィラやスパに変えている。これ以上バリにホテルやヴィラを建ててどうするのか。
雨の多さも想像を超えていた。今年の雨季は雨の降り方が例年と比べてかなり激しかったようで、バリでは各地で甚大な被害が発生していた。私がバリ入りしたタイミングで雨が収まり始めたようなのだが、それでも終日スッキリ晴れるようなことはなく、残念ながら自然の音を存分に浴びるまでは行かなかった。熱帯の音の快楽を期待して来たのに、工事音、バイク音、そして豪雨の音と、不快なノイズが続くことには参ってしまった。
ジョグジャカルタでも連日激しいスコールで、宿でまったり過ごす時間が多かった。それでもソロに移動してからは晴天に恵まれ始め、ジャワからバリに戻ると雨がすっかり止んで、今度は耐え難いくらいの暑さになった。これで雨季も一区切りなのだろうか。そう安心した途端、猛烈な嵐が襲ってきた。それはまるで台風かハリケーンのよう。その感覚は正しくて、何と「熱帯サイクロン」が接近しているという。赤道直下ではサイクロンやハリケーンは発生しないと思っていたので、熱帯サイクロンなどという言葉は耳にした初めてかもしれない。
雨と風は夜間にとりわけ激しくて、連日深夜に降り始め、明け方にかけて荒れ狂っていた。一度などは午前2時頃に爆弾が炸裂したような凄まじさで突然降り出し、思わず飛び起きたくらいだった。日中も外を歩くのが危険なほどだったので(実際連日死者が出ていたらしい)、旅の終盤はほとんど部屋の中にこもっていた。
今回の旅ではどこに行ってもどこに泊まっても、猫たちが寄ってきて、甘えたり何かを訴えかけてくるものだから、彼らと遊んでいる時間が長かった。ウブドの最後の宿でも飼い猫たちがほとんど部屋に居着いている。それで仕舞いには夜も一緒に寝ることに。わざわざ遠くまで旅してきて、一体何をしていることやら。
しかし、豪雨に閉じ込められて部屋で過ごす時間、案外これが良かった。これほどの悪天では周囲の工事は全て中止。小降りの時に工事を再開しても、そこからの雑音は風や葉の音がマスクしてしまい、ほとんど聞こえない。これには助かった。
いや、それは些細なことで、もっと大切なことに気がついた。ベランダの前に立ち並ぶ木々が風に揺れる音、野生の大きな葉に打ち付ける雨の音。そうした音に耳を傾けているとなぜか飽きない。心地よくて何をする気も起こらない。それらは不快なノイズのはずなのに、快感をもたらすノイズだった。そうしたノイズに包まれるひとときは、至福の時間としか言いようがない。考えてみると雨の音を心地よいと感じた記憶はない。これは何とも不思議な感覚だった。
そして、夕方に雨が止むと音の世界が一変する。あちらこちらから虫が囁き始める。カエルたちが言葉を交わし出す。遠くからはガムランの調べがうっすらと響いてくる。これぞ待っていたひととき。バリ島滞在が与えてくれる最高の快楽だ。
今回のインドネシアの旅、バイクの音や、工事の音、深夜まで鳴り響く音楽には度々辟易させられもした。しかし、熱帯本来の音を浴びた瞬間、そうした不快なノイズは全て吹き飛び、悦楽なノイズが空間を満たす。場所さえ選べば、バリ島ではまだまだ素晴らしい音空間に浸ることができる(そうした空間を見つけ出すことが年々難しくなっているのも現実だが)。バリ島の田園や山間や渓谷には、本当に素晴らしい音空間がまだまだ残っている。
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