読書メモ:カズオ・イシグロ『遠い山なみの光』

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 先日公開された映画『遠い山なみの光』を観て、果たしてこうした話だっただろうかと戸惑った。そこで原作を読み直してみることに。これまで(日本語と英語で)三度ほど読んでおり、会話中心のそれほど長くない作品なので1日もかからなかった。

 カズオ・イシグロの作品は、どれも読む度に「時空が歪む感覚」が生じる。それは長編3作目からで、最初の2作にはまだ習作的な印象を持っていた。それでも、映画を観た後だと新たな気付きが多く、自分の読みの浅さを感じる。

 この作品の筋はほとんど覚えているつもりだったが、薄気味悪い描写(夕暮れ、猫、など)ばかり印象に残っていて、8割くらいは忘れていた。中でも藤原の記憶は全くない。その分だけ新鮮に読めたので、これも読書(再読)の面白さだろうか。

 さて、肝心の疑問点、最初の4ページを読んで解消。やはり小説と映画は別物であることを確認できた。

 映画を観た後に改めて読むと、悦子と佐知子、景子と万里子の相似性が強まる。124頁で時代が移る瞬間とか、259頁の二頭の仔馬だとか、そうした二重性を感じさせる描写が巧みだ。

 会話文も上手い。特に緒方。他人を批判しながら自分自身もその轍に陥っていることに気がつかず、周囲を苛つかせるくどい物言い。映画での三浦の演技も良かったが、これには敵わない。

 そして、、、259頁「あの時は景子も幸せだったのよ。」の一文でゾクっと背筋が寒くなる。初読時、最後の最後で「どういうこと? これは誤訳では?」と思ったことを思い出した。この小説は話の筋が隙間だらけで、そうした穴を埋めるヒントも全く書かれていない。そこは読者の自由な想像に預けているのかとも思った。しかし、大きな仕掛けがあった。その一言で時空が歪み、ここまで積み重ねてきた全てが崩れる。いや、小説として破綻している。

 それでもカズオ・イシグロは、その一文に賭けた。読み手の想像力を試した。そして、映画はその一点を突いた(コピーは「その嘘に、願いを込めた」)。だとしたら『遠い山なみの光』は恐ろしい小説だ。

 映画を観て違和感を抱いたのは、一昔前のような安めな夕景のセット。そして、後年の吉田の老いを晒した肌と対照的な、主人公2人、広瀬と二階堂のまるで現代の女優のようなアイメイク。 ・・・過去は全て幻影だったということか。


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 トリスタン・ガルシア『7』読了。2段500頁超。一言で表現すれば「SF x 哲学」。短編集としても大長編としても読めるが、中盤は幾分拷問だった。よく書いたな、よく訳したなと思わされる、今後もう出てこないようなとんでもなく変な小説だ。






by desertjazz | 2025-09-19 19:00 | Book - Readings