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 美術に興味があるので、国内でも海外でも旅先では美術館によく足を運ぶ(昔カラハリ砂漠を一緒に旅した学者から「その国のことを手っ取り早く知るには、博物館に行くといいですよ」と教わってからは、なるべく博物館にも出かけるようにしている)。これまでに、ニューヨーク、ワシントン、サンフランシスコ、メキシコシティー、ロンドン、パリ、マルセイユ、マドリッド、バルセロナ、ローマ&バチカン、ヴェネチア、アムステルダム、シドニーなどの主要なところは観尽くしただろうか。自分が特に好きな作品は何度も繰り返しじっくり観て満足しているのだが、それでも時にはそれらに匹敵するような鑑賞体験は突然訪れる。



 12月6日、神原正明の『「快楽の園」ボスが描いた天国と地獄』に続いて、『『快楽の園』を読む ヒエロニムス・ボスの図像学』を読了。それで思い出したこと。


 2012年、E.H. ゴンブリッチの『美術の物語』を読んで、プラド美術館を観る必要を感じ、すぐにマドリッドへ飛んだ。しかしその時点ではボスという画家も『快楽の園』も知らなかった。これだけ美術が好きなのに。


 しかしその分だけこの絵画を目にした瞬間の衝撃は凄まじかった。これは一体なんなんだ?? なんて楽しい絵画なんだ! ポップな色彩感、ディテールの細密さ、そして楽しさに交錯する恐怖。これが500年前に描かれたことを知った時のさらなる驚き。人間だけで400人ほど描かれ、しかも個々の構図や細部などが全て異なるため、いくら時間をかけても鑑賞し尽くせない。結局この作品だけで30分も費やすことになった。そう考えると、全く予備知識なしでこの傑作と対面できたのはとても幸せなことだった。


 ボスの残した絵画は非常に少ない。点数ではフェルメール並だ。なので、その後ヴェネチアなどでボスの他の作品を追うことができたことも幸いだった。


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 2017年11月、マッシリア・サウンド・システムのライブを観るため、フランス南部のリヨンに滞在した。その時も日中の時間を使って美術館を訪問。常設展には特段気を引く作品はなかった。しかし、ついでに覗いてみた特別展のフロアに入った途端に息を飲んだ。


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 展示されていたのはフレッド・デュー Fred Deux という画家の作品。多くが、白地に黒のライン、そして微かな色付け。自分の好む抽象画だ。パッと見には明るい色彩で、フォルムも楽しい。しかし、そこにあるグロテスクさにすぐに気がつく。どちらの特徴もまるでボスと同様だ。


 一辺2メートルを超す大きな作品も多いのだが、いずれも極々細い鉛筆の線で描かれている。絵にぐっと目を近づけないそれを認識できないほど細かい。画家は何かに取り憑かれているかのよう。


 描かれているものは、人間のようで、妊娠初期の胎児のようで、バケモノのようで。いや、醜さも抱えた人間の内面が喚起する要素を結びつけたかのようでもある。SF画も連想させるイメージからは病的なものが湧き出してくるようだ。


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 フレッド・デューの経歴を調べてみた。彼は 1924年、パリ近郊の都市ブローニュ=ビヤンクール Boulogne-Billancourt に生まれ、2015年に没している。初期にはポール・クレーに影響を受けた作品を制作していたが、1950年代末には後年まで続くオリジナルな線描スタイルを獲得。この画家との遭遇は、自分にとって久々にボス級の衝撃だった。しかし、どうやら世界レベルでは勿論、フランス国内でもさほど知られていないようだ。


 会場では彼のカタログを買うことは諦めた。だが、今年10月にマルセイユでようやく手に入れることができた(ネットで買うことは可能だったが、送料が高いと思い、今秋フランスに飛ぶ少し前に Amazon.fr にオーダーし、現地で受け取った)。それで今は自宅でも彼の作品を楽しんでいる。縮小した複製では、細部まではよく分からないのだけれど、、、。


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昨年11月に「ようやく来ることのできたリヨンでは、美術館で衝撃的な出会い/大発見が待っていたのだが、そのことについてはまた別の機会に。」と書いたのは Fred Deux のことだった。)




 美術に限らず、何ごとも予備知識なしで出会った時ほど、その衝撃は大きい。まるで不意打ちを喰らったかのように。特に世間の評判など関係なく、自分の好む作品に巡り合った時ほど。音楽もまたしかり。だが最近は、そのような音楽体験はめっきりなくなったなぁ。







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# by desertjazz | 2018-12-09 10:00 | 美 - Art/Museum

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 何と、カラバル(カラバリ)音楽のコンピレーションがリリースされていたとは! 完全に見落としていたこのアルバムを慌てて取り寄せて、繰り返し聴いている。

 2005年春に旅したナイジェリアでは色々な体験をした。フェミ・クティを観に行ったニューシュライン New Shrine ではフェラ・クティの長女に面会してご挨拶。レゴスにある書店兼レコード店 Jazzhole では、Bobby Benson "Taxi Driver" の世界初CD化した Evergreeen Music 盤を発見し、また Fatai Rolliong Dollar の復帰を知って彼のそのリバイバル・アルバムも入手。しかし、それらを遥かに超える驚きは「カラバリ音楽」との出会いだった。

 ナイジェリア南東部も音楽の盛んな土地で、イボ・ハイライフ Igbo Highlife(代表格は Chief Stephen Osita Osadebe、Oliver De Coque、Sir Warrior、Celestine Ukwu、Nico Mbarga、Oriental Brothers など)やイジョ・ハイライフ Ijaw Highlife が特に有名だ。そして中心都市ポートハーコートから周辺の地方へ目を向けると、カラバル Calabar などの(ヨルバやハウサに比べると少数派民族の)人々による音楽の存在に気がつく。例えばデルタ地帯へと進んで行った際に、移動の途中に見つけたカセットショップに立ち寄って King Robert Ebizimor や Chief Barrister S. Smooth といったローカル・ミュージックのスターたちを知ったのだった。

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 ナイジェリア南東部のハイライフ・ミュージックは、ローカルなものほどサウンドのストリームが(単調というのではなく)スムーズだという印象を持っている。Pereama Freetown and His Youth Stars Band of Nigeia などは個人的にかなりお気に入りで、いくつかのアルバムは名盤だと思っている。

 カラバルの住むデルタ地帯をさらに深部へと進み、小さな町や村で発見したのがカラバリ(彼の地では Kalabari と呼ばれていた)の音楽だった。チープでドライな響きのエレキギター、シンバル程度のドラムが刻むリズム、それにコーラスだけという実にシンプル、と言うよりスカスカな音楽。それがとてもプリミティブで呪術的に聴こえ、文字どおり圧倒されてしまった。そんなカラバリのカセットを路上の店などで探しまくって少数ならが入手。驚きはそれで終わらない。デルタ末端に近い川沿いの村でのこと。バラック小屋のような酒場を訪ねると、DJがそうしたカセットをプレイし、それに合わせて人々が踊っていたのだ。

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 入手したカセットの中では Opuso Cultural Society of Ke-Kalabari やシェブロンの原油支配に抗議する Ebenezer Cultural Band of Kalabari が特に凄かった! それらは CD-R に焼いて今でも時々聴いている。こんな強烈な音楽、もっと聴きたい。ポートハーコートにはロンドンなどから国際便が飛んでいるので、もう一度訪ねてみたいと思っているのだが、今のところ実現できそうにない。

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 そんなカラバル(カラバリ)の音楽なのだが、もっと都会的な録音を集めたアルバムが2年前にリリースされていたことを今頃知った。CD も出ていたが、オーダーしたのは LP2枚組の方。

"Calabar-Itu Road: Groovy Sounds From South Eastern Nigeria (1972-1982)" (Comb & Razor, 2016)

 残念ながら、私が探し求めているカラバリ・サウンドからはスタイル的に遠く、ハイライフやファンクなど都会的なトラックが中心である。ラゴスなどからの影響を受けたサウンドの多様性が感じられる(フェラっぽいナンバーも収録されている)ものの、全15曲中にこれと言って極め付きのものは見当たらない。しかし、1曲目 Isadico Dance Band of Nigeria の "Mbre Isong" の冒頭にちょっとだけカラバリ流の土着的なコーラスが感じられる。だとすると、もしかすれば本格的なカラバリ・サウンドをリイシューされる可能性もあるということか? 凄惨なビアフラ戦争からそれほど時間が経過していない1972年という時点で、ローカルのポピュラー音楽の録音がなされていたことを知ったのも収穫になった。

  Record Store Day 用にプレスされた?この2枚組(2000セット限定らしいが、完売するはずないだろう)には、ナイジェリア南東部リバー州に関するガイドブック(全44ページ)が付属していて、主要ミュージシャンについても紹介されている。これを拾い読みしていると、またまたポートハーコートに飛んで行きたくなってしまうのだった。



 ナイジェリア南東部には(ハイライフ系に分類されることもある)「ナンブラ北部の音楽でめっちゃ地元密着型」の Egwu Ekpili という音楽もある。今年の7月に名古屋のNさんが多々ご教示くださったので、ここに引用して整理しておこう(Nさんについてのプライベートな情報部分は割愛)。

・きっかけは高橋健太郎氏がツイッターで Christopher Asah and His Seven Seven Group of Enugwu Ugwu Nijoka "Enunka" を取り上げたこと。ナイヤビンギに似ていると感想を綴られていたが、私はこれを聴いてカラバリとの類似性を感じた。

・「この Christopher Asah もそうだけど、(彼はこっちではセブンセブンって言えば誰でも(この Egwu Ekpili 聞いてる人達には)わかる感じです)イボ語で Egwu(エグゥ)=音楽、 Ekpili(エピリ) はこういう楽器の名前。 これはナイジェリアでもわかっている分だと最古の楽器と言われてるらしい。」

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・「もともとはこの Ekpili を使った音楽が Egwu Ekpili と言われていたのが、今ではこういったタイプの音楽全般を指して Egwu Ekpili と呼ばれています。先程アップした写真の Ekpili はかなり古いタイプで、太鼓的に叩いて使うのではなく中に手を入れて揺らして音を発生させる感じらしい。今使われてる Ekpili はちょっと写真見つけられなかったけど、手に持つ感じでシャカシャカ音というかそんな感じの音を出すものらしいです。」

・「(私Dがシェアした)CD屋のウェブサイトにも Egwu Ekpili のミュージシャン達がずらっと並んでいましたが、この音楽はかなり局地的に聞かれてる感じで、場所はアナンブラ州北部のオマンバラ川流域が中心。だから、アナンブラ人でも南部の人は聞かないし(好きな人はいるかも)。他州の人、例えばイモとかは文化も違うからモロッコ?誰、みたいな感じになると思う。」

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(Morocco のカセットも持っていた。)


・「代表的なミュージシャン Chief Ozoemena Nsugbe(オゼメナ・ンスベ)、Morocco Maduka(モロッコ・マドゥカ)、Christopher Asah(クリストファー・アサー aka セブンセブン)、Chief Onwuzuluike Udemgba(オヌズルイケ・ウデンバ)などなど。歌ってる内容は、イボ伝統の大切さとかもあるけど、実は、地域の名士や金持ちは歌手にお金を払って自分の為に歌を作ってもらう文化があるので、人の名前のタイトルだとだいたいそういう歌であの人は偉大とかあれしたこれしたとかそんな感じ。」

・「アナンブラ州でもオマンバラ川流域と書いたけど、だいたいここら辺です。左に太いリバーナイジャが見えるけどその右側の川流域。オマンバラ川が変化してアナンブラという州の名前になりました。」(地図参照)

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・「あと、今ちょっと残念だなと思ってるのは、Ekpili 音楽の後継者がなかなかいなくて、存命で元気なのがモロッコくらい、若い人はどうしても音楽やるなら今の音楽(その方が稼げる)という方向になってしまう。郷土音楽の存続という課題があると思う。」


 Egwu Ekpili の CD はこのサイトを通じて購入可能のようだ。Christopher Asah / His Seven Seven もリストにある。試しに買って見ようかとも思うのだが、現在はネットで聴ける音源もそれなりにあるようだ。




 ナイジェリア音楽も探求し始めると全くキリがない、、、。







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# by desertjazz | 2018-12-08 14:00 | 音 - Africa

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 本日 12/7 にリリースされたクンバ・ガウロ Coumba Gawlo Seck の新作 "Terrou Waar" 意外と軽やか。最近の女王様然としたところも取れた感覚(数年前にクンバ・ガウロに会った時、180cmを超えるだろう長身と共に、シャイな仕草が印象に残ったことを思い出す)。トラックによってはマンディングの風味もあって汎アフリカ的、かつ自己の集大成的側面も見せる。3曲目 "Siyo" と4曲目 "Na" の笛はまるでアルバム "Yo Male" のアレンジを再現したかのよう。続く5曲目 "Diombadio" の枯れた弦の音はマシンコに聞こえる。7曲目 "Ngoulok" は軽快なンバラ。終盤10曲目 "Tekk Gui" の涙声と、11曲目イスラミックな "Naby" は新境地か? ラストは先行シングルだった "Allez Africa"、この曲何度聴いても楽しい! フィジカル欲しい!







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# by desertjazz | 2018-12-07 20:00 | 音 - Music



 堤未果『貧困大国アメリカ』、井手英策『富山は日本のスウェーデン:変革する保守王国の謎を解く』読了。その雑感。


 堤未果は『貧困大国アメリカ』などの著作を読んで絶望的気分になった。それで、もうこれ以上そんな気分に陥りたくなくて、彼女の最新刊『日本が売られる』はしばらく買うのを躊躇していた。内容はどうやら既知のことが多いようでもあるし。しかし、やっぱり読んでおくべきと思い改めて通読したのだが、絶望を通り越して、地獄に突き落とされたような暗澹たる心持ちになってしまった。ここまで酷いとは、唖然とするばかり。読んでいると気が滅入ってくるのだが、今日本人が逃げずに真っ先に知るべきは、この『日本が売られる』と矢部宏治『知ってはいけない 隠された日本支配の構造』で明かされた内容だろうと思う。


「日本が売られる」ことの具体例については、日本の現状に関心のある人なら知っているだろうし、この本をすでに読んでいる人も多いだろうから割愛。しかしこれほどのデタラメが本当に通用するのだろうか。ここ数日の「水道法」に関しても「漁業法」に関しても、著作の中で堤が書いている通りにことが進んでいるので現実なのだろう。そう考えると恐ろしい「予言書」だ。


 無駄なインフラや軍備の整備などで借金まみれになり、産業育成のための有効な戦略を持たず、侵略戦争への反省もなく周辺諸国に敵ばかり作り、教育では場当たりなことを繰り返し予算も削減、ゼネコン延命のための環境破壊を続け、挙げ句の果てに取り返しのつかない原発事故を起こす。かねてより、この国は自滅に向かっていると考えていたが、現政権が今やっていることは、それよりもっと酷い「国の破壊」なのではないだろうか。


 やること全てが政治家や大企業などの「金」のためだとしても、しっかりした教育によって若者たちに将来稼げる知力を植え付け、また低〜中所得者層の収入をアップさせた方が、国民全体の購買力が上がって経済が循環し、長期的には金に貪欲な支配層や利権者たちも儲かり続けると思う。しかし、「金だけ、今だけ、自分だけ」が徹底している彼らには、どうやらそんな考えはないようだ。自分が死んだ後のことなど全くどうでもいいという考えが見透かされる。


 こんな現状を許しているのには、官僚やメディアなどの責任が大きいとする指摘は間違っていないだろう(もちろん彼ら/それらの全てはないにせよ)。だが、実際どこまで期待できるのか。正確な情報を基にロジカルに考え判断を下そうとしても、上から拒絶される。抵抗が過ぎると配置転換など排除されるといった話も(あるいは「消される」可能性も?)、ネットに流布し伝え聞きもする。それで、時に保身に動き、時に権力者に取り込まれ、結果忖度する者ほど生き残る(ひとつの例は最高裁判事か)。その構図は政治家についても同様なのだろう(このあたりは噂からの推測になるので詳しいことは書かないが)。


「知識人」と自称する輩たちも一緒だ。どこまで本気で言っているか理解できない嘘でも、権力者におもねった駄弁を繰り返していた方が、彼らから重用され発言力も高められる。恥を晒してでもその流れに乗った方が楽だと思う者が増えて、この悪循環は(いや、立場によっては好循環か?)ますます進みかねない。残念ながら、もう全てが手遅れなのかもしれない。


 しかし、堤未果が『日本が売られる』を通じて一番伝えたかったメッセージは、まだ諦めてはいけないということだろう。「第3章 売られたものは取り返せ」で紹介した世界各地での事例はそのためのもの。自滅・破壊への一方通行から後戻りする方法はまだあるということだ。「種子法」や「水道法」が改悪されても、各自治体が国の方針に従わない手はあるはず。例えば水道の民営化を行わなければいい(そんな単純な話でないことは分かっている。逆に水道法を口実に民営化して、表面的に自治体の予算を削減しようとするところも出てくるだろう)。これからは各都市・地方自治体と国との新たな戦いが始まる。それぞれの自治体には常識と良心と冷静さがあるはずだ。


 例えば井手英策の『富山は日本のスウェーデン: 変革する保守王国の謎を解く』で取り上げられたいくつかの町。この本はこのところスキヤキ・ミーツ・ザ・ワールドでお世話になっている(そして父が生まれ育った)富山県への関心から読んでみた。「『海、山、湖、川などで遊んだことがありますか』『動物を飼育したり、花や野菜を育てたりしたことがありますか』と聞かれたとき、『何度もあった』と答える子が大都市の平均よりも少なかった」(P.144)という。つまりは「豊かな自然があること」が「当たり前すぎ」なのだと分析している。そのような経済的な「豊かさ」とは異なった(羨ましい)「ゆたかさ」が富山県にはあり、それを活かす取り組みがいくつもなされている。


 守るべき個性や独自性はどの市も町も村も持っている。富山の「ゆたかさ」のように。国に従うことによって、それらが失われかねないなら、戦うしかない。日本各地が有する「歴史な遺産」や「優れた特徴」を、国による圧力・暴力からいかに死守するかが重い課題になってくるだろう。それに打ち勝つのは、庶民一人ひとりの常識と判断力と良心だ、そう信じたい。


 憲法改正、いや憲法改悪の危機が迫っているという。しかし、そこにも大きな矛盾が存在しているのではないだろうか。たとえ憲法を変えて戦争のできる国にできたとしても、国の実態が失われていては意味をなさない。このままでは人口が減り、経済力も衰えて、日本という国の存在が薄まっていくばかりだ。愛国心をいくら強制しても、国がまともに存立し得ず、国民も減ってしまっては、なんのための憲法なのか。破壊された国家に憲法は存在し得ない。アメリカに押し付けられたと言って憲法を変えようとする一方で、他のことに関しはことごとくそのアメリカの言いなり。そのことに限らず、徹底的に国を破壊しようとしている「彼ら」のやっていることには、どうも矛盾ばかりを感じる。



(ほぼ一気書き。まとまりなく、言葉足らずのところあり。悪しからず。)







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# by desertjazz | 2018-12-07 19:00 | 本 - Readings

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 先日ナイロビの書店から送られてきた "Shades of Benga - The Story of Popular Music in Kenya: 1946-2016" (Ketebul Music, 2017) に、さっとひと通り目を通してみた。最近ケニアで出版されたこの本、想像していた以上に大判で、全部で678ページと厚く、1冊約2.8kgあるずっしり重い豪華さ。内容も素晴らしく、ケニアのポピュラー音楽史を俯瞰するには、これ以上望みみようないと言えるほどの、最高の文献だろう。

"Shades of Benga - The Story of Popular Music in Kenya: 1946-2016" (Ketebul Music, 2017)


 第二次世界大戦終結後、兵隊たちがアコーディオンやギター、様々なスタイルの音楽を持ち込んだことで、ケニアのポピュラー音楽がスタートした話から始まる。そして、その後コンゴのミュージシャンたちやルンバから影響を受けたこと、ベンガに加えて、ルオ人のオハンガ、ヨーロッパのダンス音楽を模倣したムウォンボコ、スピリチュアル・ミュージックのアコリノ、ターラブなどのケニアの各スタイルの音楽について、さらには近年の動向に到るまで、70年間の歴史を紹介。章立ては以下の通りで、各章ごとに主要人物(ミュージシャン、レコード制作/放送関係者、等々)についても綴られている。

  01 The Pioneers
  02 Benga
  03 Rumba in Nairobi City
  04 Ohangla
  05 Mwomboko
  06 Akorino
  07 Taarab
  08 Funk
  09 Gospel
  10 Urban Expressions
  11 Hip-Hop
  12 Live Gigs
  13 Broadcasters
  14 The Smithonian Folklife Festival

 かなりの大著ながら、写真がたっぷり掲載されていて、それらを見ているだけでも楽しくて飽きない。400枚以上の写真が掲載されているようだが、全て初めて目にするものばかり。そして、一人ひとりの表情がいいんだな! テキストの方はページ全体の3分の1程度なので、読み始めたら一気かも(読み終えたら、改めてレビューを書こう)。


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当時の雰囲気が鮮やかに記録されている。(表紙は Fundi Konde)

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Tabu Ley Rochereau 若い!

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最もページが割かれているのは Samba Mapangala & Orchestre Virunga

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ターラブの女王様 Bi Kidude



 ところでこの本、豪華でデカいだけに1冊 KES 5800(5800 ケニアシリング = $58 = 約7000円)もする。今年の夏どこかの記事で紹介されているのを目にして欲しいと思い、欧州・米国・豪州のサイトや書店を当たって探してみたものの扱っているところは見当たらず。出版元にメールしても返事はなし。結局、先に入手された音楽評論家Fさんにアドバイスいただき、ナイロビの書店から取り寄せた。しかし、送料がとんでもなく高くて(本代よりもずっと高額)、アフリカ音楽を愛する有志3人で共同購入することでやっと手に入れたのだった。届いた小包は 8.8kg。何はともあれケニアから無事に届いてよかった。この本、今日本にあるのは4冊のみなのではと思う。


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 近年海外で出版されたアフリカ音楽に関する書籍は、ここ10〜20年のヒップホップなどについても詳述していて、「買わなきゃ、読まなきゃ」といつも考えている。しかし、現在の音楽シーンの変化が激しいものだから、とてもじゃないが文献は追いついていない。なので、今を知るにはネット情報がより有益なのだろう。これでは時間がいくらあっても足りないのが悩ましい。






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# by desertjazz | 2018-12-04 23:00 | 本 - Readings

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 2018年も残すところあと1ヶ月。振り返ってみると、今年はコーカサス、中でもジョージア(グルジア)とアルメニアが自分にとって大きなテーマとなった1年だった。


 昨年のベスト・ライブに選んだのは、アルメニア出身のピアニスト、ティグラン・ハマシアン Tigran Hamasyan のソロ公演(東京)。(→ http://desertjazz.exblog.jp/26352615/)それは繊細で実験性に富み、とてつもない集中力を示すものだった(続いて観に行った屋久島の森での公演は、ティグランの消耗が激しかったようで、時間がやや短かったのは残念だったが)。その余韻が残るうちに、今年の春また彼の新作が届けられた。"For Gyumri" と題されたソロ作で、5トラック収録の10インチEP盤(CD もあり)。夢の世界に誘うような美しく幽玄な調べに(特にA面の短い3曲)、彼のソロ・コンサートの光景をまた思い出す。

 ギュムリ Gyumri はアルメニア北西部の都市で、ティグランの生地である。1988年のアルメニア地震で多数の死者と甚大な被害の出た街としても知られる(当時名はレニナカン)。ティグランの最新作はその故郷を思って演奏されたものだろう。ECM からの近作2タイトル "Luys i Luso" (2015)、"Atmospheres" (2016) も素晴らしかった。そうした彼の音楽にはアルメニアの歴史と情景が刻み込まれている。ティグランが生まれ育ち、そのインスピレーションの源になっているアルメニア、そしてギュムリをいつか訪れたいと思い始めたのだった。


 コーカサス3国の中でアルメニア以上に関心を抱いていたのは、実はジョージアの方(残る一つはアゼルバイジャン)。国内各所の絶景もさることながら、ワイン誕生の国ということにより興味を惹かれた。それでジョージア行きのフライトを時々調べたりしていた。

 そんな折にチャンス到来。今春、カタール航空のキャンペーンを見つけた。ドーハ経由のカタール便を使えば、ジョージアの首都トビリシまで格安料金で往復できる。そのことをパートナーに相談すると、一言。「アルメニアにも行けるんじゃない?」 早速調べるとまさにその通り! 東京ードーハ、ドーハーエレバン、トビリシードーハ、ドーハー東京のビジネスクラス4フライト合わせて、普段の約半額の20万円台。カタール航空は One World グループなので、JALのマイレージを20000マイルほど貯められることを加味すれば実質20万円強だ。カタール航空のビジネスクラスはここ数年ランキングの1位か2位を維持している高評価フライト。これを逃す手はないと思い、コーカサス(ジョージア&アルメニア)旅行を即決した。

 出発までの間は、旅程をじっくり検討しながら、コーカサス関連の図書を手に入る限り読み漁って(島村菜津+合田 泰子+北嶋裕『ジョージアのクヴェヴリワインと食文化: 母なる大地が育てる世界最古のワイン伝統製法』、木村崇+篠野志郎+鈴木董+早坂眞理『カフカース 二つの文明が交差する境界』、富樫耕介『コーカサス 戦争と平和の狭間にある地域』、廣瀬陽子『コーカサス国際関係の十字路』など硬軟様々に)、コーカサス3国の歴史や風土や建築について学ぶ日々。

 それと平行してコーカサスの様々な音楽を聴き続けた。ロサンゼルス在住アルメニア人たちのジャズ、エレバン在住の若手プレイヤーたちがネット公開する音源、そして多彩なポップスまで。それらの中で、とりわけ味わい深く聴いたのは "Nostalgique Armenie - Chants d'amour, d'espoir, d'exil & improvisation 1942-1952" (Buda Musique) というアルバムだった。大国ロシアやトルコに挟まれ、凄惨なジェノサイドを経験するなど、歴史に翻弄されたアルメニアの民。彼らの多くは世界各地に逃れることとなった。そんなディアスポラたちにはフランス(パリ、マルセイユなど)やアメリカに渡った者も多く、このアルバムにはそうした彼らの心の支えとなった音楽がコンパイルされている。古い録音ながら滋味深く、大変素晴らしい内容で毎日のように聴き入った。


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 そして6月、トランジット地のドーハに飛んで短い観光、それからエレバンへ。アルメニアとジョージアを約1週間ずつ周遊して7月に帰国した。(エレバンートビリシ間は車をチャーターして、観光しながら移動。途中ギュムリに立ち寄ることも検討したが、ルート的に無理だった。)初めて訪れるコーカサスへの旅は、美味な酒と料理、歴史深い建築群、さらには絶景の数々を堪能する素晴らしいものとなった。特にアルメニアの古い教会や修道院を訪れる度に、ティグランはこの景色を見つめる中から素晴らしい音楽を生み出したのかと感慨しきり。(その旅行記は未だ手付かずで、結局年内には書けそうにないのだが、、、。)


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 9月には再来日したティグランのコンサートへ。西宮公演のチケットを手配していたものの、関西地区を大型台風が襲い無念の中止。大阪まで来て諦め切れないので、翌日の名古屋公演の当日券を買い、ティグランの音楽をもう一度味わう。今年もギリギリで、彼の生演奏を楽しめて幸いだった。


 このようにアルメニアを追い続けた2018年。その最後に、待望のアルバムが登場した。ヴァルダン・ホヴァニシアン&エムレ・グルテキン Vardan Hovanissian & Emre Gültekin の第2作目 "Karin" (Muziekpublique) だ。

 ヴァルダンは、アルメニアのダブルリードのたて笛ドゥドゥクの奏者。エムレは、トルコのリュート系弦楽器サズの奏者で、歌も担当。この2人が10数年前に出会ってコンビを組み、そして完成させた作品が "Adana" (2015) だった。柔らかくももの哀しいドゥドゥクの音。端正なサズの調べ。両者の静謐な対話ほど心に染み入るものはない。これこそ 2016年に出会った最高のアルバムだった。

 ジェノサイドという歴史的禍根から国境を挟んで今も対立するアルメニアとトルコ。(今夏の旅行に際してはトルコ経由も検討したのだが、イスタンブールーエレバン間にはフライトは飛んでいなかった、、、というのは当然か)だが2つの国にとって、音楽的にはルーツを共通とするところが多いので、当然ながら2人の音の親和性は極めて高い。

 今回の新作のタイトル「カリン Karin」は、トルコ東部に位置するエルズルム Erzurum の街の古のアルメニア名。現在はトルコ領だが、かつてはアルメニアの土地で、ヴァルダンの祖父もここで生まれたという。近くにはアルメニアの人々の心の拠り所であり続ける高峰アララト山もそびえる。そんなことから、この Karin というタイトルは、音楽にとって国境など無意味であることの象徴にも感じられる。

 前作 "Adana" はドゥドゥクとサズを中心に、ダブルベースなど最低限の楽器だけを加えた、静謐で強い統一感を醸した作品だった。それに対して今度の "Karin" は参加ミュージシャンがぐっと増えて総勢13名。女性ヴォーカルもあって、前作の音に囚われない挑戦作となっているが、聴き始めた当初は「少々やりすぎか?」とも感じた。しかし、アレンジ面での工夫も含めて、トラックごとに多様な彩が加えられていても、サウンドの基本線は不変。決して派手さなどなく、優しさ、穏やかさ、美しさは、全く損なわれていない。淡々としたエレムの歌声もこれまで以上に聴き手を慰るようだ。自分にとっては "Karin" は今、荒んだ下界から逃れた後、深夜に心を鎮めるのに最適な音として響いている。


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 ヴァルダンとエレムの音楽は本当に素晴らしい。当然のごとく次は彼らのライブを観たいと思い、時折調べている。(日本に来てくれないだろうか?)そしてアルメニアのことも、この国の音楽についても、まだまだ知らないことばかり。より深く知るために、アルメニアとジョージアを今度はいつ旅しようかとも考えているところだ。







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# by desertjazz | 2018-12-02 11:00 | 音 - Music

Coumba Gawlo "Terrou Warr"

 セネガルの女王様、クンバ・ガウロ Coumba Gawlo Seck が 12/7 に新作 "Terrou Warr" をリリース予定。30周年アルバム?のこのアイテム、通常の CD 盤の他に USB フォーマットでも発売されるようだ。何れにしても、セネガル盤なので、ユッスー・ンドゥールと同様入手しにくいのが困る。


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# by desertjazz | 2018-12-01 23:00 | 音 - Africa

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 「鞠の中村綾ちゃん」(と自分が勝手に呼んでいる)こと、西アフリカはマリ出身のシンガー、アヤ・ナカムラの第2作目が、本日パリから到着。タイトルはそのものズバリ "NAKAMURA"。しかも漢字でも「中村」と添えている。アヤちゃん、よっぽど日本びいきなんだな。

 昨年リリースされたファースト・アルバム "Journal Intime" は 2017年のベスト・アルバム第2位に選んだほどのお気に入り。なので、このセカンドもリリース直後から Spotify で聴き続けていたのだが、やっと CD でも楽しむことができた。


 ベスト・アルバムのコメントでは「声が特別良かったり、抜群に上手かったりするわけでもないのだが、」とちょっと語弊のある書き方をしてしまったが、その声が彼女の最大の魅力だと思う。軽く歌っているようでも、すっと前に出てくる伸びやかさがいいんだよな。まるでベンツに乗っている時のような「余力」を感じさせる歌声。きっと彼女の立派なボディが、その素晴らしい歌声を産む源になっているんだろう。

 さてセカンド・アルバム "NAKAMURA"。デビュー曲 "Brisé"、Fally Ipupa との "Bad Boy" 、MHD との "Problèmes" に匹敵するような飛び切りの名曲は見当たらないものの、いずれも佳曲揃い。例えば冒頭 "La Dot" や Niska と共演した "Sucette" の小気味良いフレージングからして「アヤ印」の楽しさ。PV を繰り返し観て耳に擦り込まれたシングル曲 "Copines" の軽妙なポップさも万人受けして当然。ダンサブルなトラックに身体が揺さぶられる一方で、切々とした彼女の声に包み込まれた女性らしさや独特な哀感には心が揺れる。全13曲で 38分というコンパクトさもいいな。

 アヤちゃん、この新作を引っさげて来年3月末からフランス・ツアーをスタートする。タイミングが合えば、3/30 のマルセイユ(Espace Julien)か 3/31 のパリ(L'Olympia)あたりを観に行きたいと思っていたのだが、、、各公演とも瞬く間にチケット完売! パリ公演がたったの2時間で捌けたことは、ちょっとしたニュースになっていた。ニューアルバムの曲が軒並みフランスでチャートインしたことも驚きと共に話題に。どうやら今、フランスでもアフリカ諸国でも「アヤ・ナカムラ現象」とでも呼びうることが起こっているようだ。

 2年前には日本ではほとんど誰も知らない存在だったのに、これからは日本でもグングン人気が高まりそうな予感。だけれどこれじゃ来日を期待するどころか、ヨーロッパに行ってもライブを観られそうにない。うーん、でもやっぱりアヤちゃんのステージが観たいぞ!



 (補足)

 「アヤ・ナカムラ」という名前の由来をご存じない方のために。

 アヤ・ナカムラは、アメリカNBCで放送されたテレビドラマシリーズ『ヒーローズ HEROES』の登場人物の一人、中村広(ナカムラ ヒロ)のファンで、そこから名前を取ったそう。そして、「アヤ」という名前は本名だそうです。

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# by desertjazz | 2018-11-30 18:00 | 音 - Africa

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 この頃夜になると安東ウメ子さんの『イフンケ Ihunke』をよく聴いている。それもアナログ盤で。これはドイツのクラブ・ミュージック系レーベル PINGIPUNG がプロデューサーの OKI さんに打診して、今年の夏にヴァイナル化が実現した 2LP である。

Umeko Ando "Ihunke" (Pingipung 060, 2018)

 アルバム "Ihunke" は言わずと知れた名盤。2001年にリリースされたオリジナル CD はもちろん持っており(2011年には未発表だった4曲を追加して再発売)、長年愛聴し続けている。しかし、12インチの美しいジャケットを目にした途端、どうしても欲しくなって買ってしまった。これで "Ihunke" は3枚目だ。

 しかしアナログ盤の音が期待した以上に良くて、買って正解だった。CD の音と比較すると、ウメ子さんの歌(ウポポ)も OKI さんのトンコリも、響きの細やかなところまでいっそう美しく記録・再生される。そのため、これまで慣れ親しんだ音以上に、空間的な広がりや奥行きを堪能できるのだ。CD の音も決して悪くないのだが、アナログの音に比べたら、幾分かだけ詰まって密室的に聴こえるように感じた。

 この 2LP には OKI さんへのインタビューを掲載したシートが封入されている。これは、アイヌを知らない/詳しくない外国人向けにアイヌやトンコリについて概説し、アルバム制作に至った経緯などについて書かれたものなのだが、日本人にとっても十分有益な内容だ。

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 それにしても、帯広アイヌのウメ子さん、旭川アイヌの OKI さん、樺太アイヌにルーツを持つ楽器トンコリ、これら3者が出会い、歌(ウポポ)とムックリとトンコリの音が織り重なって生み出される響きの何と美しいことか(数曲でウポポで加わっている女性たちはマレウレウの皆さんですね)。傑作という評価にも納得。自分にとっても一生ものだ。

(私は昔、白老町や、二風谷を含む平取町に住んでいたことがあるので、道南のアイヌにはある程度馴染みがある。だが、旭川や道東のアイヌ、またそれらの差異についてはほとんど何も知らない。アイヌのことをもっと知りたいな。)

 思い返すも、一度ウメ子さんの生声を聴いてみたかった。しかし彼女は 2004年に72歳で亡くなられているので、残念ながらそれは叶わない。その分残された録音を慈しみつつ聴き続けることにしよう。

 私の手元にある彼女の CD は以下の4枚。他に『ムックリと安東ウメ子』(1995年)(Wikipedia によると『安東ウメ子・ムックリの世界』1994年)といった作品もあるようなので、それもいつか聴いてみたいな。

・OKI featuring Umeko Ando "Hankapuy" (Chikar Studio CKR-0102, 1999)
・Umeko Ando "Ihunke" (Chikar Studio CKR-0103, 2001)
・Umeko Ando "Upopo Sanke" (Chikar Studio CKR-0106, 2003)
・Umeko Ando "Ihunke" (+4) (Chikar Studio CKR-0119, 2011)

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 最近はニュースに接する度にいよいよ絶望感がつのり怒りが収まらなくなる。そんな時でもウメ子さんの歌声はまるで子守唄のように私の心を鎮めてくれる。アルバム・タイトル「イフンケ」とは子守唄を意味するという。これは彼女の音楽に最も相応しい名前だろうと思う。







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# by desertjazz | 2018-11-30 14:00 | 音 - Music

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 アミナッタ・フォルナ『シエラレオネの真実 父の物語、私の物語』(原題:"The Devil that Danced on the Water")を読了。ブラックダイヤモンド、少年兵、武装集団による民衆虐待(四肢切断、レイプ、等々)と陰惨な印象の強い西アフリカのシエラレオネの現代史を振り返る意味で読んでみた。

 著者のアミナッタはシエラレオネ人の父とスコットランド人の母の間に生まれた女性で、現在はジャーナリストとして活躍中。その彼女の父モハメドは、かつて財務大臣を務めたものの、首相との意見対立をきっかけに政界を去る。しかしその後、無実の罪で逮捕され処刑されることに。1975年、アミナッタ10歳の時に襲った悲劇だった。

 それから25年、彼女はあらゆる資料に当たり、インタビューを重ねる(父を陥れることに与した者も多い)ことで、自分の半生を振り返り、父の晩年の姿を描き出していく。

 周辺に不穏な動きが起こる度に、イギリスやナイジェリアに逃れるなど、絶えず命の危険に晒されたアミナッタの子供時代はなんとも凄まじい。実母との別れといった辛い出来事も重なる。そして、父が殺されるに至った経緯の真相を知ろうとする彼女の忍耐力、精神力にも想像を超えるものがある。そうして浮かび上がった父モハメドの信念はただただ立派であるとしか言いようがない。単に暗澹たる話で終わらせていないところにも救いが感じられる。

 詳細な取材の結果だろうか、登場人物は割合多くて、馴染みない名前が覚えきれない。また時制が激しく現在と過去を往復するための読みにくさもある。明らかに日本語としておかしなところなど、校正がやや緩いところも残念。

 それでも、アミナッタの綴る「父の物語」「私の物語」は、シエラレオネの歴史を照射し、シエラレオネの人々にとっての「私たちの物語」を紡ぎ出すことに、ある程度まで成功している。あくまで個人史が主なので、基本知識として巻末の「シエラレオネの歴史的背景」を先に読むことをお勧めする。

(余談になるが、この辺りは、まるでブルース・スプリングスティーンが Springsteen On Broadway で 'I want to know your story, my story' と呼びかけ、「父の物語」を切々と語った情景をまた思い出してしまった。ネタバレになるので、これ以上は書かないが。)

 アフリカの悲惨な歴史、それは日本人にとって他人事に映りがちだ。この本もアフリカに対する個人的興味から読み始めた。しかし、アフリカのことを知るより、今の日本の状態についてもっと考えるべきだという思いが頭から離れなくて、何とも落ち着かなかった。堤未果が『日本が売られる』の中で「今だけカネだけ自分だけ」と表現する、無能な為政者や権力者(そして大企業の経営者も)の姿は世界共通。「口封じ」ひとつを取っても、我が国は「破綻国家」の手法を後追いしているという怖ささえ感じた。







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# by desertjazz | 2018-11-29 19:00 | 本 - Readings
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