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 "Roots in Reverse" を読み終えてのメモ、今回はセネガルのレコード・レーベル、ンダールディスク N'dardisc に関する話。

 このレーベルは、1960年代後半、スターバンド脱退後の Dexter Johnson や Laba Sosseh のレコードをいつくかリリースしているので、セネガルのアフロキューバン音楽について調べるとき、自然とそれらを聴きながらの作業になる。その過程で、このレーベルは彼ら以外のレコードもいろいろ出しており、またある程度の数、自分の手元にあることにも(最近になって)気がついた。それでも、ンダールディスクは所詮はダカールの弱小レーベルに過ぎないと思っていた。

 ところが、昨日、深沢美樹さんが Facebook に投稿された記事を読んで驚いてしまった。



 ンダールディスクは、サン=ルイにあったレーベルのソポフォンを興りとし、多数のSPを制作してきたと言う。そして「ソポフォン~ンダールディスクこそセネガル音楽の老舗レーベル、名門レーベルとの感を強くしたのでした。」と結ばれている。見事な分析で、拝読して思わず唸ってしまった。しかも Radio Africa のサイトにンダールディスクのディスコグラフィーがあると書かれているではないか。早速チェックしてみると、「西アフリカを対象とした最初の業録音レーベルのひとつ」といったことさえ書かれている。このレーベルがそれほど重要視されていたとは知らなかった。



 このディスコグラフィーを見て「これもンダールディスク盤だったのか!」と知ったレコードが数枚。そうしたことにも今まで全く気がつかなかった。

 ところで、ンダールディスクの7インチとLP盤は何タイトルあるのだろう。そのような興味は以前から持っていて、今回このディスコグラフィーと自分の所有盤とを照合してみた。手元にあるLPは Idy Diop の 33-15 までで、7インチは 45.08 から 45.26 までほぼ揃っている。Radio Africa のディスコグラフィーもそれぞれ 33-15 と 45.26 で終わっており、Discogs でも同様。よって、12インチの最終番号は 33-15、7インチの最後は 45.26 だった可能性が高い。また 45.07 より前の7インチはどこにも記載されていないので、存在するとすれば相当なレア盤なのだろう。

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 このディスコグラフィーをじっと見て気づいたことがもうひとつ。前々回の記事で紹介した Sexteto Habanero と同じEPが載っている。そのレコードを見直すと 'DISTRIBUTOR EXCLUSIVO - L. FOURMENT - B. P. 2477 DAKAR' と記載されているではないか。L. Fourment はンダールディスクのオーナーで、アドレスもンダールのものだ。と言うことは、この BEFOR はンダールディスクのサブレーベルということか?(No 17.01 というナンバーは 17センチ盤の1枚目を表していると推測。)

 ンダールディスク盤に限らずセネガルのレコードには LA RADIO AFRICAINE とスタンプが押されたものがとても多い。多分70年代頃の有名なレコード店だったのだろうと想像していたが、今回の深沢さんの文章を読んで、その点に関しても合点が行ったのだった。Dexter Johnson & Le Super Star de Dakar "Live a l'Etoile" (Teranga Beat TBLP 019, 2014) のライナーの Djibril Gaby Gaye の文章にも、同様な興味深いことが書かれている。

'At the time Dexter was in Senegal, we did not have a vinyl pressing plant. We had very few record shops, for example the RADIO AFRICAINE of Bernardot in Avenue Jean Jars, close to the "a l'toile" where Dexter was playing. He did manage to record a few 45s here, but the fabrication was done in France - we never had a pressing plant here, never. N'Dardisc was doing the recordings, which were sent to France for production.'


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 ンダールディスク盤について調べていて、最近知ったことが他にもいくつか。

 45.10 は Laba Sosseh et son Orchestre Vedettes Band の7インチ。Vedettes Band はラバ・ソッセーが International Band の次に組んだバンドなのだが(数ヶ月で解散したらしい)、このクレジットを見ると何とオーケストラ・バオバブのイッサ・シソッコが参加しており、1曲ではアレンジも担当している。1967年の録音なので、もしかするとイッサの初録音だったのでは?と想像したりして。

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 "Roots in Reverse" を読んでいると、イディ(イドリッサ)Idrissa Diop (Idy Diop) のことについても書きたくなった。しかし、彼に関してはとっくに書き上げていたことを思い出したのだった。今はもうこれほど詳しくは、とても書けない。




 これらを読み直すと、彼の極初期の録音に Rio Band de Dakar がある。聴いてみたいなと思っていたら、そのンダールディスク盤が7インチ箱から出て来て、自分でもびっくり。

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 その Idrissa の最新アルバムは、昨年リリースした "L'aventurier" だ。アフロキューバンではなく、Youssou N'Dour、Kine Lam、Omar Pene、Ismael Lo などのンバラ・カバー集で、今でも元気な歌声を聴かせている。

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(続く)







by desertjazz | 2019-02-27 12:00 | 音 - Africa

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 Richard M. Shain の "Roots In Reverse" に限らずどの資料でも、セネガルにおけるアフロキューバン・オーケストラの出発点はスターバンド The Star Band であったことが強調される。なので、クラブ・オーナーとしてスターバンドを生んだイブラ・カッセ Ibra Kassé と、最初期のバンド・リーダーだったデクスター・ジョンソン Dexter Johnson の二人こそ、セネガリーズ・ポップ黎明期の大立役者であったと言えるだろう。そのデクスター・ジョンソンなのだが、詳しく書かれたバイオグラフィーも見当たらないため、彼の経歴は結構掴みにくい。ありがたいことに、"Roots In Reverse" には彼に関する情報も多いので、他の資料も参照しつつ、その辺を少し整理してみたい。


 Biography of Dexter Allui Johnson (1932-1981)


 デクスター・ジョンソンは、1932年にナイジェリアのイバダンで生まれた。父は地元の診療所のディレクター、母は教師だった。当初は父の仕事を継ぐべく医療を学んでいたものの、程なくそれをやめて Samuel Akpabot Orchestra に加入。担当楽器はドラムだけだったが、次に加入した Lile Star Band というブラスバンドではホーン楽器を担当するようになる。

 50年代しばらくラゴスのハイライフ・シーンで活動した後、リベリアのモンロビアに移動。それからマリのバマコへ移る。当時のバマコにはセネガル人プレイヤーが多数集まっており、ジョンソンは彼らと出会ったことで、1957年に今度はダカールへと活動の場を移すことにした。それはより多くの稼ぎを見越してのことだったようだ。

 ダカールにやって来たジョンソンは、最初はハイライフを演奏していた。しかし、ここはハイライフが人気の英語圏ではなく仏語圏。そのため彼の演奏は見向きもされず、それで演奏スタイルを変えていくことに。ジョンソンは、やがてギニア人ギタリスト Papa Diabaté と出会い、Guinea Jazz などで共に活動。そして Moulin Rouge Club で彼らの演奏を観たイブラ・カッセがスターバンドのリーダーにジョンソンを据えることを思い立つ。そのアイディアを受け入れたジョンソンはスターバンドを率いて活躍することになる。

 1964年、イブラ・カッセと仲違いし(と言うより、ダカールの実力者たちから説得され援助も受けてのことだったようだ)スターバンドを脱退。その後は自身が率いるバンド Superstar de Dakar やラバ・ソッセーが結成した Super International Band などで活動する(後者については実際どの程度あったのか再調査中)。1970年にはセネガルからも離れて、コート・ジヴォワールのアビジャンに拠点を移す。この頃は Manu Dibango や Boncana Maiga とも活動し、また渡米してレコーディングも行った。

 ジョンソンが亡くなったのは 1981年、享年49歳。(Teranga Beat 盤のライナーノートには、誕生日も逝去日も同じ8月26日と書かれているが、さすがにこれは間違いだろう?)彼の葬儀を執り行ったのは(前回の記事でも触れた)Daniel Cuxac だった。

 デクスター・ジョンソンのメイン楽器はテナーサックスだが、多数のブラス楽器をこなす結構なマルチ・インストゥルメンタリストだったようだ。また、彼自身が作曲することはなかったものの、大半の曲のアレンジを担当したらしい。彼はとても物静かな人物だったそうだ。しかし、配下のミュージシャンの演奏テクニックに関しては大変厳しく、周囲の人々は彼に対して尊敬と恐怖を抱いていたという。

 数々のバンドを通じてジョンソンの芳醇でまろやかなテナーサックスは愛され続けた。とにかくダカール時代の彼は多くのミュージシャンたちにとって憧れの的で、誰もがなんとか近づきたいと思ったようだ。ラバ・ソッセー Laba Sosseh もそんな若者のひとりだったのだろう。スターバンドがガンビアのバンジュルまで演奏旅行に行ったとき、ラバ・ソッセーが「歌わせてほしい」と言ってきた。その時歌った "Guatanamera" を聴いたカッセとジョンソンが、ラバ・ソッセーを気に入り、彼をスターバンドに加入させたという。二人はスターバンドを抜けた後も多くの共演を果たす。ジョンソンがアビジャンに向かったのは、ラバ・ソッセーを追ってのことだったという話も伝わっている。ただし、ダカールを離れた二人が同じバンドでプレイすることは二度となかったという。

 オーケストラ・バオバブ Orchestra Baobab のサックス奏者、イッサ・シソッコもジョンソンに憧れを抱いていた。イッサはジョンソンのテナー・スタイルを模倣したという。イッサが67年に録音に参加したレコードを持っていることに最近気がついたのだが、それを聴くと確かに彼のテナーはジョンソンそっくりだ(後日紹介予定)。セネガルのアフロキューバンは、パーカッションによるリズムを強調した激しいキューバのスタイルと比べると、ゆったりとしていてスムーズである。セネガルの音楽がそのようなサウンドを長年保ち続けたのには、ジョンソンの影響がかなり大きかったのかも知れない、などとも思う。

(2003年にオーケストラ・バオバブに初めてインタビューした際、イッサたち最初に質問したのはデクスター・ジョンソンのことだった。先日そのインタビュー・テープが自宅で「発掘」されたので、聞き直してみようと思っている。)


 Discography of Dexter Johnson


 1960年代前半、デクスター・ジョンソン在籍時のスターバンドの公式録音は存在しない。(しないはず? もしかすると SP 録音が残されていたりして?などとも想像してしまうのだが、、、。)スターバンド脱退後、セネガルで自身のバンドを率いた時代の録音はンダールディスク N'DARDISC などからリリースされている(60年代セネガルにはプレス工場がなかったので、録音テープをフランスに送って7インチのシングルやEPを作っていた)。手元にある7インチ盤と複数のディスコグラフィーとを照合した限りでは、以下で全てのようだ。リリース年は恐らく 1967〜1971年ころ。

 N'DARDISC

No 45.08 : Laba Sosseh - Dexter Johnson et Super Star de Dakar (A) La Sitiera (B) El Loco
No 45.09 : Dexter Johnson - Super Star de Dakar (A) La Mujer de Oriente / Dexter le Invita a Bailar (B) Angelitos Negros / Lejana Campina
No 45.11 : Dexter Johnson - Super Star Dakar (A) Mini Compay / La Bicicletta (B) Seul
No 45.13 : Dexter Johnson - Super Star Dakar (A) Maria Helena (B) Yo No Quiero Lios
No 45.22 : Dexter Johnson Laba Sosseh (A) Seyni Kay Fonema / Ayo Nene (B) Aminata / Come My Love
No 45.24 : Dexter Johnson - Laba Sosseh avec le Super Star de Dakar (A) Yolanda Dime Que Si (B) Caminos de Ayer

 PATHE

PF 11.602 : Dexter Johnson et Le Super Star (A) La Mujer de Oriente (B) Dexter le Invita a Bailer

 ンダールディスクはジャケ写真の雰囲気がいいので、いくつか紹介してみよう(残念ながら、ダカールで集めたものの大半はコンディションが良くないのだが)。


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 アビジャン時代にはアルバムを2枚?リリースしている。製作は Daniel M.J. Cuxac。タイトル通り、トレスやヴァイオリン(ソロとアンサンブル)をふんだんに盛り込んだ、真性キューバン・スタイルのサウンドだ(1967年12月、ニューヨーク録音?)。恐らく彼の現役時代のアルバムはこれらだけだろう。

Estrellas Africanas de Dexter Johnson "Conjunto Estrellas Africanas Volume 1" (Disco Stock LPDS 7901)
Dexter Johnson & Estrellas Africanas "Vol 2 - Manisero" (1979)

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 ジョンソンが亡くなった後の CD 時代に入ってからは、私家録音などを復刻したアルバムがいくつかリリースされている。Dakar Sound の音源は Moussa Diallo によるもので、ジョンソンが在籍した 1964年のスターバンドの録音が3トラック含まれている価値は大きい。(スリーブは記事のトップに掲載)

"Dexter Johnson & Super Star de Dakar" (Dakar Sound DKS 016, 1998)
"Starband - Superstar de Dakar - International Band featuring: Dexter Johnson" (Dakar Sound DKS 017, 1999)
Dexter Johnson & Le Super Star de Dakar "Live a l'Etoile" (Teranga Beat TBLP 019, 2014)



 ここまで書いて、次は Orchestra Baobab、そして Dexter Johnson と関わりの深かった Laba Sosseh について書く準備をしていたところに、とても興味深い情報が飛び込んできた。それを参考に早速調べているのだが、新たに色々なことが判明してきた。なので、ここに書いた内容に関しても後日追記したいと思う。


(続く)







by desertjazz | 2019-02-26 23:00 | 音 - Africa

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 Richard M. Shain "Roots in Reverse: Senegalese Afro-Cuban Music and Tropical Cosmopolitanism" 読了。キューバ音楽がどのようにパリを経由してセネガルに伝わり、それがどのようにカリブ世界に還流したか、その歴史と背景、セネガル人心への影響を詳らかにした研究書。

 以下、内容をメモ的にざっくり紹介。

 まず第1章で、キューバ音楽を短く概観し、その主要スタイルを解説する。そして第2章では、パリを舞台にキューバとセネガルをつなぐ。その過程における最初の重要曲として挙げられているが Rita Montaner の歌った "El Manisero"。1929年、彼女のパリ公演でこの曲が喝采を浴びたことが、キューバ音楽が注目される契機となったらしい。

 キューバからパリに渡ったアフロキューバン音楽は、クラブ Cabane Cubaine などで親しまれた。そこは黒人と白人が自然と交わる場だった(その点が、ニューヨークのハーレムとは異なる)。
 そうした場所に、パリ留学中のサンゴール Léopold Senghor や Socé Diop も通ったという。だがサンゴールは自身のネグリチュードにおいて文学やハイアートを重視。そのため後年セネガルの国策として音楽が支援されることはなかった(隣国ギニアとは対照的で、そこにはキューバ革命も影響したという)。
 それでもミュージシャンや大衆はアフロキューバンに傾倒した(南アを除く他のアフリカ諸国と同様)。彼らがジャズではなくアフロキューバンを選択した理由が詳述される。簡単に言うと、アフロキューバンの中に自身の民族の音楽と共通した要素を見出し、アフロキューバンを自分たちの音楽だと受け止めたから、ということだ。

 この辺りは、読んでいると自分のキューバ音楽の知識と理解度を試されているかのようだ。ありがたいことに、予備知識なしでも分かるように書かれているが。

 第3章は Afro-Cuban Record Club という交流の場を軸に、1950年代以降のダカールについて描写。この章を通して、音楽の背景にある新世代の人々のアイデンティティー形成についても詳述される。
 1920年代以降アフリカの都市部にレコードが流入することにより、欧米の音楽の受容が進んだことは良く知られるところ。人口集中と民族の混交が進んだダカールでは、50年代に次の段階としてレコード・クラブという集まりが持たれるようになった。これは10人程度の男子学生が集い、収集したアフロキューバンのレコードを持ち寄って聴いて、その内容について語り合うという場。そんなことが始まったのには Cha-Cha-Cha 人気もきっかけとなったようだ。
 彼らは雑誌などを参考にしてアフロキューバンのダンスも研究したという。また彼らにとっては、ファッションなどの洗練さも重要視すべきものだったようだ。
 レコード・クラブはやがて、女子学生も呼び込んで催されるアルコール抜きのパーティーへと変化していった。レコードが多いほど女子を集めやすいと思った話や、レア盤が何か悟られないようにラベルを削り取ったなんて逸話が面白い。
 こうした場にいた一人が、後年大プロデューサーとして名をなすイブラヒム・シラ Ibrahima Sylla だ。ダカールの店に入荷するレコードが瞬時(数時間で!)に売り切れる中、彼は外国に行く友人なども頼ってレコードを集めたため、そのコレクションは周囲の人たちに優っていた。レコード・クラブには、彼以外にも後年音楽学者などとして活躍する人物が多かった。
 
 そして実際にライブ・コンサートでアフロキューバン音楽を楽しむ時代へと移っていく。そうしたライブに直接触れる機会はまだまだ少なかったが、欧州路線を往復する船内で演奏するバンドが、ダカール停泊中に市内でもライブをすることもあったようだ。
 40年代〜50年代に建設されたサッカースタジアムを利用した大規模な(チケットが安い)コンサートと、上流階級向けにホテルでなされる(高額な)ライブとの二極化の動きも見られた。
 コンサートの需要が高まる中、レコード・クラブにいた Daniel Cuxac はプロモーターへと転身。航空会社で働いていた彼はその立場を利用してラテン諸国の関係者との間で親交を深めていったという。現在 Analog Africa を経営する Samy Ben Redjeb が、かつて国際線の搭乗員だった頃に世界中を飛び回ってレコードを買い集めたことを連想させる逸話でもある。
 本家アフロキューバン・グループの公演として何と言ってもエポックメイキングだったのは Orquesta Aragon だった。ただしそれは、サンゴールの力が弱まった 1979年にようやく実現したことだった。著者は Septeto Habanero がダカールで公演を行ったという証言も得たが、どうやら確証は掴めなかったようだ。

 こうした文章を読んでいると、1999年と2002年にダカールでレコードを探し回った際(800枚くらい買った → 訂正:「80kgくらい」の記憶違いだった)、アフロキューバンのレコードもザクザク出てきて、ダカールでのその人気ぶりが偲ばれたことを思い出す。


(追記)ダカールでレコハンした時、Sexteto Habanero のダカール盤まで見つけて、セネガルにおけるキューバのソンの人気が偲ばれたのだった。

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 第4章では、60年代〜70年代に大活躍した The Star Band、Xalam(後年の同名グループではなく、通称 'un' の方)、Orchestra Baobab、No.1、Laba Sosseh といった主要グループ/ミュージシャンの経歴について詳述。自分が知りたかったことばかり! こんな本が読みたかった! 全訳書き起こして紹介したいくらいだ。

 この章はとにかく内容豊富。例えば The Star Band に関することで、個人的に興味を抱いた記述をいくつか拾ってみると、、、(やや抄訳/意訳)

・この時代に初めて、非グリオの出自を持ったフルタイムのプロのミュージシャンが登場した。
・ラテン・オーケストラが国民意識の脱植民地化と自国の文化形成に大きな役割を果たした。特に Star Band と Laba Sosseh が重要。
・Star Band こそ、すべてのミュージシャンにとって基礎であり手本とする存在だった。とりわけ Ibra Kassé(Star Band を生んだ、ミアミ Club Miami のオーナー)と Dexter Johnson(ナイジェリア出身のサックス奏者)の果たした役割が大きい。
・通常 Star Band の結成年は 1960年とされることが多いが、ここでは1950年代末から活動していたように書かれている。
・サバールの導入とウォロフ語での歌唱が Star Band の大きな特徴だった。
・初期の Star Band は幅広いレパートリーを有していたが、演奏する音楽スタイルは次第に狭まっていった。
・本場キューバの音楽との大きな違いは2つ、。ダンサーの不在(ギャラが出せなかったことも理由のひとつ)と、パーカションが重視されなかったこと(基本的にソロ・パートはなし)。
・Dexter Johnson はナイジェリアからまっすぐセネガルに来たと思っていたが、思いのほか複雑な経歴だった。
・意外なことに、結成直後の Star Band のメンバーのほとんどがセネガル人ではなかった。(結成直後のパーソネルに関しても詳しい。)
・Star Band はメンバーの入れ替わりが激しかった('difficult person' だった Ibra Kassé との間のトラブルが主要因。具体的なことが一切書かれていないところに、その激しさと複雑さが想像される。ミュージシャンたちは、より多くの金と芸術面での自由を求めて Star Band から離れていったという)。ギタリスト Mbaye Seck のタレント・スカウトとしての役割がそれを補っていた。

 Orchestra Baobab に関しては Star Band 以上に詳しく書かれている。Dexter Johnson や Laba Sosseh の経歴も詳細。これらの紹介は別記事で書いてみたいと思う。

 第5章は、80年代に誕生した新しい音楽スタイル Salsa M'balax の興隆に押されて、アフロキューバンが低迷する過程を描く。Africando や Super Cayor についても言及している。

 そして最終章(第6章)では、復活した Baobab を再度じっくり取り上げ、またスーパーユニット Africando にまつわるエピソードを軸に、セネガリーズ・アフロキューバンの再生について語る。話の流れから、もちろん Buena Vista Social Club や Popular African Music の Günter Gretz も登場する。Baobab を蘇らせた World Circuit の Nick Gold の仕事に関しては、予想外に批判的なところも面白い。考えてみたら、Africando は大好きな Number One の生まれ変わりのようなグループだ。これまで彼らを軽視して来たことを反省させられた。

 とにかく、読みながら関連音源を聴いていると、発見に次ぐ発見。こんな時は実に楽しい! やっぱり Baobab や Laba Sosseh などに関して、稿を改めて書いた方が良さそうだ。

 著者は、独立後のセネガル人たちがアフロキューバン音楽を通じて、いかにオーセンティシティーやモダンさを求め獲得していったかについて繰り返し述べている。それがこの本の大きなポイントのひとつになっている。



 このような本を読む度に、自分はセネガル音楽が本当に好きなんだなと感じる。カリプソをほとんど聴かないのに、ハイライフは大好き。ルンバをほとんど聴かないのに、コンゴのルンバは大好き。そして、キューバ音楽はほとんど聴かないのに、セネガルのアフロキューバンは好きでたまらない。それもおかしなことのようだが、何故なんだろう?

 ところで、そのセネガルのヒップホップ、最近ますます勢いづいている南アやナイジェリアとは対照的に、今は元気がない印象で、特段情報も入ってこない。実際今どうなっているのだろうか? 来年はガーナに行こうと思って調べているのだが、久しぶりにセネガルにも行ってみたくなっている。



 (続く)







by desertjazz | 2019-02-25 00:00 | 音 - Africa

Dorothy Masuka R.I.P.

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 南ローデシア(ジンバブウェ)出身で、50年代以降に南アで活躍した女性シンガー、ドロシー・マスーカ Dorothy Masuka が亡くなったそうだ。彼女のジャイヴ感豊かな歌が好きで、昔結構聴いていた。83歳だった。

South African Jazz Legend Dorothy Masuka Has Died

 
 ドロシー・マスーカは 1935年、現在のジンバブウェの南部ブラワヨの生まれ。母はズールー人、父はジンバブウェの出(ザンビアのホテルで働いていた)。彼女は 1952年に南アに越し、翌53年にファースト・シングル "Nonstokolo" をリリース。これがヒットし後年まで彼女の代表作として愛されて来た。私もそうした 50年代の作品がお気に入り。Miriam Makeba は 1932年の生まれなので、二人はほぼ同じ時代に南アでヒットを飛ばしていたことになる。

 彼女のアルバムはとても少ない。LPはファースト・アルバムの "Dorothy Masuka and Job's Combination" (STARPLATE 001, 1981) 1枚だけかもしれない。後年の録音にはやや物足りなさもあるので、初期シングルのコンパイル盤があれば十分かな? と思いつつ、近作をチェックしてみた。昨年?リリースした "Njinje" なんて穏やかな歌がとてもいいね! この機会に彼女を偲んで、晩年の諸作も聴き直してみよう。







by desertjazz | 2019-02-24 12:00 | 音 - Africa

Movie : Wax Print

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 映画 "Wax Print: From the Cradle to the Grave" (2018) の自主上映会に行って来た。


 在英ナイジェリア人?女性のデザイナー/映画監督 Aiwan Obinyan が、西アフリカの布の現状を描いた作品。シンプルに、インドネシアのジャワのバティックに影響を受けたワックス布やガーナのケンテクロスなどを紹介する映画と思っていたら、オランダ、イギリス、中国、アメリカまでもを繋ぐ壮大なドキュメンタリーだった。
 西アフリカにワックス布が伝わった過程を辿る前半は、ビジュアル的な楽しさもあって、布好きにはたまらない面白さだ。中盤、中国によるコピー製品の話(やや冗長)になってからは、監督の問題意識が明確化される。そして監督の核心を突く鋭い質問!ここが白眉!
 それだけに残念だったのは、エルミナ城を訪れた後で監督とプロデューサーが奴隷制度について延々語るシーンが、作品の流れを止めたこと。観ていて集中力が削がれてしまったので、この作品には入れない方が良かったと思う。(関連映像/オフショットとしてネットにアップする方が相応しい。)

 それでも、とてもよくできたドキュメンタリーだと思った。監督 Aiwan のメッセージが鋭くて的確。広く観られて欲しい映画だ。

https://fringefrequency.com/culture/wax-print-documentary-unwraps-history-african-fabrics/ 
https://www.kickstarter.com/projects/2136658923/wax-print-film-1-fabric-4-continents-250-years-of?fbclid=IwAR34BZjV-w4b20MzC8uXhpHRKAsb-R7xNAHkttmZuZwatVUaYfxrfudIqmI


 余談になるが、インタビューで登場する女性たちが皆カッコいい! 毎年世界各地で開催される Afropunk にも行きたくなってしまった!








by desertjazz | 2019-02-23 21:00 | 布 - Ikat and

Istanbul & Orham Pamuk

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 1月末からイスタンブールに行って来た。3泊6日、往復機中泊の弾丸旅行。トルコを訪れるのは初めてだ。旅の目的は音楽でも料理でもなく、ただひとつ、オルハン・パムク(トルコの音楽や料理に
ついては詳しい方がたくさんいるので、私が探索しても意味はない)

 オルハン・パムクの作品は大好きで、どれも繰り返し読んでいる。中でも特に気に入っているのは、200葉以上のイスタンブールの白黒写真を挟みながら、自身の幼少〜学生時代について綴った『イスタンブール』だ。そこで語られる「ヒュズン」(哀感とでも訳しうる独特なニュアンスを含んだ表現)を出来れば自分でも感じてみたかった。そして何より、2014年にパムクが開設した私設博物館『無垢の博物館 The Museum of Innocence 』をどうしても観たくて、そのチャンスをずっと窺っていたのだった。


Day 1 - Jan 30 (Wed)

 午前4時、アタチュルク空港に到着。トルコ航空のアライバル・ラウンジでしばらく休んでから移動し、7時に旧市街のホテルにチェックイン。滞在初日の今日は旧市街の主要スポットを巡るだけにして体調を整えるつもりだった。しかし、昼前に、大宮殿モザイク博物館、スルタンアフメット・ジャーミィ(ブルーモスク)、トルコ・イスラーム美術博物館、アヤソフィアなどを見て回ってもまだ余力があった。そこで今日のうちに無垢の博物館まで行ってしまうことにした。

 金角湾にかかるガタラ橋を渡って新市街へ。ホテルから歩くこと約20分。しばらくしてから急な坂を登って行くと、Masumiyet Muzesi (The Museum Of Innocence) と書かれた表示板が。そこを右に折れてすぐに赤い建物が見えてきた。憧れの地にとうとう辿り着いたのだ。

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 入場料40TL(800円強)を支払って中へ。まず迎えてくれたのが、壁一面にディスプレイされたタバコの吸殻。4213本の一つひとつにキャプションが添えられている。ほとんどこれを見たいがためにイスタンブールに来たと言ってもいい。

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 地上4階、地下1階の縦長の建物。館内には80近い数のディスプレイ(小窓)をメインに、様々な日用品や写真が飾られている。トルコに長年暮らしてきた人々にとっては、きっと懐かしい品々ばかりであることだろう。一角にはパムクの母と思しき写真の数々が並ぶ。しばらく先には My Father's Death と題された小窓が。どちらも『イスタンブール』での家族の描写を思い起こさせる。そして Fusun's Driving Licence と題された小窓を目にした瞬間、誰もが小説『無垢の博物館』の悲劇的結末を連想するに違いない。

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 それぞれのディスプレイにはタイトルや短い一文がついているのだが、いずれも展示された物との関係性について考えさせられる。個人的に印象に残ったのは、「The Most Important Thing in Life Is to Be Happy」「Happiness Means Being Close to the One You Love, Tha't All」などだ。タイトルと展示物のコンビネーションが、またひとつのパムクの文学作品になっていることに気がつかされた。


Day 2 - Jan 31 (Thu)

 自分にとってイスタンブールのイメージは白と黒である。多分これにはパムクからの影響が大きい。彼の著作のタイトルには『白い城』『黒い本』『雪』といったように、ずばりモノクロームを掲げたものが多い。きっとパムクは白黒のイメージが好きなのだろう。いや、実際パムク自身がはっきり書いている。

「わたしは子供時代のイスタンブールを、薄暗い、モノクロ写真のように二色で、鉛色の場所として生きたし、またそのように記憶している。」(『イスタンブール』P.51)

 それがあって、イスタンブールへの旅は日差しが弱く寒さの厳しい冬を選んだ。これで雪でも舞い降りてくれたら、もう申し分ないのだが(しかし来てみれば、思わぬ暖冬という誤算)。

 朝食後、ホテルから歩いてすぐのトプカプ宮殿へ。到着初日はどこも京都あるいは原宿並みの人混みに辟易したので、今日は開場時刻9時の少し前に入場ゲートへ。するとまだ誰も並んでおらず、おかげで真っ先に向かったトルコ観光の目玉のハレムを完全貸切状態で堪能できた。

 午後、ホテルから1時間、トラムに乗ってカーリエ博物館へ。素晴らしいモザイク画をじっくり鑑賞(今回の滞在、無垢の博物館を除くと、カーリエがベスト、次いでハレムだった。他は無理して見なくても十分という感想)。15時50分、その隣の宮廷料理の有名店 Asitane で遅めの昼食。

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 食事を終えレストランを出ると、外は雨。何とはなしに、そして『イスタンブール』の文章を少しばかり頭に浮かべながら、北西のエユップ方向に歩き始めた。時代を感じさせる住宅群の寂れた雰囲気に惹かれて。夕暮れと雨のために、辺りはほの暗くなりつつある。周囲から色が消えていき、モノクロの印象に。撮った写真をモノクロ加工してみると、『イスタンブール』の写真のようにちょっとだけヒュズンを感じられるような気がする。若い頃のパムクの見た景色もこうしたものだったのだろうか?

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Day 3 - Feb 1 (Fri)

 スレイマニエ・ジャーミィなど今日もいくつかモスクを観てまわる。初日・2日目もそうだったが、モスクや博物館はどこも改修中。そのあとは特にすることもないので、日中はホテルの自室でビールとラクとチーズ(エジプシャン・バザールで買って来た)をつまんで過ごす。

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 今夜は BaBa ZuLa のライブに招かれていたので、夕方前、ボスフォラス海峡を渡る連絡船に乗ってライブハウスのあるアジア側へ。快晴で気持ち良く、船からの眺めがいい

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 夕食前の時間つぶしに港で夕景を楽しむ。船が吐き出す黒煙を見て、また『イスタンブール』の文章を思い出す(のんびり眺めていたので、煙が濃くなった時の写真は撮り逃した)。

「ボスフォラスの船によるイスタンブールの風景への本当に大きな寄与は、その煙突から出る煙だった。」
「煙が太くなるにつれて、あたかもイスタンブールにあるわたしの世界が暗くなる、あるいはその上が覆われるかのように感じた。」(『イスタンブール』P.353)


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Day 4 - Feb 2 (Sat)

 イスタンブール最終日、いよいよすることがない。ならば最後は、やはりパムクが通ったというエユップで静かに過ごすのが良さそうだ。画家を目指し、そして初恋が破れた青春時代、エユップは開発進む新市街からは遅れて、まだ古の光景が残っていたらしい。

「学校から逃げ出して、古い金角湾のフェリーでエユップまで行くとき、自分をこれほどまでに確固としてイスタンブールと一体だと見たことの意味は何であったか。」(『イスタンブール』P.440〜441)

 タクシーが安くて便利なのだが、昨日の船が気持ちよかったので、パムクに倣って船で行くことにする。1時間に1本の船で金角湾の終着地エユップへ。今日も船上で受ける風が心地よい。例年だとこの時期は極寒とのことだったが、今年は気温が例年より10度以上高くて、少し歩くと汗が出るほどだ。

 昼前にエユップに到着。寂れた景色を期待していたのだが、すっかり観光整備されていて、週末を家族で過ごそうとする人々で溢れている。残念ながらヒュズンがすっかり消え去っていることを確認しただけだった。

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 ようやく来ることが叶ったイスタンブール。オルハン・パムクの足跡を追った4日間は思いの外充実したものになった。




 『イスタンブール』の日本版の写真は小さく、鮮明さもそれほどでない。昔シンガポールの書店でたまたま英語版を見つけて、写真の鮮明度の違いに驚かされた。そこで今回の旅でオリジナルのトルコ語版を探して買おうと思っていたのだが、無垢の博物館の売店で、写真を大量に追加したデラックス版が一昨年に出版されていたことを知った(約560ページある、ずっしり重い大型本)。そこで、ホテルに戻って "Istanbul - Memories And The City <Deluxe Edition>" (2017) と、博物館のカタログ "The Innocence of Objects" (2012) をネットでオーダー(どちらも英語版、一番安いのを探した)。2冊とも帰国後程なく届き、少しずつページをめくってイスタンブールへの旅を懐かしんでいる。

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by desertjazz | 2019-02-21 23:00 | 旅 - Abroad

R.I.P. Sali Sidibe

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 マリ南西部ワスルを代表する女性歌手、サリ・シディベ Sali Sidibe が昨日2月8日に亡くなったそうだ。1959年生まれなので、多分まだ59歳。(一報が入ったばかりで、死因等は不明。)

 今夜は彼女を忍んで、世界デビュー盤 "Wassoulou Foli" (Sterns, 1993) や "From Timbuktu To Gao" (Shanachie, 1993) などを聴いている。Sterns 盤のデジタル音源の古さは否めないけれど、歌やカマレ・ンゴニ、ソク(小型の一弦リュート)の演奏は今聴いてもいい。近年の Oumou Sangare や Fatoumata Diawara に到るまで、マリの女性ヴォーカルの真髄には変化がないんだな。"Djen Magni" のリミックスなどはちょっと南アのクワイトっぽくも聴こえて、DJで使えるのでは?なんて思ったりも。Shanachi 盤は元音源はカセットなのかな? それより Sadibe と綴りが間違っているよ(酷いね)。他アーティストとのコンピレーションを除くと、彼女の CD はこの2枚だけかもしれない。だとすれば不思議な気もする。

 というのは "Wassoulou Foli" は内容良くて、日本でもオルター・ポップ/メタ・カンパニーが発売/配給したくらいだから。詳細な解説はもちろん各務美紀さん。90年代にはこうしたマリの音楽もたっぷり聴いて、彼の地への思いが膨らみ、それで1999年にとうとうマリまで旅に出たのだった。セネガルと合わせてだったので、バマコに滞在する時間しかなかったが、懐かしいな。

 さすがに Sali Sidibe のカセットなんて持っていないだろうと思いつつも、カセットを漁ると "Wassoulou Foli" の元音源のカセットが出てきた(写真右、シールドのまま)。昔は熱心に集めていたんだなぁ。




(気がつけば年が改まって2019年。最近もニュースを見つければ Twitter や Facebook で紹介していますが、サリフ・ケイタの「引退」や、Habib Faye、Khaira Arby、Oliver Mtukudzi らの訃報など残念なネタばかり。嬉しい話題が届いていないわけではないのだけれど、ブログを書く時間がなかなか取れません。まあ、たまにはまとまったものを書きたいと思っているので、今年もよろしくおつきあいいただけたらと思います。)






by desertjazz | 2019-02-09 21:00 | 音 - Africa