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 ウガンダの独立レーベル Nyege Nyege Tapes はレーベル設立直後から注目していて、新作が出る度に試聴し、気になった LP は買っている(このレーベルは基本的に DL と LP のみのリリースで、CD は出していない)。音楽としてどれもが特別素晴らしいとまでは感じないが、極めて個性的なサウンドを楽しめる。例えば Lady Aicha & Pisko Crane's Original Fulu Miziki of Kinshasa "N'Djila Wa Mudujimu" などは、独特な D.I.Y. 感というかジャンク感を抱かせる刺激的なサウンドが面白い。


 最近出た "Nakibembe Embaire Group (Nakibembe Xylophone Troupe)" も良かった。これはウガンダ東部ブソガ王国 Busoga の小村ナキベンベ Nakibembe の巨大な木琴エンベール Embaire の演奏5トラックと、エンベールとバリのガムランのシークエンスを MIDI 制御したリミックス?を3トラック収録している。エンベールは広場に掘った穴の上に15〜25枚ほどの木の板(鍵盤)を並べて5〜6人くらいの男たちが演奏する。このエンベールのプリミティブなサウンドが実にいいのだ。演奏形態や音色から連想するバリの木琴と比較すれば、巨竹ガムランのジェゴグよりも、小ぶりなアンクルンの音をもう少し太く重くした印象だ。次のベルリンでのライブ映像を観ると、音の各パーツが重なる様子は Steve Reich も連想させる。


 1996年にウガンダ滞在中に買った Richsrd Nzita and Mbaga Niwampa "Peoples and Cultures of Uganda" (Fountain Publishers, Kampala 1993/1995)という本で、ブソガとそこの民族バソガ人(ブソガ族)Basoga についてちょっと調べてみた。彼らは首都カンパラなどに住むバガンダ人(バガンダ族)と同じバンツー系で、カンパラより少し東のジンジャ Jinja を中心に暮らす人々だ。ジンジャはナイロビまで続く幹線道路の途上にあり、交通の要衝でもある。Nyege Nyege Tapes の拠点も確かジンジャだったはずで、Nyege Nyege Festival も毎年ジンジャの近くで開催されている。

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(Google Map より)


 この本にはエンベールとよく似た楽器の写真が掲載されているのだが、その名称はアマディンガ Amadinga となっている。同じブソガ内でも村によって楽器の形態に若干違いがあったり名称が異なったりするのかもしれない。ブソガの楽器としてはパンフルートも紹介されている。1996年にカンパラやジャンジャで様々な民族楽器を目にしたが、タイコも親指ピアノもやたらと大きくて驚いた(ちなみにこの本、ウガンダ各地の楽器や工芸品の写真がたくさん掲載されているので買ったのだが、なぜかそれらについての説明が一切ない)。

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 ところで Nyege Nyege Tapes のレコードはジャケットデザインの良いものが多いので、なるべく LP を買うようにしている。だが、折角のヴァイナルの利点が活かされていないように思う。高音域に伸びがなく詰まった音に聴こえるし、エンベールにしても超低域の音も響いているものの物足りなく、全体的に中〜低域の迫力に乏しい。これは楽器の音が元々そうなのだというよりも、マイクの選択、あるいはミキシング/マスタリングに改善の余地があるように思うのだが、どうなのだろう?



(追記)

 これらは私がウガンダで買ってきた楽器。手前のものは、サトウキビの花の茎を並べて作った箱の中に木の実を入れたシェイカーで、レユニオンのマロヤ(サレム・トラディションなど)で演奏されるカヤンブ Kayamb やサカキマンゴーさんのライブで見慣れたものと同系統の楽器。ウガンダも民族楽器の多様性に富む国だと思う。

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(※以上、Facebook より転載。)






# by desertjazz | 2023-07-16 22:00 | 音 - Africa

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 昨年秋に出た Miles Davis "Kind of Blue" の Analogue Productions UHQR 45rpm / 2LP / Clear Viynl 盤(15000セット限定)を買ってみた。DiskUnion にまだシールド盤があったので(高かったが、自分の「卒業祝い」だと言い訳して。アメリカから直接取り寄せても、本体150ドル+送料100ドルするらしい)。

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 "Kind of Blue" は 50周年記念版CDやモノラル盤(もちろんリイシュー)でも持っているけれど、一番聴くのは40年以上前に買ったアメリカ盤LP(1982年6月22日に札幌の Tower Records で1440円で購入)。その後に出たCDと比べても音が快活に感じられて、実際こればかり聴いている。今回の UHQR 盤を聴いても、最初は古いLPの方が良く感じられた。オリジナル・マスターテープの劣化は避けられないため、リマスター盤の音質には限界があるからだろう。

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 そう思ったのだが、少々気になり、手元の4種を冒頭の "So What" を中心に聴き比べてみた。

 繰り返し比較試聴して、まず気になり出したのは古いレコードのスピードだった。よく知られている通り、"Kind of Blue" のA面3曲はレコーディングの際録音機のスピードが若干遅く、その分だけ早く再生された演奏がレコード化されてしまった(スピードが狂っていたのはマスター機だけで、サブ機は正常だったものの、音質はマスターより劣るらしい。1990年にマスターテープ2本が発見されるまで、スピードの補正はなされなかったとのこと)。その早いスピードで何百回も聴いてきたものだから、スピード補正した正常な演奏がどことなくトロく聴こえてしまう。しかしよくよく聴くと、導入部の Bill Evans のピアノの音が外れているように感じられる。そして UHQR盤の音に馴染んでくると、これが一番だと思うようになった。これまで古いレコードの音が元気よく感じられたのは、スピードが若干早かったからかもしれない。

 UHQR盤はリマスターCDと比べても、音の立ち上がりが鋭く、演奏全体に重厚感があり、ハイハットにも艶があって余韻も豊かだ。ただこうした差はわずか。元々録音の良い作品でもあるので、圧倒的な違いなど生まれるはずはないだろう。今回の UHQR盤は45回転化と透明ヴァイナル(黒いヴァイナルよりも高品質な素材)により音質向上を目指しているのだが、だとすると33回転盤や通常の黒盤と比べると、音の違いはどの程度なのだろうか。このような音の違いは、ある程度ボリュームを上げて聴かないとはっきりしないようにも感じた。拙宅のオーディオレベルではレコードの音を最大まで引き出すには限界もあることだろう。いつかオーディオをグレードアップしてじっくり聴いてみたいとも思う。


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 それと、 "Kind of Blue" は個人的にはステレオ盤の方が好みだ。3管の定位がはっきりしている方が楽しめるし、トランペットやサックスとハイハットとのバランスが結構変化するので、管とドラムの音が分離している方がストレスなく聴ける。ただし、オリジナルのモノ盤の音がとても良いということも聴く。大愛聴盤の "Kind of Blue" も他のレコードと同様、オリジナル盤の音質がベストなのだろう。機会があれば、その音(ステレオとモノラル)を聴いてみたいものだ。

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(※以上、Facebook より転載。)






# by desertjazz | 2023-07-14 22:00 | 音 - Music

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 先日6月20日にジョン・コリンズの伝記本が出版されたので、早速取り寄せて拾い読み中。

・Bertha Setor Adom "From Britain To Bokoor : The Ghanaian Musical Journey of John Collins" (DAkpabli, Accra 2023)

 イギリス人(白人)のジョン・コリンズはガーナで育ち、ミュージシャンとして活動しながら、自身が建てたボクール・スタジオを拠点に多くのガーナやナイジェリアのミュージシャンたちと交流した(そのひとりの Fela Kuti とは映画 "Black President" の制作に取り組んだ)。また彼はガーナ大学の音楽教授もつとめ、ハイライフ研究の世界的権威としても知られる。

 このようにジョン・コリンズは西アフリカ音楽シーンにおけるキーパーソンではあるが、著名なミュージシャンでもない彼の伝記本が出たのにはびっくり。それも414ページもある大著で、写真だけでも79ページもある。彼の経歴を辿ることは、ガーナやナイジェリアのポピュラー音楽史を振り返ることにもなると思うので、時間を作って読んでみよう。

 私が彼のことを意識し始めたきっかけは、『ミュージック・マガジン』の別冊『季刊ノイズ』の2つの記事だった。ひとつは創刊号の John Collins「西アフリカのポピュラー音楽 ハイライフ、パームワイン・ミュージックの歴史」。もうひとつは深沢美樹さんと中村とうようさんの対談「再考・パームワイン〜ハイライフの展開 ージョン・コリンズ提供の音資料を分析する」。これら2つ、これまで何度読み返したことか。ちなみに、深沢さんがアフリカ旅行の体験に書かれたものも同時に掲載されいて、こちらも読み応えがあった。


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 それ以来、ジョン・コリンズ本人の著作を探し集め、英語が苦手なのにも関わらずせっせと読んでいる。正直なところ、ミュージシャンの取り上げ方や記述に中途半端と感じる部分もあるのだが、これは彼の地の音楽シーンの真っ只中にいた人物としての見解でもあるのだろう。そのコリンズさんとは何年か前にSNSとメールでやり取りして、今度私がガーナに行った時にお目にかかれることになった。残念ながら、Covid-19 を考慮したために次の西アフリカ旅行は延び延びになっているのだが。

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 ちなみに私が購入した本は日本のアマゾンが印刷・製本しており(どのようなシステムなのだろう?)、そのアマゾンで簡単に買える。







# by desertjazz | 2023-07-09 15:00 | 音 - Africa

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◇10◇ 旅感覚のリハビリ ー コロナ明けのウブド

 2023年4月、新型コロナウイルス Covid-19 の感染拡大を防ぐ目的でとられていた様々な措置がほぼ解除になるので(日本では5月8日に完全撤廃)、海外渡航がしやすくなった。そこで、そろそろどこか海外へ旅をしようと考え始めた。しかし私は目的が明確にならない限り旅に出ないことに決めている(そのため旅の目的を定めることに、毎度大変苦しむのだが)。アフリカ行きなども検討したものの、どうにも決められない。
 おそらくどうしても行きたい場所がもうないのだろう。ならば自分にとってのルールを破って、たまには目的のない旅をしてみてもいいのかもしれない。3年以上海外に出かけていないので、確実に旅の勘が狂っているだろうから、そのリハビリを目的とするのもありだろう。
 旅の感覚を取り戻すにはバリが適当ではないだろうか。ヴァルター・シュピースの足跡ももう少し追ってみたい。そのように考えてバリへ3週間行くことにした。2020年1月にフランスのパリに滞在して以来なので、約40ヶ月ぶりの海外である。
(数えてみると、インドネシア旅行は16回目で、バリ訪問は15回目になる。ジャワとスラウェシも数度訪れているが、やはりバリの回数が圧倒的に多い。)

 4月22日、成田発のガルーダインドネシア航空のフライトでバリ島へ飛ぶ。いつもと同様にクタで1泊してから、ウブドに移動して過ごすという行程。この旅の最後にチャンプアンのホテルにまた宿泊してみた。シュピースが感じたであろう風景と音をもう一度追体験したくなって。


 さて今回はどこに泊まろう。あれこれ調べたものの、コロナ明けでツーリストが殺到しているようで、また円安のせいで宿泊料がどこも高く、ウブドで適当な宿をなかなか探し出せなかった(かつての定宿ボチュヴューも当たってみたが、今は料金の高い新館のみらしく、旧館についての情報はなし。実際行ってみると、かつて泊まった旧館の前には壁が建てられて先に進めず、完全に廃墟と化していた)。
 それでもウブド王宮から北に延びるスウェタ通り Jl. Suweta に1泊2500円弱の評判良い安宿を見つけて14泊予約した(やや長めの滞在だったので、食事も時々は100円程度のナシブンクスで済ます)。

 スウェタに滞在する間、久しぶりにペジェン村を訪れ、月の鏡で有名な Pura Penetaran Sasih を再訪問した。さらにはそこから南に下って、ブドゥル村のサムアン・ティガ寺院 Puri Samuan Tiga にも足を運んだ。ヴァルター・シュピースはここでサンギャン・ドゥダリという悪魔祓いの儀式を観て、それこからケチャを着想したと言われる。
 どちらの寺院も直近に迫ったオダラン(祭)の準備で賑わっており、訪ねるには良いタイミングだった。特にサムアン・ティガ寺院は広々とした立派な建造物で、ブサキ寺院を連想させるような縦方向にも伸びた立体構造が素晴らしく見応えがあった。

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 スウェタ通りの宿は決して悪くはないのだが、予想した以上に静かすぎた。夜になっても生き物たちの囁きがほとんど聴こえず、サウンドスケープ的に物足りない。あまりに静かなものだから、ちょっとした物音ですら気になってしまうほどだった。
 そこでウブドの中を数日歩き廻って宿探し。スウェタから西に入り、急坂を登った先のカジェン Kajeng エリアで偶然見つけた1泊3500円弱の宿が良さそうに感じたので、スウェタの宿を途中でキャンセルして移ってきた。ここは田んぼに囲まれ、渓谷からもほどほど近く、部屋数も4室と少ないなど、好条件が揃っている。また周辺には森も広がっているため、田んぼや深い木立の中を散策したり、自然の音を楽しんだりしながら快適に過ごすことができた。

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◇11◇ チャンプアン再訪(1)

 2023年5月7日。

 カジェンの宿をチェックアウトした後、スウェタ通りまで出て、そこからオンラインタクシー Grab Taxi を使ってチャンプアンのホテル Tjampuhan Hotel and Spa に移動(Grab Taxi は Uber の東南アジア版のようなシステム。タクシーより使い勝手が良く、日本ではスマートフォンを持ち歩かない私でも流石に用意した。何とも便利になったものだ)。

 12時30分にホテルに到着。だが、チェックイン時刻の14時までは部屋に入れないとのこと。そこで、ホテルの敷地内を散策して時間潰しすることにした。ロビーから急な階段を降りて、ヴァルター・スピースの部屋を通り過ぎ(4年前と変わっていない)、プールサイドを抜け、その先の一番低いところまで行くとスパがある。そしてその前を流れるのがチェリク川だ。前回2019年に滞在した時にはここまで来た記憶はないのだが、対岸にある寺院の先から下って、反対側からこの川を眺めたことを思い出した。強い日差しを受けながら谷深い川沿いで佇んでいると、聴こえるのは川の水音と虫の音ばかり。すっかり自然の中に包まれている気分になり、とても心地よい。

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 今回泊まった部屋はホテルに入って左手のほぼ一番奥、チェリク川の上流側。ここは前回とは反対側の部屋で、右手のずっと先にあるラヤ通りの橋を行き交う自動車やバイクが放つ雑音が届きにくく、4年前とはまた違ったサウンドスケープを楽しめそうだ。

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 バリに滞在する日数も残り少なくなったので、基本的にはこのホテルの中と周辺で過ごすことにした。そろそろ旅の疲れも溜まってきたことだし。すぐ近くにはサヤン Sayan という、ツーリストにとって便利なエリアもあるので、わざわざ遠出する必要はないだろう。

 それにしても、今回の部屋は湿気がものすごい。床はびしょ濡れで、冷蔵庫の扉もじっとり湿っている。谷がちな地形なだけに、湿気が溜まりやすいのだろう。シュピースもこの土地に家を建てる時、水にかなり悩まされたことを思い出した。それだけではなく、全体的に設備が古くなっていて、正直なところ全面的な改装が必要なレベルだ。バリではラグジュアリーなホテルやヴィラが人気なので、ここはもうすっかり時代遅れのホテルだと感じる。それでもロビーや部屋から望む森と谷の景色は素晴らしい。もちろん、ここと同様に絶景を楽しめるホテルが次々生まれてはいるのだけれど。

 湿気以外は、4年前に滞在した時とほとんど印象が変わらない。聴こえてくる音も相変わらず気持ちいい。そうした音をずっと聴いていたくて、夜中も部屋の扉を開けたままに(カジェンの宿でもそうしていた)。
 今回、部屋から周囲の音に耳を傾けていて、ひとつ気がついたことがある。ここからだと意外と川の音が大きいのだ。ホテルの構造が谷に沈む形をしている分、敷地の外からの音が届きにくい一方、その反対にすぐ目の前の川の音がかなり激しく響いてくる。敷地内の右側の部屋より左側の方が川に近いからなおさらだ。
 シュピースもこの大きな音をいつも耳にしながら過ごしていたのだろう。そのようなことに思いを寄せながら、今回の滞在中も、深夜と日中にタイミングを見計らって部屋からフィールド録音を繰り返した。

(今回の旅では、Audio-Technica の無指向性マイク AT4022 のペアと Zoom H6 のステレオマイクを組み合わせて 4ch録音を基本とした。)

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◇12◇ チャンプアン再訪(2)

 2023年5月8日。

 午前6時に起きて、朝日を眺めながら散歩。ホテルの向かいの寺院を抜けて、その先のトレッキングロードを歩くという、前回の滞在時と同じコースだ。早朝から散歩を楽しむ人がとても多い。実際コロナ前よりもツーリストが増えているように感じる。

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 前回の滞在時にも感じたことだが、ホテルのバイキング形式の朝食はメニューも味も今ひとつ物足りない。それでも目前に迫る森と谷の眺めは素晴らしい。日中はサヤンを散策。ヨガスタジオやヴィーガンのレストランが目立つ一方、昼間からアルコールを口にする人を見かけない。サヤンはそうした健康志向の人々が集うエリアなのだろうか。

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 チャンプアンでの2日目は夜遅くから激しい雨となった。それが深夜には、爆音轟く雷を伴う猛烈な雨に変わった。時々、閃光が眩しく光るのと全く同時に轟音が鳴り響いたので、雷はホテルのすぐ真上に落ちてきたようだった。その瞬間、天井と壁が激しく揺れ、まるで大地震が来たかのよう。ほとんど体験したことのない凄まじさだったのだが、長年バリで生活している日本人の方からも、バリでも滅多にないレベルの雷だったと伺った。
 これも熱帯の森。安眠をすっかり妨げられたが、これはこれで貴重な体験をできたのかもしれない(この夜は疲れ切っていたため、この雷雨の様子を録音しなかったことをちょっと後悔。まあ録音を試みたとしても歪みまくったことだろうが)。


 2023年5月9日。

 その後もほとんど雨が続いた。そろそろ雨季は終わりのはずなのに。バリの雨は基本的にスコールなので、1時間ほど待っていればたいていは降り止む。ところが昨夜から全然収まる気配がない。この時期にこれは珍しいことかもしれない。雨のおかげで濡れた緑が瑞々しく美しい。
 そういえば、ヴァルター・シュピースの絵で雨を見た記憶がない。雨を描いた作品はあっただろうか。

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 昼前に幾分小降りになったので、もう一度ホテル内の散策に出てみる。ところがその途端また雨が激しくなった。食事しようにも外には出られず、ロビーからゆったり緑を愛でていると、ホテルの支配人が声をかけてきたのでしばらく雑談した。気になっていたシュピースの部屋の値段(ネットでは分からなかった)を直接訊いてみると250万ルピア前後のようだった。日本円に換算すると25000円弱(ちなみに最も安い部屋は、早めに予約すれば8000円程度で泊まれる)。
「今度またここに宿泊する時、私の名前を出してくれれば安くしますよ」とのこと。確認しなかったが、シュピースの部屋もディスカウント有りなのだろうか。シュピースの名を冠した特別室で過ごせば、何かマジカルな体験ができるのかも知れない。けれども、チャンプアンには2度滞在してシュピース気分に十分浸れたので、ここに泊まることはもうないだろう。

 そう考えてしまったのには、絶え難い猛烈な湿気に加えて、もう一つ別の理由がある。このホテルで自然の音を満喫するつもりでいたのに、雨以外にも予想外のことに幾度か出くわし、そうはならなかったことだ。
 日中、従業員らしき女性が部屋の近くにとどまり携帯電話で長話。それが1時間以上続いたものだから、読書していても耳障りで本に集中できない。また隣の部屋のドイツ人夫婦(と言葉から推測)も、たびたび大声で携帯電話を使って会話する。ひどい時にはテラスに出て深夜2時まで話し込んでいた(ヨーロッパとの時差があるから連絡取り合うのは深夜になるのだろうと、友人が示唆してくれて、なるほどと納得)。
 せっかくこれだけ音と眺めが良いところに来ているのに、どうして静かにその環境に浸らないのか不思議に思う。旅の良さは、日常の全てのことから解放される自由さにあると思っている。だが人によっては、お互い遠く離れ合っていても便利なツールで常に繋がっていることの方が重要なのだろう。ならば、携帯電話を敵視しても始まらない。
(10年ほど前にモロッコを旅しているとき、メズルーガからラクダに乗ってサハラ砂漠の辺縁を移動した。その時、ラクダを引くガイドの若者が携帯電話をずっと手放さずにいたものだから、一面砂の風景とのギャップから興醒めしてしまったこともあった。)

 世界各地の旅先で、とても静かな、あるいは音環境の良い宿に泊まっていても、わざわざ音楽を鳴らして過ごす旅行者と出くわすことが度々ある。それも隣室に迷惑となるほどの音量で。もちろん全く無言で静かに過ごすカップルを見かけることも多い。旅先での過ごし方は、実に人それぞれだと思う。

 迷惑な隣人にイライラさせられもしたが、それでもこのチャンプアンでまた数日過ごせてよかった。ヴァルター・シュピースが住んでいた頃に比べると、ここの環境は激変したはずだ。森は切り開かれ、立派な道が走り、数知れぬホテルや店が立ち並び、人や車が夥しく行き交う。しかし、シュピースの時代から100年近く経過した今でも、チャンプアンの主人たる虫や鳥たちの顔ぶれはそう変わっていないだろう。そんな生き物たちの世界にちょっとお邪魔して、彼らの賑やかな会話に耳を預け、その囁きに包まれながらゆったり過ごすひととき。なんとも贅沢だと、改めて感じた。


 全く無目的にやってきた、海外旅行の感覚を取り戻すための「リハビリの旅」。一体どうなるかと思ったが、あっという間に約3週間が過ぎてしまった。バリの自然の音を浴び、音についてあれこれ思索し、ヴァルター・シュピースの時代に思いを巡らす。それだけでもここに来た意味があった。

 やっぱりバリはいい。また近いうちに来よう。



◇13◇ 熱帯の森の音

 インドネシアのバリとスラウェシ、ラオスのルアンパバーン、オーストラリアのブルーマウンテン、コンゴのカサイ、ナイジェリアのニジェールデルタ、そして日本の西表島。熱帯や亜熱帯を旅する時、緑深い古の森に広がる音を聴くことが大きな楽しみとなっている。自分はどうしてこれほど森の音に惹かれるのだろうか?


 姿の見えない夥しい数の虫たちが、甲高くて細やかな声で囁く。蛙たちが快活に鳴き交わし、様々な鳥たちが次々と入れ替わって、鮮やかで個性的な声を競い合う。川や滝は森の通奏音のように水音を響かせる。頭上高く伸びる樹々は、微風が吹くと葉を柔らかく囁かせ、風が強まると騒ぎ始める。

 虫たちの鳴き声が次第に賑やかになり、音世界が美しく一変するのは夕方からだ。最初うっすらとかよわく響いていた声も、その数と種類を増して厚みを増していく。何という音圧だろう。独特な声の持ち主が相次いで登場し、自分こそが主役とばかりに歌い上げる。いよいよ夜が深まると、そうしたソリストたちはお休みして、森は穏やかな音に包まれる。音空間が落ち着き定常化したように感じるが、じっと耳を凝らすと少しずつ音のモードが遷移していくことに気が付く。

 明け方前後の美しさと楽しさもいい。空間を塗り込めていた柔らかな音が消えていくと、今度は再び鳥たちの登場だ。様々な鳥たちが華麗な歌声を朝の澄んだ空気の中に響かせ、賑やかに会話する。そこに犬や鶏も加わって騒ぎ立てる。太陽が沈む数分間の風景の美しさが「マジカルモーメント」と形容されるように、夕暮れ時と明け方は「音のマジカルモーメント」と言えるだろう。

 熱帯の森に佇んでいると、ひとつひとつを聴き分けられないほど、多彩な音があらゆる方向から流れてきて、自分の身体を包み込む。個々の音は時間が移ろうにつれ、強まったり弱まったり、新しい音が現れたり、元気だった音が消え去ったりと、絶えず変化していく。こうした音のダイナミズムとパッセージは、まるで大音楽家の残した交響曲の楽譜を辿るかのようだ。いや、これほどの音の複雑さは、たとえオーケストラでも全く敵わない。これこそが熱帯の音の醍醐味だろう。


 バーニー・クラウスの名著『野生のオーケストラが聴こえる サウンドスケープ生態学と音楽の起源』を読むと、自然界の生き物たちは、空間的・時間的・周波数的に互いの鳴きかわしを邪魔しないようにしているという。そのことにより、自然界では音の要素がいくら重なっても調和が保たれ、形容しきれないような美しさが生まれ、それが人間を感動させるのだろう。

 熱帯の音の特徴のひとつに高周波成分の潤沢さがある。山城昭二の名で芸能山城組を率いる音響生態学者、大橋力が唱える「ハイパーソニック・エフェクト」に関する理論によると、バリやコンゴの熱帯林の音は100kHzにも及ぶ超高周波数成分を持ち、それが人間の脳内にα波を励起させて快感をもたらすという。確かに熱帯の音には、人間の可聴範囲を遥かに超えた高い音も鳴り響いているように感じられる。ならば、森の音を聴く時の快楽には、そのようは高周波成分の影響も働いているのかも知れない。

 けれども、そのような理論的意味づけはひとまず脇に置いておこう。熱帯の森では、響き渡る音にただただ圧倒され、快感を抱き、魅惑されるのだから。自分にとって、森の音がなぜ気持ち良いのかという理由は必要ないのかもしれない。熱帯の森にやってきて無心になり、そこの音に包まれているだけで気持ちがいいのだから。



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◇ 参考文献 


板垣真理子『魔女ランダの島・バリ』(スリーエーネットワーク、1996年)
伊藤俊治『バリ島芸術をつくった男 ヴァルター・シュピースの魔術的人生』(平凡新書、2002年)
大竹昭子『バリの魂、バリの夢』(講談社文庫、1998年)
坂野徳隆『バリ、夢の景色 ヴァルター・シュピース伝』(文遊社、2004年)
島本美由紀『旅するバリ島・ウブド案内+おまけにシドゥメン村』(パイインターナショナル、2016年)
高橋ヨーコ、中川真『sawa sawa』(求龍堂、2003年)
東海晴海、大竹昭子、泊真二、内藤忠行、他『踊る島バリ 聞き書き・バリ島のガムラン奏者と踊り手たち』(PARCO出版、2000年)
中村雄二郎『魔女ランダ考 -演劇的知とは何か-』(岩波書店、1983年)

ヴァルター・シュピース、ハンス・ローディウス編『人生の美と豊穣:ヴァルター・シュピース書簡集』(副島美由紀による私訳)

A. A. パンヂ・ティスナ『バリ島の人買い ーニ・ラウィットー』(勁草書房、1982年)
ヴィキイ・バウム『バリ島物語』(筑摩書房、1997年)
エイドリアン・ヴィッカーズ『演出された「楽園」 バリ島の光と影』(新曜社、2000年)
クリフォード・ギアツ『ヌガラ 19世紀バリの劇場国家』(みすず書房、1990年)
グレゴリー・ベイトソン、マーガレット・ミード『バリ島人の性格 写真による分析』(国文社、2001年)
コリン・マクフィー『熱帯の旅人 バリ島音楽紀行』(河出書房新社、2000年)
ヒルドレッド・ギアツ、クリフォード・ギアツ『バリの親族体系』(みすず書房、1989年)
マディ・クルトネゴロ『スピリット・ジャーニー』(アート・ダイジェスト、1990年)
ミゲル・コバルビアス『バリ島』(平凡社、1998年)

Beryl de Zoete & Walter Spies "Dance and Drama in Bali" (Oxford, 1938)
John Stowell "Walter Spies - A Life in Art" (Afterhours Books, 2012)


バーニー・クラウス『野生のオーケストラが聴こえる サウンドスケープ生態学と音楽の起源』(みすず書房、2013年)
大橋力『音と文明 音の環境学ことはじめ』(岩波書店、2003年)






# by desertjazz | 2023-07-03 00:03 | 旅 - Bali

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◇7◇ イッサー1日目

 冒頭の「イッサーのアトリエ」で旅のきっかけについて書いた通り、ヴァルター・シュピースがウブドの家とは別にセカンドハウスを建てたのは、バリ島の東部イッサー Iseh という集落である。そのシュピースのかつての住まいは、現在ヴィラ・イッサー Villa Iseh という宿になっている。そこに投宿した時のことについて、時間をさかのぼって振り返ってみよう。


 2019年12月14日。

 11時、クタのホテルで迎えの車を待つ。前日の13日にバリに着いたのだが、夕方だったので空港からほど近いクタのホテルに1泊した。イッサーの宿を予約した時点では、どのような手段でそこまで辿り着けばいいのか決めかねていた。現地の人々が利用するローカルバスを乗り継いで行く方法は、大変そうで現実的ではない。かといって、タクシーを使うと相当高くなりそうだし、車をチャーターできるかどうかも分からない。そこで宿にメールで問い合わせると、クタからのトランスポートを予約できるという。料金は片道45万ルピア。日本円にして約3000円。まずまずリーズナブルな値段だろう。

 迎えの車がほぼ約束の時刻通りにやってきて、いざ出発。交通渋滞の夥しいクタからサヌールへ抜けた後は、ほぼ海岸線に沿って1時間ほど走る。その後、途中で左に折れ、やがて登り始める。その景色が美しいこと。写真に収めようと思いカメラを取り出しかけたのだが、この風景は自分の眼でじっくり眺めて楽しんだ方がいい。

 13時過ぎ、ヴィラ・イッサーに到着。クタからちょうど2時間の道のりだった。

 宿の入り口をくぐって奥へと進むと、眼前にライスフィールドがドーンと広がる。壮大で素晴らしい眺めだ。しかし、その先には霊峰アグン山が聳えているはずなのだが、残念ながら今日は雲がかかっていて山頂まで拝むことができない。


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 ここは3部屋(Theo Meier Suite、Margaret Suite、Walter Spies Suite)のみの小さな宿なのだが、案内されたのは入り口に近い部屋 Margaret Suite だった。3室とも宿泊料は同額なのに、眺めが一番良くない部屋で少しガッカリ。

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 軽く荷を解き、まずはビールと昼食にする。宿の周囲には食事のできそうな場所などなさそうだったので、ここで食べる一択か。メニューの中からナシチャンプルーを選ぶ。美味しい! どうやら滞在中はここでの食事が続きそうだ。

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 昼食後、早速周囲を散歩。坂野徳隆の『バリ、夢の景色 ヴァルター・シュピース伝』にはイッサーのことについても短く触れられていて、その内容を思い出しながら(この本は厚くて重いのだが、イッサー滞在中にも読みたくて日本から持ってきた)。まずはこの本に書かれていた向かいの寺院を覗きにいく。まあ、特段目を惹くものもない普通の寺院だろうか。

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 宿の周囲にも特別なものは見当たらず、小さな売店や民家が点々とあるだけ。その分だけ田や木立の緑が豊かに感じられるが、まあ至って普通の田舎の村という佇まいだ。
 小路を歩いていると、元気な男の子たちと女の子たちが声をかけてきて、写真を撮ってくれとせがむ。彼らにとって外国人は珍しいのだろうか。バリに通い始めた約30年前、ウブドの東のペジェン村 Pejeng を散策していると、地元の若者から声をかけられ「僕の家に泊まっていってください」と誘われたことを思い出す。しかし、こんなことは今のウブド界隈ではもう有り得ないだろう。

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 シュピースがこのイッサーにアトリエを構えていたのは、今から約80年も昔のこと。当時は数百人ほどが暮らす集落だったので(現在の人口も大差ない?)、彼のことを憶えている人がまだ生きている可能性はとても低い。インドネシア語を満足に話せない私のような者が、そのような人物を探したり、シュピースに関して聞き取り調査をしたりしても、ほとんど意味がないだろう。それよりここで、シュピースが吸っただろう空気、踏みしめただろう土地、眺めただろう景色、聴いただろう音を、想像してみたい。彼が浸っていただろう空間をただ感じてみたかった。

 まだイッサー初日なので、あまり歩き廻ることはせず、ひとまず宿に戻っておやつタイム。今日は自分以外に宿泊客はいないようで、一人きりで自由にのんびりできるのがいい。『バリ、夢の景色』にはシュピースが植えた椰子の樹が今もまだ残っていると書かれている。プールサイドのこの樹のことなのだろうか?

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 18時30分、夕食。結局今夜は自分を除くと他に泊り客はやって来ず、一人で静かに食事することとなった。こうした宿だと客同士が会話するという雰囲気にはなりにくいので、他人の気配を感じずに一人でいられるというのは幸いだ。

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 夕食を終えると、予想していなかったことが起きた。宿で働く人たちは、夕食を片付けると「それでは」とばかり、皆揃って自分の家へと帰っていくのだ。旅行客を一人取り残して問題はないのか? 一瞬そう考えた。だが、夜一人きりで過ごせるというのは、「シュピース体験」したくてやってきた自分にとっては最高のシチュエーションだろう。ここの主人たるヴァルター・シュピースになった気分に浸り、その空間を独占してじっくり楽しむことができるのだから。

 そんな幸運に恵まれた一夜目。今日はもうすることがない。旅先では何もしないのが一番の過ごし方だ。プールサイドにただ佇んで、目の前の景色をぼんやり眺める。聴こえてくる音も、カエルの単調な声くらい。闇が少しずつ深まっていくのを見つめていると、時間が止まったように感じる。イッサーの空気が身体に染み込んでいくようだ。暗闇の中、時折雷が光るものの、雨は落ちてこない。今夜は穏やかに時が過ぎていくことだろう。

 そろそろ休もう。そう決めて部屋に戻った。だが、眠ろうとしても眠れない。多分興奮しているのだろう。今夜は眠るのを諦めるしかなさそうだ。再びプールサイドに出て、月明かりの下、うっすらと見え始めたアグン山やあたりの椰子の樹のシルエットを撮影する。そして、マイクとハンディレコーダーをセットして、徐々に賑やかになってきたフィールドの音を録音し始めた。

「ヒーーン」という持続音。「リンリンリンリン」という鈴のような虫の音。「ココココ」と打つような正体不明な音。そして、「ゲコゲコ」「ゲェゲェ」「クックックッ」というカエルの声。時折トッケイの声も加わる。夜が深まるにつれ、カエルの声がゆったりとなり、やがて消えていく。

 目の前の光景も音風景も美しい。まるで映画の中にいるかのよう。なんと贅沢な夜なのだろう。

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◇8◇ イッサー2日目

 2019年12月15日。

 6時に目が覚めた。どうやら明け方には寝落ちたようだ。ベッドから抜け出してプールサイドに行ってみると、昨日はあれだけ厚かった雲がほとんど抜けて、アグン山がくっきりと聳え立っている。まさしく絶景だ。

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 ずっと遠くの山の裾まで緑が伸び広がっていて、現実離れしたような奥行き感に言葉を失う。田んぼの上や木立の合間には朝霧が漂い、幽玄な眺めを生み出している。目の前の景色はまるで一幅の絵画のようだ。視線を右に移すとシュピースの絵画で見慣れた丘が迫る。全体を眺めても、部分のどこを見ても、ただ感動するばかり。そう、これはシュピースの傑作『朝日の中のイッサー』などで親しんできた光景ではないか。やはりシュピースは日頃から愛でた景色を自分の絵に描きこんでいたのだ。そうした情景が時間とともに明るさを増し、ゆったり変化していく様子をひたすら堪能する。

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 それにしてもここから望む景色は完璧で理想的な美しさだ。これこそ、シュピースがドイツに住む母へ手紙を書いて感動と興奮を伝えた絶景なのだろう。

 太陽の光を受けながら刻々と表情を変えるアグン山を眺めながら、美味しい朝食をいただく。毎度のことながら、ひとりの客に対してもこれだけ丁寧な調理をしてくれることに、少し申し訳ない気分にもなってしまう。

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 10時、宿の自転車を借りてシドメン Sidemen へ。昨日登ってきた道を反対方向にしばらく駆け降りたエリアがシドメンの中心だ。こんなところも観光化が進んでいて、ウブドに飽き足らない旅人が集っているらしい。シドメンに関しては日本でも島本美由紀『旅するバリ島・ウブド案内+おまけにシドゥメン村』(2016年)というガイドブックが出ていて、これを参考に散策してみた。

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 シドメンのあちこちを自転車でぶらぶら。地元民のための店や観光客用のレストランが広いエリアに点在しているので、自転車やバイクがないと動き廻れない。確かにウブドよりもはるかにのどかで、空が広く感じられる。途中で昼食を取ったり(今日のメインは豚の丸焼き料理バビグリンにする)、気になるホテルのチェックをしたり。

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 あるところでは、ミック・ジャガーとデヴィッド・ボウイが、それぞれイッサーを訪れた時の写真が飾られていた。同じような写真はヴィラ・イッサーのライブラリーに置かれているアルバムで見てきたばかり(これらの写真によると、ミックが来たのは1990年、ボウイは2001年だったようだ)。ミック・ジャガーが何度目かの新婚旅行の際、ウブドの超高級リゾートホテルのアマン Aman に宿泊したことは結構有名な話だが、ミックとボウイがイッサーまでやって来たことも、ここの人たちにとってはかなり大きな出来事だったのだろう。チャップリンがシュピースに会うためにチャンプアンを訪問した逸話を思い起こさせる。

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 シドメンのあちこちで緑豊かな景色を楽しんで、14時頃に宿に戻る。帰り道はずっと登りなため体力が持たず、最後は自転車を押して歩いてしまった。しかし、宿の周辺には雰囲気の良い小路が折り巡っていて、そのような緑の中を汗をかきながらのんびり歩くのも楽しい。帰り着いた早々に、もちろんビール。この宿の部屋には、冷蔵庫もテレビも電話もないのがいい。

 しばらくすると雨になった。水煙に霞む風景もまた趣がある。

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 ところで、この宿はせっかく最高の景色を眺めることができるのに、その前に居座るプールが興醒めだという意見もある。おそらくシュピースの時代にはプールはなかったような気がするし、最初は自分もそう思っていた。だが、幾分標高の高いイッサーでも日中は結構暑く、毎日水に浸かって涼んでいた。思い返せばシュピースもチャンプアンの家にプールを造り、男の子や訪問客と一緒に入っていたという。ならば、プールはリゾートホテルの独占物ではないだろう。

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 寝起きしている Margaret Suite の部屋には、かなり古そうな扉が据え付けられていることに気がついた。細かな彫刻がなされ、鮮やかな彩色の跡がうかがえる。もしかすると、これはシュピース時代のものなのかもしれない。

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 夕方、この宿のオーナーだという女性がやってきたので、しばらく立ち話。普段はデンパサールに住んでいて、今たまたま立ち寄り、これから帰るところだという。例の扉のことを尋ねると、それはシュピースの後にここに住んだ画家テオ・メイヤー Teo Mayer の頃のものなのだそう。想像とは違っていて、ちょっと残念。
(宿のライブラリーにはテオ・メイヤーが住んでいた1949年の写真が飾られていた。)

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 彼女は去り際に、シドメンの朝市へ行くことを強く勧めていった。その朝市はガイドブックにも載っているほどの有名スポットで、始まるのがとても早いことで知られている。彼女のアドバイスによると、やはり4時頃に着いた方がいいらしい。早いな。

 今日も新たな客はなく、今夜も一人きりだ。今回バリに来る直前、ラオスのルアンパバーン近郊の森の中にある宿に泊まったのだが、その時も宿泊客は自分一人だけで、しかもここと同様に従業員たちは仕事を終えると全員帰宅したことを思い出した。

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 夜一人になると、あとは読書するか、ぼんやり風景を眺めるくらいしかすることがない。21時30分、昨晩は寝不足だったこともあり、明日に備えて早めに休む。



◇9◇ イッサー3日目

 2019年12月16日。

 3時に起床。3時40分、自転車にまたがって宿を出発。街灯などない真っ暗闇の中を走る。日本からヘッドライトを持ってきて大正解だった。時折貨物トラックなどが脇を抜けて行き、少しばかり怖い思いをする。

 4時にシドメンの朝市に到着。道を挟んで、すでに結構な数の人たちが動いている。暗がりの中、煌々と光を放つ電灯の数々。その光を頼りに、女性たちは笑顔を浮かべながら、黙々とそして手際よく働いている。いい光景だ。ここで初めて目にする食材も多くて、興味が湧く。あれこれ味見をしてみたくなり、ナシブンクスなどいくつか買って、時々写真を撮らせてもらう。世界中どこに行っても市場は楽しい。

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 暗がりの中を昨日と同様、上り坂に苦しみながら宿に帰り着いて、それからひと眠り。

 朝食を済ませた後は、また宿の周囲を散策する。すぐ近くに学校があったので、そこの子供たちに「Iseh」の発音を尋ねてみた。ものによって「イセ」と書かれていたり「イサ」と書かれているのだが、どうやら「イサ」あるいは「イッサー」と綴るのが現地の発音に最も近いようだ。子供たちは授業の合間に、目の前の店や移動販売する人たちからおやつのようなものを買っていた。これは食事代わりなのだろうか。みんな楽しそうだ。

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 宿に戻ると、宿泊客へのサービスとして周囲の田園を散策するプログラムがあるので、行きませんかと誘われる。折角だからとお願いしたものの、その直後から雨になり取り止めに。それからしばらくして白人カップルがやってきて、今まで満喫させてもらったこの空間の占有もお仕舞いに。それでも物静かな二人だったので、宿の静かさはこれまでと変わらなかった。

 夜にかけてすっかり雨となり、プールの水面を打ち付ける雨粒を見つめながらまったりする。何もせず、何も考えず、ただ時間が流れるのに任せる。すると、あらゆる雑念が消え去り、ストレスが抜けていくようだ。今回のバリは、自分の心と身体を解放する旅になりそうだ。

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 この3日間イッサーの集落を歩いていると、観光で来ているという感じは全くなく、ごく普通の村にお邪魔しているという感覚だった。ヴァルター・シュピースの創作と探求の根底にも、普通に暮らす人々への視点があったのではないだろうか。そんなことを感じられただけでも、イッサーにやってきた意味があったと思う。

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 ヴィラ・イッサーの料金を旅日誌で確認すると、1泊172万5500ルピアだった。3泊したので、宿泊料だけで 517万6500ルピア(これはネット予約した料金で、後日日本円での請求額は41514円だった)。少々高いとも思うが、ここに来た価値は十分にあった。迎車代と飲食代(夕食とビール)の合計は129万7000ルピアで、こちらは妥当な金額だろう。
(最近改めて公式サイトをチェックすると、朝食と昼食込みのパッケージ料金に改定されていて、1泊185ドルに値上がりしていた。もう一度泊りに行くつもりでいたのだが、急激な円安が進んだので、もう無理なように思う。)


 ヴィラ・イッサーに滞在して、ひとつ思わぬ収穫を得られた。宿のライブリーにヴァルター・シュピースに関する本が置かれていて、これが実に素晴らしいのだ。John Stowell による "Walter Spies - A Life in Art"(2012年)と題された大型本なのだが、彼の代表作全てが大きなサイズで色鮮やかに掲載されている。ここまで鮮明な複製は見たことがない。シュピースの作品は、ウブドに唯一ある『チャロナラン』しか実物を目にしたことがなかったが、この本を開くと1枚1枚の細部まで鑑賞できるのでありがたい。

 後日ウブドの書店でこの本を探し求め、重かったけれども買って日本に持ち帰った。それ以来、時々この本のページをめくりながら、イッサーやチャンプアンの空気感や音風景を思い出すことが楽しみとなっている。

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(Part 3 に続く)





# by desertjazz | 2023-07-02 00:02 | 旅 - Bali

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