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■後日談1

 私がこの春にリリースしたホスィン・スラウイの CD を『レコード・コレクターズ』と『ミュージック・マガジン』がレビューして下さった。それも割と大きめの扱いで、かつとても良い評価だった(採点は満点の10点)。これにはビックリ! 自分がアルバムを制作し、それが雑誌に取り上げられることすら、全く想像していなかったので。これまでにも、そのような幸運な出来事が幾度となく繰り返されてきたのだけれど。

 このブログをお読みになっても分かる通り、私は一般に流布している情報を紹介することはあまりしない。情報過多の時代、それは余計なノイズにしか過ぎないだろうから。それより、自分が本当に興味を持ったことについて語る方が、楽しいし意味があると考える。ホスィン・スラウイもそんな一例。ほとんど誰も知らなかった音楽家なのだから。

 そのホスィン・スラウイの音楽はいつかきちんと紹介したいと願っていた。実際、幾人かの音楽関係者に彼の録音をお聴かせすると、誰もが「これは CD として世に出すべき」という。そうした声に背中を押されたこともあって、CD 制作に取り掛かったのだった。

 しかし、自分は小心者。CD を作ったところで、ほとんど誰からも見向きもされずに終わりかねないし、その時のショックは大きいだろう。なので、売ることはひとまず考えず、私家版として出すことにした。それを音楽好きの友人たちにプレゼントし、そのうちの何人かに聴いてもらえたらそれで十分だ、と頭を切り替えて。

 けれども、せっかく自主制作するなら、全て自分のやりたいようにやろう。どうせなら、これまで誰もやっていないようなものにしよう。その方が自分自身楽しめると考えた。その結果は、いかに前例のない、常識外れの制作だったか。

・販売なし/自身無報酬を前提に、制作費を捻出してから制作開始
・ほとんど無名の音楽家のSP録音の復刻
・選曲、ノイズリダクション、マスタリング、デザインコンセプト、ライナー執筆を個人で完遂
・盤起こしからマスタリングまで自宅のオーディオシステムとPCだけで作業
・リリースの予告なし、前宣伝なし
・隣接著作権の切れる死後70年の命日に突然リリース
・ジャケットは1点ずつ手刷り版画
・大判のライナーノートを1枚ずつ手折り
・ライナーの文字は読みやすいよう大きな活字で印刷
・ネットにある音源や動画へのリンクは一切なし
・完成盤を友人/知人たちに配布
・某レーベルからリリースする誘いはお断り
・会社やプロダクションを通じた配給もなし
・基本、買いたい/売りたいと連絡して来た方々だけにお譲り

 宣伝なし、配給なしなのに伴い、媒体等へのサンプルも作らなかった。ただし、長年お世話になったミュージック・マガジン社の知人には聴いていただきたくて、彼には完成盤をお送りした。すると、有難いことに早速聴いて興味を持ってくださり、それが2誌へのレビュー掲載に繋がったのだった。

 深沢さん、吉本さん、原田さんによる、それらのレビューを拝読して何より嬉しかったのは、スラウイの録音をじっくり聴いて書いている様子が感じられたことだ。私がなぜスラウイに興味を持ったかが伝わっていると思えたし、また、自分にとって参考になる指摘も含まれていた。そう考えると、今回いただいた高評も顔見知りに対する気遣いなどではないに違いない。どうやら、ホスィン・スラウイの音楽を世に出した意味は大きかったようだ。

 嬉しい反応は彼らだけに止まらない。CD を聴いて下さった方々から多くの私信や感想をいただいたのだが、キューバ音楽との関連性を指摘される方が意外と多かった。クラーベの音が聴こえる、リズム面での類似性が感じられる、等々。こうしたことは自分自身気付かずにいたので、それだけでも CD を作った意味があった。

(キューバ音楽との関連性は恐らく8曲目についての指摘だと思うのだが、実はこのトラックは最終的に外す候補だった。CD 制作に際して、最初は23曲ほど選んだが、徐々に曲数を減らして16〜17曲に。これでもまだ多いと思って12曲にしようとした。だがホスィン・スラウイの CD を作れるチャンスなんてこれが最後かもしれないと思い直し、16曲に戻したのだった。CD を聴いた方の感想で多かったひとつは、聴き出すと止まらなくてリピートしているというもの。ならば 12曲まで曲数を削らなくて正解だったようだ。)


 だが、個人的にはやり残したことが多いと感じている。リリース前後に「マスタリングもデザインもライナーも全部やり直したい」と話したら、誰からも「やめなさい」と言われた。納得はしているが、満足はできていない、まだそんなレベルなのだ。それでも、まず1枚作ることが最優先なのだと自分に言い聞かせている。最初から完璧なものなど作れないのだろうなぁ。

 ひとつだけ、特に後悔していることを白状すると、それは録音年代を特定できなかったこと。ライナーを書き上げた後にも熟考したのだが、少なくとも収録曲の数曲は 1942年前後の録音だった可能性が高い。つまり、録音期間を 1948〜50年としたのは誤りだったかもしれないということ。なので、集めた資料をじっくり読み直し検証して、新たな解説を書きたい。だけれど、今はそのための余裕はないし、また全く別なことをしようと気持ちが向かっている。

 では、次に何をやろう。ホスィン・スラウイの CD を出すために、形だけでも思い、一応レーベルを立ち上げたので、あと何枚か作ってみたいという気持ちはある。でも、やっぱり全く別のことをした方が面白いのではないだろうか? そのためのネタは色々あるのだが、どう形にすべきか決めかねるものばかり。

 どうせなら、誰もをアッと驚かせるものを紹介したい。例えば、ニューヨークでは、これまで存在すら知られていなかった Fela Kuti のファーストLPを「再発見」。レゴスでは、Bobby Benson の初CD化など貴重な音源をコンパイルした Evergreen Music Company に遭遇。そして、マラケシュでは Houcine Slaoui を発見。自分は幸運なのか、それとも特殊な嗅覚があるのか、どこに行っても何かを見つけて帰ってくるので。

 しかし、これらに匹敵するものは何だろうか? ホスィン・スラウイのリイシューへの反響が予想外に大きかったので、次のハードルがすっかり高くなってしまった。

 それはともかく、今回の復刻作業を(苦しみつつも)一番楽しんだのは自分自身だったに違いない。でも、それは多くの友人たちの協力があってのこと。そのことについて改めて感謝申し上げます! それと同時に、再度いつか突然おかしな相談を投げかけることもあると思いますので、その時にはまたよろしくお願いします!

 旅でも音楽でも他の関心事でも(仕事でも)、明確な目標を見出し定めるまでが本当に苦しい。でも、そこを乗り越えることができれば、その先には大きな喜びが待っている。今回、つくづくそう感じたのだった。さて、次の目標は?






# by desertjazz | 2021-06-20 12:00 | 音 - Africa

ワルジーナの10インチ盤

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 先日、渋谷の某レコード店にインドネシアのレアなヴィンテージ盤がまとめて入荷したと聞き、早速駆けつけた。見せていただくと、これまで目にしたことも聴いたこともない 10インチ盤ばかり。中でも珍しいレーベルのクロンチョン盤2枚は、ジャケットのイラストがなんともいい感じ。かなり高かったが、試聴するより前に「買っていいですか?」と口にしてしまった。レコードとは一期一会。一目で気に入ってしまったので、思い切って大枚はたいて2枚ともお買い上げ。

Orkes Krontjong "Asli" "Krontjong Abadi - Fantasi" (Putri ACL 13, 1962)
Orkes "Karya Nada" "Volume 2" (Karya DN-015, ? )

 どちらとも、何とも柔らかなクロンチョンの響きがたまらない。当時はまだワンポイント録音だったのだろうか?などといったことも頭をよぎる。特に前者は、聴き親しんだ後年のクロンチョンよりもシンプルな構成で、興味深い。

 インドネシアのクロンチョンの中でも、やっぱりワルジーナさんが私の一番のお気に入り。200タイトルあるとも言われるアルバム全てを集めるつもりなどないが、10インチと 12インチのLPは目にする度にコツコツ買い集めている。いや、今では 12インチ盤を入手するのも至難のワザなので、全部は無理だし、探す気もない。なので、せめて 10インチだけでも揃えたいと思っている。

 私が持っているワルジーナさんの 10インチは以下の5枚。

(1) Orkes Krontjong "Irama Sehat" "Krontjong Langgam Djawa" ‎(Lokananta ARI-105, 1963)
(2) Orkes Krontjong Tjempaka Putih "Tjempaka Putih" ‎(Lokananta ARI-119, 1966)
(3) Orkes Krontjong "Bintang" "Waldjinah Ratu Ratu Kembang Katjang" ‎(Lokananta ARI-123, 1967)
(4) Waldjinah "Ngelam-Lami" ‎(Lokananta ARI-127, 1968)
(5) Orkes Krontjong Irama Eka "Elingo Bebaja Marga" (Ramaka IK-01, ? )


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 (1) でワルジーナさんが歌っているのは2曲。それらのうちの1曲は、グサンさんとデュエットしていて、これが実にいい。お二人ともまだ若々しい声だ。このレコードはジャカルタの古物屋(中古レコード店)で見つけたんだったかな。ジャケのダメージが大きいのが残念。(2) と (3) は他の女性歌手とのアルバム。なので、彼女の最初のソロ・アルバムは (4) なのではないだろうか。そう思って、昔ジャワ島のソロにワルジーナさんとグサンさんを訪ねた時、わざわざ日本からこのレコードを持って行き、お二人にサインをいただいた(このアルバムにはグサンさんも参加している)。これは私にとって大切な宝物のひとつだ。

 ワルジーナさんの 10インチはまだ他にもあるのだろうか? ネットには彼女の完全なディスコグラフィーなど存在しないようなので、実際のことがずっと分からないでいる。

 ところで、今回買った Putri 盤 10インチのジャケに WALDJINAH と記載されていることに気がついた。裏ジャケのインドネシア語の解説を無理やり読むと、このアルバムの収録トラックはどうも 1960年に録音されたらしい。Wiki などによると、彼女は 1945年生まれで、58年に開かれた大会で優勝し、それでプロ・デビューに至ったのこと。だとすれば、これは彼女の最初期(15歳?)の録音だということになる。いや、もしかすると初録音か?

 この10インチ盤には、男性3人、女性5人の歌手の歌を収録している。だが、いずれのトラックを聴いてもワルジーナさんの声ではない。どの歌手も彼女に比べると、声域が低く、ワルジーナさんに特徴的なハイトーンの響きが感じられず、またクラシック的なビブラートがかかっている。クレジットをじっくり見たのだが、ワルジーナさんらしきものはなし。残念!

 ところがもう少し調べてみると、同じ Putri 盤に次のレコードが存在することが判明した。

Orkes Krontjong "Asli" "Krontjong Abadi - Indonesia Djelita" (Putri ACL 10, 1962)

 ジャケットのデザインは、今回入手した "Fantasi" (ACL 13) と共通だが、色は赤ではなく青。そして、ワルジーナさんもしっかりクレジットされている(アルバム最後に収録された "Kr. Lelo Ledung" という1曲)。

 さらに調べると、Ramaka には単独盤もあることが分かった。

Waldjinah "Rangkaian Sandang Pangan" (Ramaka IK-003, ? )

 私が持っている5枚の他にも 10インチ盤が存在していたのだ! うーん、これら2枚も欲しい! 聴きたい!

 いやいや、もしかしたらそれ以前に SP 盤もあるのかもしれない。こうして謎と興味がどんどん膨らむのだった。



 CD を漁ると、ワルジーナさんとグサンさんのサイン盤が他にも出てきた。これらもソロのお宅にお邪魔した時にいただいたのだったな。

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# by desertjazz | 2021-05-23 00:00 | 音 - Music

読書メモ:Sandra Izsadore with Segun Oyekunle \"Fela and Me\"_d0010432_15220194.jpg


 サンドラ・イザドレ(イザドル?)の著書 Sandra Izsadore with Segun Oyekunle "Fela and Me" (Kraft Books, badan, 2019) を読了。

 サンドラはフェラ・クティに多大な影響を与えた黒人女性である。ブラックパンサー党に属していた彼女は、1969年に渡米したフェラと出会い、すぐさま恋人関係になり、そしてフェラに対して黒人の価値を重視する思想を植え付けた。また、ジンジャー・ベイカーがフェラ・クティと共に制作したアルバム "Stratavarious" (1972) やフェラの "Upside-Down" (1976) でヴォーカルを担当したことでも有名だろう(ちなみに、彼女は2度結婚しているため、本やレコードによってクレジットのファミリーネームが異なっている)。

 そんなサンドラがフェラとの関係や個人的な思い出を綴った本を出すので、これは必読と思い、19年秋に出版されると同時に探し続けた。しかし、販売されたのはナイジェリア国内のみだったらしく、どうしても手に入らない。そこで Facebook で繋がっているサンドラさんご本人にメッセージを送ると、「近々北京に行くので、その時に何冊か持って行くわよ」との返事。しかし、そのためにわざわざ中国まで行くわけにもいかず、"Fela and Me" を手に入れて読むことは半ば諦めかけていた。

 ところが、エル・スールの原田店主にさりげなく相談すると、「今帰国しているナイジェリア人に頼んでみよう」という話になった。そこで、あまり期待せず待つことに。それから1年近く?、どうにか見つけられたと連絡があり、今月ついに待望の一冊を手にすることができた。ヨルバ人の彼曰く「レゴスでもなかなか見つからず、今はもう手に入らないよ」とのこと。改めて感謝!


 さて、この "Fela and Me"、個人的に関心の深いフェラ・クティの話とあって、ほとんど一気読み。フェラ・クティやアフリカン・ポップに大きな興味のある方ならば、軽く目を通すだけでも色々発見があるかと思う。ただし、ナイジェリア政府との対立、カラクタ襲撃、それによる母の死、27人のダンサーたちとの結婚、国際メガカンパニーへの強烈な批判、等々については具体的には何も書かれていないので、ある程度予備知識がないと理解できない部分も多いだろう。

 通読して面白かったのは、やっぱりフェラとサンドラがLAで出会う序盤、サンドラ初のナイジェリア滞在、そして76年と81年の再会について書いた中盤(第17, 18章あたり)だった。正直なところ、それ以降は物足りなかった。

 サンドラがこの本を書くことを決めた動機としては、これまで事実と異なることを散々言われ書かれたことから、自分自身が真実を語ろうと考えたことが大きかったようだ。


「フェラは未成年をレイプしたと書かれたけれど、あれは私が18歳の時に自ら身体を捧げたものよ」(第1章)


 ちなみにサンドラにとってフェラは最初の男性だったのだそう。彼女の性生活に関しては、結構明け透けに書かれている。それにも関わらず、プライベートなことについては全ては書かないとも。

 序盤では、彼女が人権意識を深めた過程、父も彼女もなかなかスピリチュアルだったこと、フェラと出会った成り行きなどについて、割と詳しく書かれている。フェラがマルカムXやマーティン・ルーサー・キングなどから影響を受けたことは良く知られているが、その詳細について語られることは、これまでなかったかと思う。それだけに、具体的には誰のどのような言動に強く感化されたかについて興味を抱いていたものの、残念ながらこの本にもそこまでのことは書かれていない。ただし、彼女がフェラたちのライブを観た時の次のやりとりはなかなか面白いと思う。


「サウンドはとてもいいのだが、歌詞内容を尋ねるとスープについて歌っていると言う。そう聞いて大爆笑。それはあなたの才能の無駄遣いよ。あなたは音楽を使って黒人たちを教え諭さなくては」(第5章/P.41-42:やや意訳)


 実際、アメリカに渡る以前のフェラ・クティはアフリカに対して批判的で、白人社会を上に見ていたようだ(だから、ロンドンに留学し、ジャズに夢中になったのだろう)。それに対して、サンドラは彼に読むことを勧める。

 フェラたちのLA滞在はあまり成功しなかったとこれまで伝えられてきたが、その詳細についても書かれている。ディズニーランドで演奏する話もあったが、契約に至らなかったとも。労働ヴィザを持っていなかったことが大きかったようだが、ジャズの本場アメリカにアフリカからやってきてジャズ(的な音楽)を演奏したところで、それが評価されるとはとても考えにくいだろう。

 第9章以降しばらくは、1970年にサンドラがフェラを追ってナイジェリアに行ったこと、それは内戦直後で困難を伴ったこと、Afro Spot と Shrine のこと、フェラの家族たちのことについてたっぷり綴られる。フェラには何人の子供がいたのか、またあれだけの数の女性と結婚していながら子供が少なかったのは何故なのかといった、かねてからの個人的疑問についても、一応の答えが書かれている。

 その後、レゴス滞在が限界に達して(違法滞在だった)、サンドラはアメリカに帰国するのだが、その後のことについて書かれた第17章は壮絶。ナイジェリアから帰国した日、自宅で3人組に銃を突きつけられ、そして・・・! 生涯最悪の悲劇に襲われる。それ以来、黒人より白人と一緒にいるようになってしまう。また、拳銃を所持し始め、それを幾度も使うことにも。それがまた別の悲劇を招く。まるで映画のような展開だ。

 続く第18章では、カラクタ襲撃によって母が殺されたことに負い目を感じ落ち込んだフェラの様子が描かれる。サンドラは 1976年に再びナイジェリアで過ごすのでが、その時にはカラクタもフェラもすっかり変わってしまっており、恋人関係も解消されていたようだ。それでも、1981年にフェラからパリに呼ばれ求婚された。しかし結婚には至らなかった(その説明にはとても納得がいく)。

 中盤過ぎからは、サンドラによるナイジェリアとアメリカの政治や人権をめぐる状況の分析が多くなり、そこにフェラが続けた闘争の評価を絡めて綴られる。そのようなこともあって、やや面白みに欠ける内容が多かった。

 そうした中でひとつ興味深く思ったのは、ミュージカル "Fela !" について繰り返し言及し、しかも意外なことにとても高く評価していることだった。このミュージカルの制作を知った時、彼女は最初激昂し、またプロデューサーの中心にかつてフェラが激しく糾弾したゴールドマン・サックスの Steve Hendel がいたのにも関わらずだ。「結果が良ければそれで良し」というスタンスで、高評価する理由も詳しく語られる(思うに、このミュージカルがアメリカ人に向けたアメリカからの視点だったこと、そのためサンドラを讃える側面が大きかったからなのかもしれない。いや、このミュージカルにはサンドラが描かれていただろうか? あとでビデオを観直して確認しよう)。

 著書全体としておおむね時系列に語られるとは言え、話が急に変わり易く、また繰り返しが実に多い。なので、正直構成が良くないと感じた。例えば、フェラのブツが「黒くてデカかった」と何度も何度もしつこく語られる一方、あまり興味の湧かない女性同士の諍いや不和についてもしばしば書かれている。

 何より感じられるのは、サンドラという女性の「強さ」だ。そして、フェラと真剣に愛し合ったこと、彼の思想を方向付けたという、強烈な自負心である。この本はほとんどそれだけで成り立っていると言っても過言ではないくらいだ。

 それでも、これまで知らなかったエピソードも随所に登場するので、興味深く読める部分も多い一冊ではあった。どこまで真実かという疑問も一部に残るが、フェラ・クティ研究の上で貴重な資料とは言えるだろう。


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 貴重な写真も数々掲載されている。少女時代やフェラと出会った頃のサンドラはとても可愛い。20代は飛び切りの美人だし。フェラがいかに女性たちからモテたかという話もたっぷり。





 ところで、2005年にナイジェリアを旅した時に訪れた New Shrine の中には、祭壇のような一角があり、そこに供えられていた/飾られていたものがそれぞれ何なのか謎だったのだが、それらについても今回読んでわかった。(例えば "Fela Egypt 80" original signage だとか。興味のある方は P. 109 をご一読を。)

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以下、個人的に興味を持ったところについて軽くメモ(ネタバレにならない範囲で)。
# by desertjazz | 2021-05-22 20:00 | 本 - Readings

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 キサールのイカットに魅入られてからは、この布が作られる現場を直に見てみたくなった。大洋に浮かぶ小島というだけでも、旅心がくすぐられる。それで、キサール島に行く方法を何度も探ることに。

 地図を見ると、キサール島はチモール島東北部に位置しており、チモールの肩にちょこんと乗っているように目に映る。ならば、チモールから船に乗れば島まで簡単に辿りつけそうだ。そう考えたのだが、東チモールは 2002年に独立したため、インドネシアとは別の国。ならば、国境越えの船など考えにくい(それ以前からポルトガルに実効支配されていたので尚更だ)。

 そこで調べてみると、キサールは行政的には何と遥か北方のマルク諸島に属するようだ。そのため、最も一般的なアクセス方法は、マルク諸島のアンボン Ambon からの船での移動らしい。しかし、この船での往復には一体何日必要なんだ?

 さらに調べると、飛行機も飛んでいることがわかった。この小さな島に滑走路があることは、全く念頭になかったので驚き。アンボン、あるいは西チモール最大の町クパン Kupang からも時折フライトがあるようだ。だが、それが定期便なのか不定期便なのか、そして今も運行しているのかどうかよく分からない。

 調べた限りでは、1週間に1本程度、船や飛行機が往復していた時期もあったようだ。たとえ今も同様だとしても、日本からキサールまで往復するには最低1ヶ月は必要だろう。

 キサールはどのような土地なのだろうと思って、動画を検索して見た。すると、いくつか見つかり、若い白人が観光で訪れた様子が記録されている。こんな場所にも観光で訪れる人がいるとはね。しかし、映像を見る限りは、何ら魅力を感じない変凡な島。まあ、それも当然だろう。

 もしキサールまでたどり着いたとして、問題なのは、泊まる宿があるのか、食事場所はあるのか、言葉は通じるのか、現金はどれくらい必要なのか。宿泊に関しては、宿がなくても、寝袋さえ持っていけば、まあ何とかなるだろう。昔だったら、バリでも初対面の人に「ウチに泊まって」と言われたこともあり、そんな出会いにも期待してしまう。食事に関しても、多分簡単な食堂くらいはあるに違いない。支払いについては、多分インドネシアルピアの現金しか通用しないだろうな。まあ、どんなことでも片言のインドネシア語で何とかなるはず。

 仕事に一区切りついたら、数ヶ月かけてインドネシアをゆっくり巡り、その間にキサールにも足を運んでみたいと思いながら、こうしたことを調べ思案していた。毎度旅のプランを練ることが個人的には大きな楽しみだ。しかし、新型コロナのために、それもしばらくは無理だろうな。



(2021/04/30 全面的に書き直し)







# by desertjazz | 2021-04-29 23:00 | 布 - Ikat and

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 前回(昨日)、「キサール・イカットに関する資料は本当に少ないのです。」と書いたが、とんでもないウェブサイトを見つけてしまった。

Asian Textile Studies

 この中のキサールのページの記述が実に詳しいこと。あまりに長大すぎて、とても読みきれない。


 ここまで徹底して研究している人がいるとは。驚くよりも、ため息しかない。とにかく凄いの一言!

 このウェブサイトを作ったイギリス人のリチャードソン夫妻 David and Sue Richardson は、豪華クルーズ船に乗ってインドネシアのイカットの産地を巡るツアーも企画している。


 昨年、次回の日程を調べたところ、2021年5月13日出発の数週間のツアーが発表になっており、予約を受け付けていた。その旅程にさすがにキサールは含まれていなかったが、こんなツアーに参加できたら効率よく産地を巡ることができるだろうなとは思った(楽しくはないかもしれないが)。ただし料金はおよそ 100万円。なので、とっても無理! それ以前に、新型コロナの流行が収束しないので、多分中止になっただろうと思う。


(続く)







# by desertjazz | 2021-04-18 11:00 | 布 - Ikat and
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