Star Band 研究(5)



 気まぐれで Star Band de Dakar の最初の4枚のアルバム(Vol.1〜4)を久々にじっくり聴いたら、新たな発見が多くて興味深い。その流れで、続く「代理バンド」(Orchestre Laye Thiam、Orchestre Cheikh Tall et Idrissa Diope、Orchestre Saf Mounadem)の3枚(Vol.5〜7)、さらには後期の5枚(Vol.8〜12)も聴き直してみた。

 これら Star Band の LP 12枚を "Vol.1"〜"Vol.12" と呼ぶようになったのは、後年になって便宜的になされたことに過ぎない。Miami Club と Star Band のオーナーだった Ibrahim Kasse がリリースしたオリジナル盤は、初期の4枚も後期の5枚も全てタイトルは "Star Band de Dakar" という表記のみで、副題もヴォリューム番号もない。また、それらの間に挟まる形でリリースされた3枚もバンド名が掲げられているだけで、Star Band とはどこにも書かれていない。実は "Vol. xx" とヴォリューム付けされたのはリイシュー盤のみで、それらも Vol.5、6、7、10 の4枚しか見たことがなく、他にもあるかどうかは不明である。

 前回までに取り上げた Vol.1〜4 の録音時期もリリース年も定かではないのだが、代理バンドの3枚についても同様である。それでも今回資料をいくつか拾い読みしてみたら、推測が進み、少しずつ謎が解け始めてきた。

 ライナーノートなど各種資料に書かれていることを総合すると、Star Band de Dakar のメンバー変遷は概ね次のようにまとめられるだろう。

1960〜64年: Dexter Johnson、Laba Sosseh らが中心メンバー(バンドリーダーは Dexter)。 彼らは 64年に脱退し Super Star de Dakar を結成。

1968〜70年: Orchestre Saf Mounadem(Barthélémy Attisso、Issa Cissokho、Bala Sidibe 他)が Star Band として活動。メンバーの大半は 70年に脱退し Orchestre Baobab を結成。

1970〜76年: Papa Serigne Seck、Yakhya Fall、Doudou Sow、Mar Seck らが中心メンバー。アルバム Vol.1〜4 の収録トラックの多くがこの時期のものだと考えられる。76年に脱退したメンバーが Star Number One を結成。

1976〜78年: Youssou N'Dour、Mar Seck らが中心メンバー。Youssou 含めた多くが 78年に Etoile de Dakar を結成。Mar Seck は Orchesta Number One de Dakar(Star Number One から改名)に合流。

1978〜80年、84〜95年: 1971年に加入した Papa Fall は 80年に一度離脱するも、84年に復帰。Ibrahim Kasse が 1992年7月12日に亡くなった後は、Kasse Star と改名し、解散まで率いる。

「代理バンド」3組のうち Boabab の前身グループ Orchestre Saf Mounadem のメンバーたちは 68?〜70年の間、Star Band に在籍していたとはっきり書かれているものもあるのだが、Saf Mounadem と Star Band のどちらが彼らの正式グループ名だったのかはっきりしない。Teranga Beat 盤 CD "Vaganode" (Teranga Beat TBCD 018) に掲載された Mar Seck の証言によると、集団離脱前のメンバーは、Aly Penda Ndoye、Rudi Gomis、Balla Sidibe、Issa Cissokho、Medoune Diallo、Barthelemy Atisso、José Ramos、Harrison、Bob Armstrong らで、リーダーは Barthelemy Atisso だったという。"Vol.7" には4人のメンバーしかクレジットされていないが、60年代末の時点で Baobab のラインナップはほぼ出来上がっていたようだ。69年または70年の録音と考えられる "Vol.7" で聴ける3曲は、メロディーには後年耳馴染むことになったフレーズが感じられ、またいかにもバオバブらしい演奏で、往年のバオバブ・サウンドがこの時点でかなり完成していることがうかがえる(1975年頃にはサイケなサウンドやファンクも演奏するなど、バオバブの音楽性はかなり広い一方で、同じ曲の再演もとても多い)。

 分からないのは "Vol.5" (IK 3024) と "Vol.7" (IK 3026) のA面に収録された Laye Thiam と彼のグループの経歴である。Orchestre Laye Thiam は1960年ごろから活動していたように書いているものがあり、またリーダー/トランペット奏者の Abdoulaye Thiam (Laye Thiam) は1965年ごろ Star Band に在籍していたとも書かれている。だとすれば、64年に Dexter Johnson や Laba Sosseh らが抜けた後、Laye Thiam たちが穴埋め的に Star Band を 引き継いだのだろうか。しかし、溌剌としたオルガンの演奏が印象的なサウンド(カッコいい!)は、アフロキューバンに軸足を置いた Star Band のイメージからは結構離れている。Laye Thiam が Vol.8〜10 にクレジットされていることも謎である(Youssou 時代まで残っていたということなのだろうか)。

 "Vol.6" (IK 3025) の Cheikh Tall et Idrissa Diope の録音時期や Star Band との関わりも分からない。彼らは 1975年ごろに名作を多く録音しているので、70年代のミュージシャンだと漠然と思っていた。一方で彼らが関係する Le Sahel や Xalam (un) は60年代末から活動していたらしい。だとすると、"Vol.6" は Le Sahel や Xalam に先駆ける時代の録音なのかもしれない。あるいは、Orchestre Laye Thiam も彼らも、Star Band とは全く別のグループだったのだろうか(アルバムには Star Band とは書かれていないことでもあるので)。Idy Diop(Idrissa Diope)が残したアルバムは 70年代の重要作ばかりでもあり、事実関係が気になる。

「Star Band 研究(2)」で明らかにした通り、彼らのファースト・アルバムには Orchestra Baobab などで活躍するアルトサックスの Thierno Koite が参加していた(彼は今でも Baobab でプレイしている)。Star Band について調べていくだけで、セネガルの音楽シーンの人の流れや、音楽的な影響関係が見えてきて実に興味深い。みんなどこかで繋がっていたんだなぁ。

(他にも興味深い事実が次々判明しているのだが、今回も長くなったので、後期の5枚のことなど続きは改めて。)






# by desertjazz | 2023-09-19 17:00 | 音 - Africa

Star Band 研究(4)

Star Band 研究(4)_d0010432_16491416.jpg


 気まぐれに数年の間をおいて綴り始めた「Star Band 研究」、前々回(第2回)はファースト・アルバムにクレジットされた Thierno Koite について、前回(第3回)はセカンドにクレジットされた Bala Sidibe についてと、それぞれ後年 Orchestra Baobab などで大活躍する2人に関することを中心に書いてみた。

 その続きで "Vol.3" (IK 3022) と "Vol.4" (IK 3023) を聴いたのだが、これらでリード・ヴォーカルをとる Laba Sosseh、Doudou Sow、Mar Seck、Magette Ddiaye、さらにはファースト (IK 3020) で歌う Papa Seck (Pape Seck) や Papa Fall のバンド在籍時期が気になってまた調べ始めたのだが、案の定今回もドツボにハマってしまった。


Star Band 研究(4)_d0010432_17294534.jpg


 リイシューLP "Star Band de Dakar" (Ostinato OSTLP006) やデクスター・ジョンソンの充実した発掘作 Dexter Johnson & Le Super Star de Dakar "Live a l'Etoile" (Teranga Beat TBLP 019) のライナーノート、Number One のアルバム群、Dexter Johnson や Laba Sosseh のレコードなどをチェックしている間に、ますます分からなくなってきた。とにかく明らかな誤記や矛盾する記述が多すぎるのだ。


Star Band 研究(4)_d0010432_17300371.jpg

Star Band 研究(4)_d0010432_17301813.jpg


 まず Laba Sosseh の在籍期間は他のシンガーたちとは異なるので、リード・ヴォーカリストによって録音時期は違うはず。Laba Sosseh は Star Band が結成された60年かその直後に加入し、62年(?)に脱退し、それから程なく抜けた Dexter Johnson と一緒に Super Star de Dakar を結成。その後2人は袂を分つのだが、69年にはどちらもダカールを離れてアビジャンに拠点を移している。その後 Laba はニューヨークに移動し、ソロ作を相次いでリリースし、Orchestra Aragon と共演し、Africando にもゲストとして呼ばれる、、、というのが彼の簡単な履歴。だとすると、Laba Sosseh が歌う Star Band の録音は 1962年以前となるが、それはあまりに早すぎるように思う。なので70年代初頭に彼は一度ダカールに戻ったのでないかと以前から推測している。実際そのことを匂わせるライナーもいくつか読んだのだが、はっきりと書かれているものはない。あれだけ誰からも嫌われた Miami Club と Star Band のオーナーの Ibrahim Kassé と和解するなり、彼に録音を提供するなりしたということも考えにく。

 関連して書いておくと、Star Band の8枚目以降は Youssou N'Dour がクレジットされているので、1970年代後半の録音と思われがちがだ、それは決定的に間違っている。Mar Seck や Laba Sosseh がクレジットされているからだ。その点 Bellot/Frochot のリイシューCD "Star Band de Dakar feat. Youssou Ndour, Pape Fall, Mar Seck, Laba Sosseh, Alla Seck : 1978-1979" も同じ間違いを犯している(ライナーにはより大きな間違いがある)。

 Ibrahim に対する批判・悪言と言えば、リイシューLP "Star Band de Dakar" のブックレット後半の Yakhya Fall のインタビューも痛烈だ(このライナー前半は、時代背景的な話ばかりで、Star Band に関してはほとんど語られず意味が薄い)。以前にも取り上げた記憶があるのが、途中からほとんど Ibrahim に対する怨念めいた悪口ばかり。もう少し内容を深めたものにできなかったのだろうかと思うのだが、それでも (1) 自分達の音楽は自然と人々から「サルサ・ンバラ Salsa Mbalax」と呼ばれるようになった (2) 自分達が最初にトーキング・ドラム(タマ)とウォロフ語の歌詞を使い始めた (3) ウォロフで最初に歌ったのは Pape Seck だ、といった証言は貴重だろう(このアルバム、Star Band の久々のリイシュー、しかもヴァイナルということで大いに期待したのだけれど、届いてみたら編集方針の不明なわずか6曲のみで、ライナーも読む価値はほぼなし、写真も Pape Seck 時代のものばかり、それなのに Pape Seck が中心だった1枚目と2枚目からの選曲はなしと、全く謎だらけのものだった。残念)

 余談になるが、そのブックレットに掲載されている Yakhya Fall の写真はいい。ちょっとヤバそうな雰囲気と一皮剥けたファッション・センスを感じさせる。きっとモテたんだろうな。彼のワウワウギターもホント良いと思う。Star Band でも Number One でもPape Seck と彼が中心にいたのは当然だろう。

 Yakhya Fall のインタビューは、ある音楽フェスで他のグループたちが会場が準備した良い機材を使っていたのに、Ibrahim は自分達にそれを許可しなかったことにブチ切れて、メンバー揃って Star Band を脱退した話で終わっている。この逸話は相当有名なのか、他のライナーのいくつかでも触れられている。しかし、ひとつは 1972年、ひとつは 1974年1月、あとひとつは 1976年1月と書かれている。一体どれが正しいのだろう。

 1969年(または70年?)に Star Band からの集団脱退によって Orchestra Baobab が誕生したのに続いて、ヴォーカルの Pape Serigne Seck、Maguette N'Diaye、Doudou Sow、Malick Ann、ギターの Yahya Fall などが一気に離脱したのだから大事件だったことだろう(彼らは新バンドを結成し、Star Band Number One/Star Number One/Orchestra Number One de Dakar/Number One du Senegal などと名乗る・・・このようなバンド名の遍歴も掴めていない。今日調べていて、Papa Djiby Ba が Le Sahel から Number One に合流したことも確認できた)。

 事実確認できないことは、Star Band の結成年もそのひとつ。1960年のセネガル独立を記念して結成したと書かれているものが多い一方で、その前年59年とするものもある。しかし今日読んだライナーには Ibrahim Kassé が 1957年に Dexter Johnson を Star Band にスカウトしたと書かれていた。Miami Club には Star Band の前身 Star de Senui が演奏していたらしいのだが、これとゴッチャになっているのだろうか?

 セネガル音楽の 60年代と 70年代は、調べるほどに謎が深まる。だけど、聴いていて楽しい音楽ばかりだし、意外な発見が相次いで驚かされる。黙って音楽を楽しむだけで十分だろうと思う反面、徹底的に調べたい気持ちも持ち続けている。

 Star Band の "Vol.1"〜"Vol.4" を繰り返し聴き、次の Orchestre Laye Thiam ("Vol.5" と "Vol.7")も聴き始めたら、Laye Thiam は 1960年ごろから活動しており、60年中頃には Star Band に在籍していたと書かれていた。さすがにそれはないのでは?? Star Band にまつわる謎は深まるばかり。。。




# by desertjazz | 2023-09-16 17:00 | 音 - Africa

Star Band 研究(3)

Star Band 研究(3)_d0010432_08532156.jpg


 スターバンドのファースト・アルバム (IK 3020) はラテンやアフロキューバンの有名曲のカバーが中心で、長年セネガルの人々が抱いていたキューバ音楽への熱情が反映されているように感じる。それに対してセカンド・アルバム (IK 3021) で印象的なのはタマとトランペットの音だ。ンバラの特徴のひとつとしてタマの打音が挙げられるが、ンバラ誕生の萌芽が70年代前半のスターバンドのサウンドの中にも感じ取れる、そのような見方もできるのかもしれない。ンバラはユッスー・ンドゥールが一人で作り上げたものではないとしばしば言われるが、確かにその通りだろう(ジャケットのデザインはタマを演奏する男で、これはアルバムのサウンドを象徴するデザインだと思う。残念ながらセカンドプレス?では、なんとも酷いイラストに入れ替わってしまったのだが)。

 前回の記事ではファースト・アルバムのクレジットのいい加減さを指摘したが、セカンドも同様である。ファーストの裏ジャケットに記載されているのは8人、セカンドは9人で、そのうち重複しているのは Maguette N'Diaye、Malick Ann、Badou Diallo の3人だけ。いかにメンバーが流動的だったかを読み取ることができそうだが、そう簡単には判断できない。このアルバムでも、セカンドプレスやレコード盤面のクレジットとの食い違いが散見されるからだ。なので割と適当に名前を並べただけのような気もする。

 記載不一致のひとつが "Yene Khaleyeteye" のヴォーカルとして、ファーストプレスの裏ジャケットに名前のない Bala Cidibe がクレジットされていること。これはオーケストラ・バオバブのオリジナル・メンバーのひとり、バラ・シディベ Bala Sidibe のことだと今頃気がついた。声は間違いなくバラ・シディベだが、その歌いぶりは単調でまだまだ未完成と感じる。また、このトラックは他の収録曲とは雰囲気が幾分か異なるように感じる。

 知られている通り、スターバンドはメンバーが少しずつ入れ替わって発展したグループではない。ギャラを渋るオーナーのイブラヒム・カッセと対立したメンバーたちが、一度に大量脱退することを繰り返したと言われる。そのため、クラブ・ミアミに出演するバンドが入れ替わっても、その都度スターバンドと呼んでいたようなのだ。

 アルバムからもそうした事情が読み取れる。"Star Band Vol.5" とみなされている5枚目 (IK 3024) は、Orchestre Laye Thiam の単独盤で、それ以前のアルバムとはメンバーの重複はない。同様に "Vol.6" (IK 3025) は Orchestre Chihk Tall et Idrissa Diope の単独盤(実質的に Le Sahel と同じバンドだ)。そして、"Vol.7" (IK 3026) のA面は Orchestre Laye Thiam、B面は Orchestre Saf Mounadem による録音である。これら3枚のオリジナル・アルバムには元々 Star Band という表記は一切ない。Star Band とタイトル付けされるのは、星形の共通デザインでリイシューされた時である。

 この後の "Vol.8" からラストアルバムの "Vol.12" までの5枚 (IK 3027〜3031) は、そうした代理バンドではない本来のスターバンドに戻る。ヴォーカリストとしては、ユッスー・ンドゥールやラバ・ソッセー Laba Sosseh がクレジットされている。

 長くなったが、スターバンドの初期の4枚と後期の5枚はアルバム単位で考えて作られたものではなく、カッセが録音したものの中から適当に選んでアルバム化したものではないかと類推している(録音場所はいずれもクラブ・ミアミだろう。セカンドの音の響きは明らかにライブハウスのそれであるし、4枚目には一瞬拍手も混じる)。そう考える根拠はクレジットのいい加減さだ。またユッスーとラバ・ソッセーが一緒に活動していたこともあり得ないので、後年のアルバムは様々な時代の録音の寄せ集めだろうと考える("Vol.9" にもユッスーがクレジットされているが、このアルバムのどの曲もユッスーは歌っていないというのは、そもそもおかしいと思う)。

 もうひとつの理由は、同じアルバム中でも曲ごと楽器編成が異なっていたり、サウンドに違いが感じられたりすることだ。その最たる例が、先に取り上げたバラ・シディベがリードヴォーカルの "Yene Khaleyeteye" である。アルバムの他の曲と比べると、歌と演奏の成熟度にも違いが感じられる。

 "Vol.7" の Orchestre Saf Mounadem のメンバーとして、バルテレミ・アティッソ Barthelemy Attisso、Balla Sidibe、メドゥーン・ジャロ Medoune Dilallo、イッサ・シソッコ Isssa Cissoko の4人がクレジットされている。彼らは 1969年までミアミでプレイしていたものの(イッサは 60年代にラバ・ソッセーのグループ Laba Sosseh et son Orchstre Vedettes Band に在籍し、曲によってはアレンジも担当していた。その縁でミアミでプレイするようになったのだろう)、新しく生まれたクラブのバオバブに引き抜かれてカッセの元を離れた。そのためこのレコードはオーケストラ・バオバブのファースト・アルバム(初録音)とも見なされている。しかし、"Yene Khaleyeteye" も同じメンバーで録音がなされた可能性もあるのではないだろうか(ギターの音などからは判断がつきかねるが、後年のバオバブを思わせるサウンドも感じられる)。しかもこちらの方が古い録音だとすれば、これこそバオバブの初録音ということになるのだけれど。実際はどうなのだろうか?


Star Band 研究(3)_d0010432_09381752.jpg

Star Band 研究(3)_d0010432_09384587.jpg
(Angouleme, France 2003)


 さて、3枚目と4枚目では、タマに加えてワウワウギターやトランペットが活躍し、よりンバラのサウンドに近づいた印象を受ける。そうした続きの話はまたいつか改めて。


#
#
#




# by desertjazz | 2023-09-15 10:00 | 音 - Africa

Star Band 研究(2)

Star Band 研究(2)_d0010432_20403679.jpg


 スターバンド Star Band de Dakar の最初の4枚(Vol.1〜4)をじっくり聴き直したところ、興味深い発見がいくつかあった。


 1960年のセネガル独立を記念してイブラヒム・カッセ Ibrahim Kassé が結成したスターバンドは、70年代に入ってからレコード制作も始めた。その1枚目には、イブラヒムが所有しスターバンドが出演するクラブ名「ミアミ」を中央にデザインしたもの("LE MIAMI" BAR DANCING と書かれている)と、タイコを叩く男のイラストのものの2種類がある(どちらも番号は IK 3020)。

 収録曲はラテン色がまだ強く、ナイトクラブで演奏されるムード音楽っぽいものが多い。困りものなのは、曲目クレジットがかなり不正確なこと。例えばA面1曲目は Cortijo y su Combo の "Bamos Pa'al Monte" と書かれているが、Cortijo にそんな曲はあっただろうか? Eddie Palmieri の "Vámonos Pa'l Monte" かとも思ったのだが、私には同じ曲には聞こえない。確かに Bamos Pa'al Monte... というフレーズを口ずさんでいるものの、"Guantanamera" のメロディーに乗せて、その歌詞を変えているように聞こえるのだが。


 B面最後の "Thiely" は Du Grand Combo の曲となっている。しかしこれは明らかに "Moliendo Café (Coffee Rumba)" のカバーだろう。70年代当時のセネガルでは、曲名などはミュージシャンたちの間で案外適当に呼び合ってやりとりしていたのかもしれない。


 私はラテン音楽には疎いので、勘違いしているのかも知れない。キューバ音楽などに詳しい方からのご教示をいただきたい。


 ジャケットに "LE MIAMI" とデザインされたファースト・プレス?の裏ジャケットには、バンドメンバーが並べられている。だが、これも信用できない。このファースト・アルバムに限らず、ヴォーカリストなどがレコードレーベル面の表記とは結構食い違っているからだ。

 それでもメンバーのリストに「Thierno saxo alto」と書かれているのを見て、おや?と思った。これはオーケストラ・バオバブ Orchestra Baobab のチエルノ・コイテ Thierno Koite ではないだろうか? "Malaguena" や "Thiely" といった曲では、滑らかで麗しいアルトサックスを聴けるのだが、この音色はチエルノの演奏に間違いない(サックスはもう一人 Pape Seck が入っているのだが、彼はテナーだ)。

 私は70年代セネガルの最重要アルバムは、Le Sahel の "Bamba" (1975)、Idy Diop (Idrissa Diop) の "Dioubo" (1976)、Xalam (un) の "Daïda" (1975) の3枚だと考えている。ラテンの受容時代から脱却してンバラへと向かう姿が強く感じられるからだ。その3枚中、先の2枚にチエルノが参加している(そもそも彼は Cheikh Tidiane Tall、Idy Diop らとともに Le Sahel を結成したメンバーだ)。"Bamba" などがリリースされた1975年というのは重要な年で、Le Diamono のファースト・アルバム "Biita - Baane" のリリースも同年だ(当時 Omar Pene はまだリーダーではなかった)。そしてこのアルバムにもチエルノがクレジットされている。1975年はバオバブが Buur からアルバムを5枚(BRLP 001〜005)リリースするという大躍進を果たした年でもある。だがこれらのアルバムにはチエルノは参加しておらず、後年バオバブでの活躍を考えると、少々不思議な巡り合わせに思えてくる。

 チエルノ・コイテは Star Number One の結成にも関わっているし(ファーストとセカンドの2枚のアルバムにクレジットされている)、バオバブだけでなく、ユッスー・ンドゥール Youssou N'Dour et Le Super Etoile de Dakar での活躍も広く知られていることだろう。ンバラの人気に押されてバオバブが解散状態だった頃に、イッサ・シソッコ Issa Cissoko とともに "Set" などのレコーディングに参加し、ユッスーと来日も果たしている。

 アフリカ音楽の全アルバムの中で一番好きなのは、ユッスーのカセットYoussou N'Dour et Le Super Etoile I De Dakar "Jamm - La Paix - Vol. 12"。生涯の10枚に確実に入るほど愛聴している。中でもユッスーではなく、ウゼン・ンジャイ Ouzin' N'Diaye がリードヴォーカルを担当する(ユッスーはコーラスを添えている)"Ale Samba" が最高で、感涙ものの美しさ。柔らかく優しいサックスの調べも実に良いのだが、これもチエルノだと今頃気がついた(イッサとユニゾンしているのかな?)。


 Star Band、Star Number One、Le Sahel、Etoile de Dakar、Orchestra Baobab、、、これほどまでにセネガルのトップグループを渡り歩いたのは、恐らく彼以外にはいないだろう。そうした経歴を振り返ってみると、チエルノ・コイテはセネガル音楽シーンの生き字引的な存在、いや常にシーンの中央にいた最重要ミュージシャンだと言えるのではないだろうか。だからこそ、オランダのジャズ・ユニット New Cool Collective Big Band がチエルノへのリスペクトを込めて"New Cool Collective Big Band Featuring Thierno Koite" というアルバムを制作するなんてことも起きたのだろう。

 うーん、チエルノ・コイテの偉大さと重要性にもっと早く気がついていれば。2003年にフランスでバオバブのメンバーたちにインタビューしたのだが、ギターのバルテレミ・アティッソ Barthélémy Attisso とヴォーカル&ティンバレスのバラ・シディベ Balla Sidibe、それにイッサに少し話を聞いただけで終えてしまった。チエルノはやたらと目立つイッサの横に立つ地味な存在としか思っていなかったので、フランスで何度か会った時も、バオバブで来日した時もほとんど言葉を交わさなかった。


Star Band 研究(2)_d0010432_20452338.jpg

Star Band 研究(2)_d0010432_20452580.jpg


 悲しいことに、オーケストラ・バオバブはオリジナル・メンバー/主要メンバーがほぼ皆他界してしまった。それでも結成50周年を記念してのツアーが続行中。最近のライブ・ステージや新作レコーディングを映したビデオを観ると、その中心でチエルノが新加入した若手メンバーたちを引っ張っているように感じられて嬉しかった。

 チエルノ・コイテにはまだまだ元気に活動して欲しいと願う。彼には色々訊きたいことばかりなので、ダメ元でインタビューを申し込んでみようかな?


(スターバンドの1枚目と、それに参加したチエルノ・コイテのことだけで長くなってしまった。2枚目で発見したことなどについては、改めて書こう。)






# by desertjazz | 2023-09-14 20:00 | 音 - Africa

Movie : Ethiopiques - Revolt of the Soul_d0010432_19325386.jpg


 9/9(土)、Peter Barakan’s Music Film Festival の1本、『エチオピーク 音楽探求の旅 Ethiopiques - Revolt of the Soul 』を観てきた。以下、本題からは少々脱線する私的雑感。

 フランス人プロデューサーのフランシス・ファルセト Francis Falceto が、如何にして Amha Records などの音源と出会い、それらをコンパイル/リイシューして、エチオピーク・シリーズを実現させたかというストーリーだろうと想像していたら(勿論それが映画の主題のひとつなのだが)、内戦や恋人の死などに翻弄された制作者や音楽家の人生も織り込まれていく。貴重な映像も多く、軍威発揚の歌をステージで歌うフィルムにはびっくり。

 全体的に分かりやすい作りの映画であり、まずはフランシス・ファルセトの個性(変人ぶり?)が伝わってくる。採算など度返しした情熱の傾けようで、これだけ熱心にならなければ(パートナーにも逃げられた)、エチオピークのようなプロジェクトは成功させられないのだろう。

 レコード発掘の熱さで彼を超えるのは AnalogAfrica のサミーくらいではないだろうか。サミーはこれまで会った中で最も情熱的なプロデューサーだった。フランシスにしても、サミーにしても、土地の利のある欧州人だからここまでのことができているのだとも思う。アフリカから遠く離れた日本人にはとても無理。その点、毎年のようにエチオピアに通われている川瀬慈さんには敬服する。

 上映後のその川瀬慈さんとピーター・バラカンさんのトークも超面白かった。Amha 以前にはエチオポップの録音はないだとか、レコード・プレスはインドで行ったという貴重な情報も。お二人とも人名含めて固有名詞が淀みなく出てくるのを聞いて、プロは違うな、なんてことを感じたりも。

 この映画には超重要ミュージシャンが登場しないのだが、それはフランシスと仲が悪いからではないか、といった暴露話も。(世界的には無名だったミュージシャンが突然有名になると、権利や金にうるさくなるのはありがちな話。昔キューバで BVSC の某ミュージシャンにインタビューを申し込んだ時、5000ドルものギャラをふっかけてきて速攻で断った知人のことを思い出した。今回も案外金がらみで揉めたのかも?)時間切れとなって、バラカンさん「もっと聞きたい」、川瀬さん「時間が足りない。裏話、もっとあるのに」。この続きは是非またどこかで!

 帰宅して、まず1曲検索。映画の中盤、70〜71年頃に録音された Haral? Police Orchestra の "Whole Lotta Love"(もちろん Led Zeppelin のカバー)が流れたのだが、これが強烈! 通しで聴きたいと思ってネットで探したが、さすがに見つからなかった。エチオピークに収録された曲の数々は、JB やプレスリーに影響を受けて生まれたものとのことだが、ZEP なども何らかの方法でリアルタイムで聴いていたんだな。

 映画の最初の方でアジスアベバを南北に貫く長い坂道が映し出される。もうこれだけで懐かしくて仕方ない。エチオピアは1997年に訪れたのだが、最初からトラブル続きの旅だった。数十年に一度?という洪水に遭遇。アファール(ダナキル砂漠)ではミリシア(民兵)やゲリラの気配が漂っていて、命の危険を感じたため数日で撤退(帰国後、エチオピアは内戦状態に陥った)。同行者も相次いで倒れ(アジスの日本大使館には大変お世話になりました)、元気なのは自分一人だけに。そんな状況だったので、アジスの街を楽しむ時間などは全くなかった。

 そのようなこともあり、エチオピアももう一度行きたい国のひとつ。最近エチオピア航空がアジス直行便(仁川経由)を再開させたので、そのフライトを調べていた。数ヶ月前の時点で往復約17万円。アジスからナミビアまで飛んでいることにも気がつき、ナミビアやボツワナに1ヶ月ほど滞在した後、アジスにストップオーバーするプランを検討した。東京ーアジスーウィントフックの4フライトでも20万円台。しかし調べ直したらアジス往復だけで27万円に値上がりしていた。このプランはもう無理だろう。

 エチオピアの旅で最も強く記憶に残っているもののひとつは、北部の町メケレの手前を走っている時に、道の脇に黒焦げになった戦車が放置されているのが目に飛び込んできたこと。内戦の残滓がそのまま残されていることに衝撃を受けた。そのメケレで泊まったホテルも私たちが去った後に空爆されたと聞いた。生まれた時代や場所次第で戦争の中で生きるよう強いられる現実に戦慄が走ったのだが、映画中語られる内戦とその映像から、黒焦げの戦車をまた思い出したのだった。

 ・・・このように、映画を振り返りながら、雑念ばかり湧いてくる。

 映画で流れる楽曲の数々を聴いて、やっぱりいいなと思った。エチオピークのCD30枚は勿論全て持っている。だが、全然聴き込んでいないので、じっくり聴き返したい。フランシス・ファルセトはシリーズをスタートさせた時、エチオピークは30タイトル作りたいと語っていた。今ちょうど30作。有言実行。お見事です!

Movie : Ethiopiques - Revolt of the Soul_d0010432_19432379.jpg


 映画を観た夜は、そのエチオピークはあえて聴かず、Amha Records のストレート・リイシューや、大好きな(昔雑誌にレビューを書いた)Mohamed Ahmed "Live in Paris" などを流しながら、Francis Falceto "Abyssinie Swing" のページを捲って中の写真を眺めたり。映画の中でフランシスが大量に写真を集めたと語っていたのは、これらのことなのだろう。さらには、エチオピア取材のファイルを開いたり。

 うーん、エチオピア、やっぱり行きたいぞ。本場の味のインジェラを食いたいし、エチオピアのラムもたっぷり飲みたい。

Movie : Ethiopiques - Revolt of the Soul_d0010432_19432538.jpg









# by desertjazz | 2023-09-13 19:30 | 音 - Africa

DJ

by desertjazz