〈 Massilia Blue 〉
訪ねてくること9回目にして、初めて体験した真夏のマルセイユ。毎日ほとんど快晴で、真っ青な地中海と真っ青な空を目で楽しむ。サマータイムと日の長さもあって、夜も遅くまで青空が広がっている。
日中の気温は連日 32〜34度と高かったが、日本に比べるとまだ空気がカラッと乾いているので、過ごしやすい。その分、ビールもワインも美味い。マルセイユのワインといえばロゼ。レストランを眺めても 90%以上の人がロゼを選んでいる。「ロゼは邪道だ」「ロゼは美味くない」と公言する Tatou と私は、ここでは変わり者? いや、マルセイユの夏は空と海の青色がグラスに反射する、白ワインがいいだろう。それもキリッと冷えた白だ。
旧港の海の上にステージを設けて連日行われたマルセイユ市主催の無料コンサート。ステージもライトも衣装も全て青が基本。Tatou たちは藍染の服がひとつのトレードマークになっているが、他のアーティストたちも意識して青を身に纏ったのだろう。市庁舎の前に並べられたプラ(ポリカーボネイト?)製の椅子も鮮やかな青色だった。
マルセイユの夏は、マッシリア・ブルーが良く似合う。
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〈 Marseille Euroméditerranée 〉
マルセイユ再開発の現状はどうだったか。
まず目を見張ったのはエクス門周辺の整備ぶりだった。エクス門まで伸びていた高速道路は中央駅で断ち切られ、それで生まれた余地にはセンスの良い公園が造成され、小さな子供を持つ家族たちにとって憩いの場になっていた。
エクス門のその周りも、昔はゴミゴミしていて最悪の環境だったが、上記の公園とひと続きにすっきり整備されていた。広い東側のベンチにはアフリカ系の黒人たちが、終日ヒップホップを流しながらたむろしている。一見した感じでは、少々危ない雰囲気。彼らのことが気になりながらも、知り合いはいなく、きっかけもなかったので話しかけることはできなかった。
エクス門の広場には、かつては露天商や雑貨を並べて小遣い稼ぎをする人々がいたが、今はほとんど見られない。なので幾度も目にした行政や警察からの嫌がらせも今では昔のこととなっているのだろう。トラムの停車場もできて本当に浄化されている。
エクス門の前のカフェは昔通り。その脇から伸びる小路は、夏だからか小綺麗になった印象。だが、エクス門周辺のCD屋も気に入っていたクスクス屋もなくなってしまい、前回から大きな変化も感じられなかったので、ここの定点観測は今回で終了かな。
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エクス門周辺と同様、マグレブ/アラブ系の人々が行き交うカプチンのストリートは今も魅力的。ある意味、ユーロメディテラネに基づく再開発とは無縁な地域なのかもしれない。初めて来たときには、警察だけでなく軍隊まで動員して、強烈な手入れ(というより嫌がらせ)を受けているのを目にして憤慨したが、さすがに今はそのようなことはないのだろう。
それでも、マルセイユに来る直前の7月7日に実施されたフランス国民議会(下院議会)選挙では、極右・国民連合(RN)が第1党になる可能性が取り沙汰され、それを危惧し阻止すべく Aya Nakamura などの著名人が投票を呼びかけていた。対抗政党の候補者調整の効果があってか、RN の躍進をギリギリで抑えられた(日本ではなぜこれができないのか?)。もし RN が政権を奪っていたら、果たしてマルセイユもどうなったことだろう。
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ひと頃は目立っていた街中の工事(まるで渋谷のようだった)はなくなり、トラム3路線の工事も終えたようで、ユーロメディテラネ関連の再開発は一区切りといった印象だった。北のアレンク一帯はまだまだこれからといった様相でもあったが。
そうした中、近年気になっていたのは、共和国街 Rue Republique。市の中心部/旧港付近から新港エリアと真っ直ぐ伸びる通りの両側には整った建物がすっきり並ぶ(パリのシャンゼリゼのよう)。絶好の立地であるのに、なぜか活気が全くない。その理由は、鳥海基樹の『マルセイユ・ユーロメディテラネ:文化化と享楽の衰退港湾都市再生』を読んでようやく理解した。
20世紀前半(正確にはいつだったかな?)込み入って建ち並ぶ古い建物を破壊して大通りを作ったものの、その後の周辺開発に失敗。住むのは低所得者ばかりで、裕福な人々は皆マルセイユ南部に住むようになった。一時は大手が店を構えたものの、相次いて撤退。なので、通りは閑散としており、広告看板も目にしないのだ。パリでは毎日通う Monop' の店内も汚く、商品管理も杜撰。とても同じ系列店とは思えないほどだ。
通りの住居は老朽化が進んだものの、結局改修に手をつけられないというのは現状らしい。たとえ内装を手直ししても、貧しい人々からその経費を回収できる見込みはない。当然家賃は根上がるだろうから、彼らを追い出すとにもなる(実際、貧民層を追い出すために、電気や水道を止めるという暴挙がなされたこともあったという)。かと言って、南部のコミュニティーに移り住んだ人々が戻ってくる可能性は低い。結局放置されたままで、「誰も住んでいませんよ」と言われたのだった。
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話は少し逸れるが、弱者軽視はパリでも酷いらしく、パリ五輪を前にしてホームレスなどの貧民たちを非可視化する傾向が強まったと聞かされた。それは東京オリンピックでも全く同様だったことを思い出させる。
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再開発に最も成功しているのは、新港に沿ったハイソな雰囲気の一帯かもしれない。物資の積み下ろし基地という役割を減じつつ、マグレブ同胞やインバウンドを受け入れる拠点という機能がうまく働いているようだ。それには地中海クルーズの人気も少なからず貢献しているらしいことを今回来てみて知った。
短い期間、断片的に歩いただけにすぎないが、マルセイユに来る度に再開発は着実に進んでいるように見え、ユーロメディテラネ構想とそれが後押しした文化化/観光活性化は成果を生み出し続けていると言えるのではないだろうか。
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〈 La Ciotat 〉
ユーロメディテラネ構想が落としたマルセイユで興隆しつつあるツーリズムは、Tatou や Blu が暮らす、マルセイユ近郊の小さな漁港ラ・シオタ La Ciotat にも及んでいるという(ラ・シオタは、映画の父たるリュミエール兄弟が制作した『ラ・シオタ駅への列車の到着』でも有名)。バカンス客が増えて、物件価格も上昇、街の雰囲気は変わってしまった。それが嫌で街を離れていった人も多いという話はとても残念だ。
それでも、これまでに3度訪れたラ・シオタには、穏やかで雰囲気良いという印象を持っている。今回も Tatou に誘われならがも行くことができなかったので、次回の旅ではまた訪ねていきたい。そのためにも 10回目になるマルセイユへの旅を実現しなくては。
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〈 Slopes and Stairs 〉
鳥海基樹の『マルセイユ・ユーロメディテラネ:文化化と享楽の衰退港湾都市再生』を読み直して、前回マルセイユに滞在した時、ル・パニエ Le Panier 地区が面白いと初めて感じたことを思い出した。振り返ってみると、このエリアはまだあまり歩いていなかったからだろう。『マルセイユ・ユーロメディテラネ』を読んでここの歴史にも興味を持ったので、今回は少し歩き回ってみることにした。
旧港の北側、ル・パニエは小高い丘になっていて、北との行き来の障壁となってきた。そこで暴力的に貫通させた道が共和国街だった(というのは先に書いた通り)。また J4 も旧港と北を結ぶのにある程度の役割を果たしているとも言えそうだ。
今回マルセイユを歩き回って、とにかく疲れた。それは暑さのためばかりではなく、坂と階段が多いからでもあることに、今更ながら思い至った。
パリでは度々ストライキに鉢合わせて、公共交通がほぼ全面的にストップしてしまったことがある。昔、パリ東部のライブ会場から 8km歩いてホテルに戻ったことがある。また4年前の正月には、北駅側のホテルから、Rokia Traoré 3連夜のコンサートが行われた 19区の Le Belvédère de la Philharmonie への往復も、レオナルド・ダ・ヴィンチ展が開催されたルーヴル往復も全て徒歩移動。そのため毎日 20kmくらい歩いたのだが、全く疲れなかった。それはパリ全体が(モンマルトルの丘を除くと)平坦な土地だからだ。
それに対してマルセイユは坂道だらけだ。マルセイユの歴史を紐解くと、広い平地がなかったことから、どの都市にもあるような中央広場が作られなかったと書かれている。確かにル・パニエに限らず、中央駅に行くにも、ジュリアン広場周辺に行くにも、急な登り坂や階段は避けられない。最たるものはマルセイユのシンボル、ノートルダム・ドゥ・ラ・ガルド寺院だ。ここに辿り着くには長い坂道を登らなくてはならない(普通はバスを利用するが)。
今更ながら、マルセイユの坂と階段の多さについて改めて認識したのだが、そうした数々の坂道をのんびり歩くのもまた一興だった。それは、エリアごとに異なる個性豊かな通りの表情を楽しめるからであり、また青い大空が心地よいからでもあったのだろう。
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