先日、近所の図書館で民族学関連の文献を漁っている時、リチャード・カッツ『〈癒し〉のダンス 「変容した意識」のフィールドワーク』という一冊が目に留まった。ページを開いてみるとカラハリのサン(ブッシュマン)のヒーリング・ダンスに関する内容だったので、思わず興奮。そしてリチャード・カッツという名前にピンとひらめき、もしやと思い確認してみたらやはりそうだった。これは Richard Katz "Boiling Energy: Community Healing among the Kalahari Kung" (1982) の翻訳書だ。
昔からサンに関連する本や資料は可能な限り集めており、この洋書もいつか読もうと思っていたのだった。しかし、その邦訳が10年以上も前の 2012年に出ていたことに、どうしてこれまで気が付かなかったのだろう。多分この邦題だけではアフリカに関するものだと思えなかったのだろう。それより迂闊なことに、"Boiling Energy" がヒーリング・ダンスについての本だということを今頃知ったのだった。
さて肝心の内容なのだが、サン(ブッシュマン)のヒーリング・ダンスについてここまで詳しく書かれたものは、他にないだろうと思う。実際、著者自身も「最初の包括的研究」と書いている。リチャード・カッツは 1968年9月〜11月の3カ月間、ボツワナ北西部、ナミビアと国境を接するドーべ地域に滞在し、そこのクン・ブッシュマン(現在はジュートワシと呼ばれる)の癒し手(ヒーラー)たちにインタビューを重ねた。そしてそれらに基づいて、彼らのヒーリング・ダンスに関して詳細に綴っている。
彼らのヒーリング・ダンスについて簡単に説明しておこう。それは通常、夕方から翌朝にかけて行われる。焚き火を囲んで女性たちが歌いながら手拍子を打ち、その外側を主に男たちが足踏み状のダンスをする。
「踊りが激しくなるにつれ、男女の癒し手ーーほとんどは踊っている男たちだがーーのうちにある「ヌム」という霊的なエネルギーが活性化される。体内にあるヌムが活性化されると、癒し手は「キア」という高次の意識状態に入る。」(P.60)
こうしてキアという変性意識状態に入った癒し手によって病人が治癒される。だが、ヒーリングの意味はそれだけに留まらない。最も重要な指摘は、次の一文に集約されている。
「クンの人々にとって、癒しは、単なる治療や医療をこえている。確かな健康をもたらし、身体的、精神的、社会的、霊的レベルの向上を目指すものだ。癒しは、個人、集団、周囲の環境、さらには宇宙の全体にかかわる行為なのである。」(P.60)
ヒーリング・ダンスはトランス・ダンスとは異なるものであるし、癒し手はいわゆるシャーマンではない。そのため、カッツによる説明を読んでも、彼らのヒーリング・ダンスがどのようなものであるのか把握しにくい(実際カッツも完全には理解できていないようだ)。キア状態になると激痛と恐怖を感じ、死ぬ危険性さえある一方で、ヒーリング・ダンスは単なる楽しみとしても行われるというのだから、なおさら分からなくなる。
それでも極めて貴重な研究であり、全体を通して興味深く読んだ。ただ、ヒーリング・ダンスを音楽として捉えた時の分析が少ないことが残念だった。具体的には、
(1)歌詞に関する説明が少ない。ヒーリング・ダンスの歌は基本的にヨーデル風のものであるが、その前段で言葉が重ねられる。その内容について触れられていないし、例えば「ゲムスボックの歌」「エランドの歌」などと称されることに理由があるなら、それも知りたかった。
(2)音楽学者でもあるカッツから見た音楽的分析がほとんどない。サンの音楽は2拍と3拍のヘミオラに特徴があり、ヒーリング・ダンスでもそれが顕著なので、そのあたりの解説が欲しかった(ヘミオラは2拍子と3拍子が絶えず入れ替わって聞こえるもので、例えば6拍子と8拍子がパラレルに進行するポリリズムとは異なる)。
この本はサンにとってのヒーリング・ダンスの意味を追求したものなので、もちろんそこまでは高望みであるとは分かっているのだが。また、そうしたことに関しては見落としもあるだろうから、現在再読中である(この本の内容に関しては後日もっと書いてみたいとも考えている)。
探してみると、リチャード・カッツには "Healing Makes Our Hearts Happy"(1997)という著作(共著)もあった。これは "Boiling Energy" のカラー・ビジュアル版といった雰囲気もする大型本だ。拾い読みしてみたのだが、歌詞などについてももっと触れているようだった。
『〈癒し〉のダンス』を読んでもうひとつ興味を抱いたのは、他のサンのヒーリング・ダンスとの共通点と相違点である。サンは言語的に、コエ語族、カー語族、トゥ語族の3つに分かれる。リチャード・カッツが調査したドーべのサンがカー語族なのに対して、私が最も関心を持っているのはボツワナのコエ語族の人々、中でも主に現在の中央カラハリ動物保護区(Central Kalahari Game Reserve)に暮らすサンたちだ。
そこで調べてみると、コエ語族について最も詳しく書いているのは、日本人研究者たちを除くとシルバーバウアーのようだ。ならばシルバーバウアーも読もうと思い、代表作 George B. Silberbauer "Hunter & Habitat in the Central Kalahari Desert"(1981)を買おうとしたのだが、、、、この本も自宅の書棚にあった。2009年に再販された時に買ったようなのだけれど、折り目が全くついていないので、どうやらそのまま放置してしまったようだ。反省。
ただ、リチャード・カッツにしてもシルバーバウアーにしても既に半世紀近い昔の研究であり、シルバーバウアーに対しては批判もあるようなので、まずは最新の研究を優先して読んでいるところである。
(最近入手したこれら2冊がとても有益だった。)
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(以下、余談)
リチャード・カッツ『〈癒し〉のダンス 「変容した意識」のフィールドワーク』は既に品切れで、古本も高い。それでも手元に持っておきたいと迷ったのだが、残念な日本語訳なので買うのは諦めて、図書館で借りた本を全ページ、スキャンして再読している。
(これは私だけかもしれないが)とにかく日本語訳を読むのに難儀して、通常の読書の倍くらい時間がかかった。適当に本を開いて、例をあげると、
「わたしは、目に見えない存在で、クンという素材をそのまま選ぶ、透明な乗り物だ、というわけにはいかない。」(P.27)
「ふつう、ライオンは、人間を襲うことはない。」「癒しは、癒し手が通常の自己を超越してキアに入り、じぶんのヌムを、病を治すのに使うから、可能になる。」「一方、ヌムのキアは明らかに、ほかと比べものにならないほど、重要なものと考えられている。」P.150/151
「「誰が誰の助けを求めるか」は、癒し手の力を判断する決め手となる、大事な指標の一つだ。」「物語をさらに印象的にするため、病気の重さ、死の危険だけでなく、回復した病人が喜んで贈ってくれた、素晴らしい贈り物について、語ることもある。」P.334/335
全てのページが、こんな調子で、全ての文節に読点を、打つ勢い。なので、読んでいても、リズムが生まれない。読点を打つにしても、場所が間違っている。そのために、修飾関係が掴みにくいのだ。最初の一文にしても、「選ぶ」で終わったと思ったら、まだ続いていて、「乗り物だ」で今度こそ終わり、と思ったらまだ続き、その都度ずっこけてしまう。
昨日の記事で、篠田謙一『人類の起源 古代DNAが語るホモ・サピエンスの「大いなる旅」』の日本語について苦言を書いたが、内容的にも文法的にも間違っていないだけでなく、読みやすい日本語、意味の通じやすい日本語になるよう、編集者や校正者には期待したいものだ(文章力のない私が言える立場ではないだろうけれど)。