2009年 12月 27日
Readings - Isabel Allende
・一見語り手は男(エステーバン・トゥルエバ)のようでありながら、実は主人公は女性である。これは著者が女性であるからなのかと思ったのだが、彼女の実体験(家族)をそのまま反映させたものらしい。
・子が生まれるとクラーラが親らとの同名を拒否する場面が何度か出てくる。これは同名が繰り返し重なる『百年の孤独』に対する軽いからかいかとも感じたのだが、きちんと意味をなしていることに後で気がつかされる。
・大変長大な小説ながら、すらすらと一気に読ませる力がある。この本も翻訳が優れているからなのだろうが、それ以上にこの作品が見事な傑作であるからなのだろう。
2009年 12月 26日
Readings
12/20 (Sun)
『歌の祭り』(J. M. G. ル・クレジオ)が進まない。関心の薄い中米が舞台のせいか(それよりも、この本が研究取りまとめ的な色彩が濃いからだとは思うが)。ラテンアメリカとの相性の悪さは文学にも通じているように思う。いったん諦めて『精霊たちの家』(イサベル・アジェンデ)を読む。
かつて実際に旅したメキシコ、キューバ、ブラジルでも、強盗に遭ったり、病に倒れたりとトラブルの連続。帰国してから日本を代表する熱帯病の専門医の診察を受けた際、「人間では初めてみた症例です」などと言われたこともあったなぁ。
12/21 (Mon)
Amazon に注文していたル・クレジオの4冊が届く。配達まで日数がかからないし、誰も手を触れていない奇麗な本が届けられる点も気分がいい。
12/25 (Fri)
またまた体調不良。今週も読書が全然進まず、身体が酒を受け付けない。
12/26 (Sat)
外の空気を吸えば幾分かは楽になるかと考え、ジュンク堂まで出かける。ちょうど出たばかりの『白い城』(オルハン・パムク、藤原書店)など3冊を購入。『白い城』を手にして最初に気がついたことは訳者が別の人物になっていること。恐らくこれは歓迎すべきことだろう。オルハン・パムクは『雪』『イスタンブール』『わたしの名は紅』と読んできたが、どれも和久井路子の訳が全然日本語になっていなくて、そのことに辟易し失望した。あとがきに、出版社が新しい訳者を探した経緯について短く書かれているが、多分これまでの和久井訳が相当不評だったのだろうと想像する。内容を拾い読みした限りでは普通に読みやすい日本語になっている。
改めて言うまでもないが、外国語の文章の場合、それがどう翻訳されるかはとても重要なことだ。今年自分の周辺で話題となった本にアラヴィンド・アディガ Aravind Adiga の "The White Tiger" がある。その日本語訳の『グローバリズム出づる処の殺人者より』、タイトルのセンスの悪さはさておくとして、知人の編集のプロに言わせると「日本語訳がすばらしい」とのこと。この本、ブッカー賞を獲得したことも大きいだろうが、翻訳が優れていることも評判を高める一助となっているのかもしれない(ただし自分は、英語版の方がずっと安いし、平易な英語で書かれているとも思ったので原書で読んだ。なので、実際和訳がどうなのかは確認していない)。
逆に、訳がこなれていなかったり、悪文だったりで、イライラさせられることも多い。『世界探険全史 〜道の発見者たち〜』(フェリペ・フェルナンデス・アルメスト、青土社)は上巻をかなり我慢して読み終えたものの、下巻に入った途端に止まってしまった。これも訳文が直訳すぎて文章が流れていかない一例なのではないかと思う。
ジュンク堂ではこの夏に買った後、知人に譲ってしまった『素数たちの孤独』(パオロ・ジョルダーノ、早川書房)も買い直す。読む方が追いつかないペースで本を買い続けている。しかし、その分だけこれからの楽しみが増えている。
2009年 12月 20日
遠きインド。
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この秋はフランス旅行なども模索した末にインド行きを決め、ムンバイ往復のチケットを予約した。しかし、キャンセル待ちとなってしまい、その状態が長く続いたこともあって、インド行きを断念。今年もインド出張の可能性があったし、依頼されていたインドの映画監督との共同作業も参加することができなくなった。昔インド出張を命じられた際にも印パ紛争が起こってインド入国ができなくなったこともあった。どうやら自分にとってインドは遠い国のようだ。
そうしたわけで、10月に台湾に行くなど、今年は毎月のように遠出しているので、まあ無理してまた外遊することもないかと迷った。しかし、チャンスがあれば日本の音環境を離れたいという願望も強く、最終的にインドネシア行きに決定。実はそれには、JAL のマイレージを使ってしまおうと考えたせいもある。以前よりマイレージはなるべく欧州便やアフリカ便で使うようにしていたが、例えばパリ便は半年先までビジネスクラスが全然取れそうにない(仕事に復帰する前に疲れに旅の疲れを残したくないのと、帰りの荷物が多いのとで、帰国便は極力ビジネスクラスを押さえるようにしている。やっぱりフルフラットシートは楽だ)。私と同様に「使ってしまおう」と考えている人が多いからなのかも知れない。それでもデンパサール便のビジネスは割合取りやすかった。
そのJAL 便の機内では観たい映画が何もなかったので、消去法で残ったインド人向けチャンネルで "Luck by Chance" を観る。そこで頭はインドに引き戻されることに。映画の出来自体は大したことがなかったのだが、助演女優?の Isha Sharvani に眼が釘づけ。わがままそうで小悪魔的な容姿に惹かれた。特に眼が魅力的だ(ちなみにこの映画、主役の2人よりも、脇役陣の方に魅力を感じる)。ちょっと調べてみると、彼女はダンサー出身のようだ。
そしてこの映画の中でのハイライトは、'Baware' のダンスシーン(例えばここ)。コンセプト、音楽、ダンス、衣装、配色、カメラワーク、エディティング、これら全てが完璧で楽しい。特に感心したのは、ちょうど3分のところで Isha Sharvani が突然現れる瞬間。何度観ても余りに見事すぎて、正にマジカルだ。インド、恐るべし!
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写真は最近インド土産にもらった、パキスタンの Abida Parveen のCD(今年リリースされた4枚組BOX)とインドの布。
2009年 12月 20日
ねこになる?
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「自然の音を思う存分浴びたい。」そう考えて、南海の島まで短期旅行(今回で10何回目になるのだろう?)。その願いが叶い、すでに帰国した今でも、心はかの地に置いてきたまま。なので、とうとう音楽を全く聴かない生活になってしまった。例外は、いろいろな方々から贈られる/送られて来るCDを時折聴くのと、先日招かれたライブだけ。現在は、音楽を必要としなくさせた、音に対する感性や考え方の変化を楽しんでいるところだ。
心を南国に置いてきてしまうと、そこでの音を身体の内に響き返すだけで幸せになってしまい、書きかけの文章をまとめる力も失せてしまう。そうしたわけで、本ブログも今年はそろそろ終了。結局何も書かないうちに終わることになりそうだ(まあ、2年や3年くらい何も書かなくても構わないことだろう、と思い続けていたのだが)。
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朝からゆったり酒を楽しみ、あとは温々微睡んでいることが一番の幸せだった1年だった。今度の正月も、写真の猫のようにのんびり眠って過ごしたい。
2009年 12月 19日
Readings - J.M.G. Le Clezio
12/17
『世界の調律 〜サウンドスケープとはなにか〜』(R.マリー・シェーファー、平凡社)読了。サウンドスケープ方面の本よりも、例えばミニマル・ミュージックやアンビエント・ミュージックに関連する本などをもっと読む必要を感じる。
12/18
明け方、『砂漠』(J. M. G. ル・クレジオ)読了。タイトルと世評だけに惹かれ、内容を全く知らぬに読んだ本。サハラ奥地の話かと思ったら、西サハラ〜モロッコからマルセイユへと話の舞台が移っていく(マルセイユとの関係は、個人的にはこれからも切れないのかも知れない)。とても密度の高い表現の連鎖にグイグイ引き込まれていく。文書から光景が浮かび上がり、瑞々しい音が聞こえてくる。とても映画的な小説だと思う。濃密な文体に打ち負かされるのが嫌で、また訳文に疑問も持ったために、少し急いで読んでしまったことを反省。じっくり再読したら印象が変わってくることだろう。
12/19
『アフリカのひと 父の肖像』(J. M. G. ル・クレジオ)読了。今度の舞台はカメルーン西部とナイジェリア東南部。父ラウルの、そして著者の幼少時の体験は、両者にとってその後様々な苛烈な苦しみの元となったことは間違いないだろうが、それでもそれに羨望を抱く。ライアル・ワトソンの『エレファントム』に描かれた、少年たちの自立キャンプ体験やコイサンとの邂逅にも共通するロスト・ワールドの美しさと悲しさも感じる。追憶的なところには父の記憶を綴ったオルハン・パムクの作品も思い浮かべた。
『歌の祭り』(J. M. G. ル・クレジオ)を読み始める。モーリシャス、アフリカ、中米、タイなどを歩き、そうした中からたくさんの著作を生み出していったル・クレジオに対する興味が止まない。未読作品をチェックし、ネットでオーダーする。