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■ホスィン・スラウイの音楽

 モロッコは古くよりベルベル人の土地であった。8世紀、そこに東方からイスラムが到来し、以降アラブ化が進んだ。その結果、ベルベルの音楽は地方アラビア語(方言)で歌われながら、様々なアラブ音楽から影響を受け続けることになる。20世紀に入っても諸外国の音楽が流入し続けるのだが、モロッコ音楽はとりわけエジプト音楽から大きな影響を受けて変化・発展していったのだった。

 そんなモロッコに生まれたホスィン・スラウイの心を最初に捉えたのは、サレの広場で繰り広げられていた大道芸の類。中でも吟遊詩人/門付芸人ルワイス rwais(単数形だとルワイェ rwaye)による歌芸だった。モロッコ各地で活動していた彼らは、詩人、社会批評家、コメディアンといった役割を兼ね備えていた。ルワイスの芸は、初期には一弦フィドルのラバーブ(リバーブ)を弾き語るライース rais を中心に少人数で演奏されるものだったらしい。後に三弦(または四弦)楽器ルタール l'outar (loutar) (ロタール、アムザとも呼ばれる)や、ベンディール/ダール状のハンドドラム(フレームドラム)も加わる編成になり、20世紀前半を通じて徐々に人気を高めていった。

(ちなみにこのルワイス、60年代以降はキャバレーなど観光客が集まる場所へと活動を移していったが、20世紀の終わり頃にはほぼ消え去り、今残っているのはマラケシュのジャマエルフナ広場などで演奏するグループくらいのようだ。)

 ホスィン・スラウイも最初はこうしたルワイスの模倣から出発したことは間違いない(スラウイの主楽器はウード=モロカン・リュートとされているが、彼の最も古いと思われる写真では、4人組の最左でロタールらしき楽器を抱えている)。その後に、当時発展著しかったエジプト音楽や近代ポップスの要素も取り入れていったのだろう。実際、エジプトの巨匠ムハンマド・アブデル・ワッハーブからは大きな影響を受けたと言われる。フランスに渡ってからも、同じマグレブのアルジェリアやチュニジアの音楽を吸収していった様子も思い浮かぶ。

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(Wikipedia より引用)


 そうしたことから、彼の音楽は晩年に至ってもベルベル的な大衆性を維持する一方で、同時にエジプト音楽色も濃い。その結果、アラブ的な楽器編成でありながら、アラブ=アンダルース音楽に見られる典雅さはさほど強くないという特徴を指摘できるだろう。大衆性と芸術性という2つの面を兼ね備えたところに、ホスィン・スラウイの音楽の魅力があるのだと思う。(対して、ゲンブリとカルカベによるトランス感強いグナワに通ずる部分は少なく、チャルメラ状のラッパの音が印象的な北部山岳の儀礼音楽ジャジューカからの影響もほとんど感じられない。)


 1948〜50年という短い期間になされた録音を聴くとき、まず耳を捉えるのは彼の歌声である。美声とは言いがたい、アクの強い歌声だ。しかし、独特な節回し、力の込め方、緩急の自在さ、伝わってくる感情、それら全てが素晴らしい。曲それぞれの歌詞の詳細までは分からないが、モロッコ社会のあらゆるテーマを取り上げており、日常の悲哀、社会的不正、愛と失恋、国民性などについて歌っているそうだ。第二次世界大戦時には、戦況に影響された社会変化を危惧して歌い、その曲は大ヒットしたという。

 そんな彼の歌を支える演奏は、自身が弾くウード(モロカン・リュート)、カーヌーン、さらにはダラブッカ、ベンディール、タールといった幾つかドラム類など、マグレブ音楽の楽器が中心だ。時折聴こえる金属的な音は、ナクース naqus(指先につける鉄製のカスタネット)だろうか。そこに男声/女声のコーラスが重なる。さらに曲によっては、ヴァイオリン、フルート、クラリネット、ピアノ、アコーディオンといった西洋の楽器も加わって、演奏のバリエーションの幅を広げていく。彼が初めてアラブ音楽に導入した西洋楽器も多いと言われ、こうした個性的な音楽は、フランスで多方面から刺激を受けながら探求した成果だと考えられる。

 彼の録音を聴いてもうひとつ注目すべきは、いかにも大道芸的な語り物を残していることだ。ダリジャ darija(口語アラビア語)のクセの強い発声、激しく上下する節回し、猛烈な早口、意味が分からなくても伝わってくるユーモラスさ、といった特徴をもっている。これこそがハルカなのだろう。モロッコ各地の広場には、昔からハルカ halqa と呼ばれるパフォーマンスを行う語り部たちがいた。彼らは地方の民話や自らの作り話を語って聞かせる存在で、虚実取り混ぜた大げさでユーモアたっぷりの語りは、大衆を大いに楽しませてきた。スラウイの語り物は、そのハルカの芸を継承したものである。

 死後も愛され続けるホスィン・スラウイは、「モロッコのトルバドール」「モロカン・シャアビの父」と崇められるばかりでなく、モハンマド・アブデル・ワッハーブ、サイード・ダルヴィッシュ、ムハメド・エル・アンカといった巨人たちと同列に語られることさえある(やや過大評価かとも思うが)。また、ピアノ、クラリネット、アコーディオンといった西洋楽器をモロッコ音楽に最初に取り入れたことも評価されている(モハンマド・アブデル・ワッハーブなどに先んじたとする資料もあったが、事実関係までは確認できなかった)。

 ホースィン・スラウイはこのようにして、ルワイス、ハルカなどモロッコの伝統芸を原点に、ヨーロッパやマグレブ諸国の要素を取り入れながら、彼独自の音楽スタイルを完成させ、後年の興隆する大衆音楽シャアビへの橋渡しという、大きな仕事を成し遂げたのだった。


(続く)








# by desertjazz | 2021-04-03 00:00 | 音 - Africa

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■ホスィン・スラウイの生涯

 ここ10年間調べた限り、ホスィン・スラウイに関する日本語文献は皆無。英語によるものも非常に少ない。例えば、あの重厚なラフガイド "The Rough Guide to World Music - Africa & Middle East" の最新版(2006年の第3版)でさえ短く(P.255 におよそ1行のみ)記載しているだけと、実に素っ気ない。彼に関する記述をネットで探索してみても、少ないばかりか、明らかな誤記や相矛盾する記述が散見する。

 そのような訳で、ホスィン・スラウイについては本当に分からないことばかりだ。経歴についても判明したことは少ないが、読むことのできたいくつかの仏語文献やアラビア語記事の情報を整理しつつ、まずは彼の生涯を辿ってみよう。


 ホスィン・スラウイ Houcine Slaoui(Hocine Slaoui)の本名は Houcine Ben Bouchaïb。1921年にモロッコの王都ラバトの隣町サレ Salé で生まれ、1951年4月16日に30歳ほどという若さで、同じくサレで亡くなっている。「スラウイ」という後年の呼称(芸名?)は、この生地「サレ」が転じたものだという。

*Houcine ではなくHocine と綴られることも多く、フランスで発売されたレコードのほとんども Hocine と綴られている(初期のSPには Houssine と、モロッコで発行された記念切手では Houssaine と綴られたこともある)。一方で現在モロッコでは、Houcine と綴ることが普通のようだ。Houcine にせよ Hocine にせよ、元々アラビア語の発音をフランス語表記に置き換えたものだろうから、どちらが正しいとは言い切れないと思う。

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*Houcine の発音は、モロッコでは「ホスィン」「ホシン」「フスィン」に近いようだが、フランス語だと「フーセィン」といったようにも聞こえる。SP盤の冒頭に録音されたクレジットはどれも「フスィン」「フーセィン」などに近い。ローマ字表記が [ou] であることも含めて考えると、「フスィン」の方が整合性の取れているようにも思える。しかし、いくつか見たモロッコ制作のビデオでは、ナレーションもインタビューの誰もが「ホスィン」(稀に「ホゥスィン」)と発音しており、2012年にフェズで行った現地聞き取り調査でも「ホスィン」に近い「ハスィン」だと教わった。よって、日本語表記はモロッコで馴染まれているらしい「ホスィン」とすることにした。

*生年を1918年(や1920年)とするものもあったが、これは誤りだろう。細かい理由まで書かないが、1921年生まれと判断してまず間違いないと思われる。


 幼くして父と兄を失った少年ホスィンは、母と6人の姉妹を支える立場に置かれた。だが、彼は早くから音楽に目覚め、コーラン学校に通ってイスラムの教えを学ぶことよりも、サレの広場で演じられる音楽や大道芸の方に夢中になった(それらの中でも、後述する「ハルカ」という大道芸から多くを吸収し、Boujemâa Farrouj と Moulay al Bouih という2人から多大な影響を受けたと伝えられる)。そのため母親はずいぶん気を揉まされたとか、自転車のブレーキワイヤーを使った手作りの弦楽器を演奏していた、といった逸話も残されている。

 そんなホスィンは、12歳の時に母の苦言に耐えかねて家を飛び出す。そして、ハルカの演者として生きる道を選び、トルバドール(吟遊詩人)のような生活を始める。この12歳という時分には、ハルカ・グループの一員としての野外でのパフォーマンスですでに注目を浴びるなど、地元ではずいぶん早くからその存在が噂になっていたらしい。

 その後、カサブランカでしばらく生活し、(一説によると)14歳頃にはウードを携えてパリに移り住む(皮なめし職人の見習いとして生計を立てていたという話もある)。このパリで1937年夏に万国博覧会が開催されたのだが、北アフリカ文化を紹介する一例としてハルカのグループがパフォーマンスを行った。その中の一人が若きホスィン・スラウイだった。「メロディアスな声とムラートの顔色」を持つ彼は評判を呼び、即座にレコーディング契約を申し込まれたほどだったという。

 さらに、20歳からは作詞と作曲も始め、音楽活動をより本格化させる。だが、第2次世界大戦が拡大・激化したため、モロッコに一度帰国することに。そして、その戦争でパリが解放された 44年に再び渡仏。ここでパテ・マルコーニ Pathé Marconi と契約を結び、レコーディングを重ねたのだった(1948〜50年の3年間)。

*ただし、14歳でパリに移住したというのは、どうも怪しい。パリに渡ったのは 42年頃で、それはあるフランス人ピアニストからの助けを得られてのことだったとも言われる。また、ホスィンの息子ムハンマド・スラウイは「1941年にモロッコで初録音、42年に初めて渡仏、一時帰国中に3曲目を録音し、44年に再びパリに渡った」と、最近のインタビューで答えている。なので、最初のフランス行きに関しては、こちらが正しい可能性もある。果たして実際はどうだったのだろう?(14歳で海を渡ったとするのは早すぎるで、様々な話が混じり合っているように思える。パリ万博の時に注目されたとしても、それはモロッコでの関連イベントの時だったとは考えられないだろうか?)

 (参考)https://aljadidnews.ma/archives/2020/05/10876/?fbclid=IwAR09DUGnR7XoIIWKAUytZGB7uPZzzZcRFYNQg2NjgqP1-lZw6jiovM8bv3g

*初録音は22歳の時であり、44年に発売した “Zine ou Layn Zarqa” が大ヒットしたと書いているものもある。同じ44年には彼の最高曲 "El Maricane" を録音したという記述もあった。なので、仏パテ時代以前にもレコーディングを行っていたようなのだが、確認には至らなかった。


 一方、レコーディング・スタジオの向かいにあったキャバレー Cabaret d'Alger を拠点にライブ活動も行なった。パリ時代、こうした場においてヨーロッパの音楽を吸収し、エジプト、アルジェリア、チュニジアなどの音楽家たちとも交流を重ねて、スラウイ流のシャアビを確立していったのだろう。中でもチュニジア人の Mohammed Jemmoussi (1910-1982) やアルジェリア人の Missoum といった音楽家たちと親交を深めたという。

 このように彼の音楽は、ライブ演奏によってパリに暮らすマグレブの人々に親しまれ、録音作品を通じてマグレブ諸国に広く行き渡った。そして、人々から愛され、やがて彼は「シャアビの父」とまで呼ばれるようになったのだった。

 しかし、1951年、謎の病に侵されたスラウイはモロッコに帰国。国王ムハンマド5世からの経済的援助も虚しく、故郷のサレで亡くなった。中毒死や自殺だったとする説もあるが、死因は謎。毒殺説が根強く、彼が大成功したことへの嫉妬が死をもたらしたとも囁かれた。


 ホスィン・スラウイはわずか30数曲の録音だけを残し、30歳(あるいは 29歳)という若さで世を去った。彼の写真を探したのだが、見つけられたのは3枚ほど。実際その程度しか現存していないのかもしれない。シャアビという大衆音楽のスタイルの開拓者、数少ない録音とポートレイト、そして謎の早逝も含めて、ホスィン・スラウイはまるでロバート・ジョンソンを連想させるミュージシャンだ。



(*「後述する」と書いた「ハルカ」については、次回解説します。)


(続く)








# by desertjazz | 2021-04-02 00:00 | 音 - Africa

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■生誕100周年を迎えた「モロカン・シャアビの父」

「大衆音楽の父」「モロカン・シャアビの父」として崇められ、その音楽がモロッコの人々から長年愛され続けてきたホスィン・スラウイ(フスィン・スラウイ)が、今年2021年、生誕から100年(そして、4月16日で没後70年)になる。私にとって彼の音楽は、2010年代に出会い聴いた中で最大の衝撃のひとつだった。そこで、日本ではほとんど知られていない、この素晴らしい音楽家について紹介していこう。


(*)chaabi:モロッコ(そしてアルジェリア)において、chaabi は「大衆」を意味し、それが転じて「大衆音楽」全般を指す呼称となっている。


***


■「モロカン・シャアビの父」ホスィン・スラウイとの出会い

 私がモロッコを初めて訪れたのは、今からおよそ 10年前の 2010年11月。長年の念願が叶ってのことだった。それまで世界各地を旅した時と同様、この旅の最中にも現地の音源を探し歩いた。そのようにして聴いたものの中で断然良かったのは、マラケシュで見つけたある CD だった。精悍な男性の顔をジャケットにしたアルバムで、独特なメロディーも、力強い歌声も、マグレブの楽器を主体とした演奏も、これまでに聴いた記憶のないもの。音楽の発する魅力に一発で引き込まれてしまい、この新鮮な出会いにただただ驚くばかりだった。

 音を聴く限り、これがマグレブ音楽の古い録音だということは推測できる。しかし、アラビア文字表記のみのため、アーティスト名も曲名も全く読めない。マグレブ音楽に詳しい周囲の友人たちに訊いても「こんな歌手は知らない」と言われるばかり。その一方で、帰国後繰り返し聴いても全然飽きず、ますます虜になっていく。

 どうにかしてこの謎の歌手について知りたい。そんな思いを抱きながら、2012年10月に再びモロッコへ。そして、マルセイユからフェズへと飛んだモロッコ再訪の初日に、謎はあっさり解けた。投宿したリヤドの近くに見つけた中古レコード店の親父さんに尋ねると、男の名前は「ホスィン・スラウイ」、「モロッコの歌手だ」と答えが返ってきたのだった。

 これをきっかけに、手元の音楽資料をひもとき、インターネットを活用しながら、ホスィン・スラウイに関して調べ始めた。すると、その多くに「モロッコ最初の大スター」「シャアビの父」などと書かれているではないか。ご存知の通り、シャアビは大衆性の強い、モロッコの人々にとっての国民的歌謡。どうやら偶然にもとんでもない大音楽家と巡り会ってしまったようだ。しかし、彼について書かれたものは驚くほど少ない。モロッコ国外で CD 復刻された様子もない。謎は再び膨らんでいく。

 それでも稀に出品される SP盤などをコツコツ買い集め、ネットで見つけたフランス語やアラビア語の文献を読み解くうちに、ホスィン・スラウイの実像が徐々に浮かび上がってきたのだった。


(続く)


※ 2012年にモロッコを旅行中、ニシムラヤスヒロ氏から連絡をいただき、ホスィン・スラウイのローマ字表記と Wikipedia の記事についてご教示いただきました。私がここまで調べることができたのは、ニシムラさんが最初に突破口を開いて下さったおかげです。改めて感謝申し上げます。








# by desertjazz | 2021-04-01 00:00 | 音 - Africa

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 個人的には、アフリカ音楽の中でも、70年代から80年代初頭にかけてのセネガル黄金時代に特に興味を持っている。この時代の音楽についてもっと知りたいと思い、先日紹介した Gëstu de Dakar "Diabar" のリマスター盤を買ってみた。レコードに封入されている4ページの解説に惹かれて。

 今回リマスタリングされた音は、当然ながらオリジナル盤の音には敵わない。そもそも何十年も昔の録音だと、マスターテープの劣化が進んでいて、一般的にリマスターには限度がある。そのことは、ジャズであろうとロックであろうと、ジャンルを問わず変わらないことは言うまでもない。しかし、この名盤が初めてリイシューされたこと自体はとても喜ばしい。

 このアルバム、改めて聴いてみると、アフロキューバン的な曲と、プレ・ンバラ的な曲が混在していて、良い意味で時代を感じさせる。70年代後半から80年代初頭にかけてのセネガルと言うと、Orchestra Baobab、Star Number One、Etoile de Dakar といった名前が真っ先にあがる。だが、このブログで再三取り上げている Le Sahel("Bamba" は 70年代の最重要作品のひとつ)や Guelewear や、この stu de Dakar も個人的には重要視している大好きなバンドたちだ。"Diabar" も、ラテン風なサウンドからンバラへの橋渡しとなっているところが魅力だろう。

 さて、お目当の解説書。期待した通りの内容で、買って正解だった。まず珍しい写真が大判で掲載されている。そしてライナーノートには貴重な情報がいくつも(贅沢を言えば、もっとたっぷり長いものを読みたいのだけれど)。以下、いくつかメモしておこう。

(この解説、フランス語でしか書かれておらず、一瞬困ったのだが、印刷されているQRコードを読み取ると、Syllart 公式サイトの中の英語版ライナーのページを開くことができる。)

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・Gëstu de Dakar は、ダカールの Gibraltar 近郊で、20代の若者たちにより結成されたオーケストラ。リーダーは Ass El Haji Malick Diouf。Gëstu はウォロフ語で「精神的な内省」(spiritual introspection)を意味し、彼らの哲学的野心を表明している。

・結成は 1980年。当初はダカールの Palladium のような小さなクラブ、コロバンのナイトクラブ、チエスの Gorome といった場所でプレイしていた。そして、バオバブのバルテレミ・アティッソの目に留まる。(・・・それで LP の裏にバオバブへの謝辞が書かれているのだな。)

・アルバムがレコーディングされたのは、サンゴール大統領の息子フランシスが 1978年に設立したスタジオ Golden Baobab(または Keur Francis)。このスタジオでは 16トラック・レコーディングが可能で、80年にはセネガル音楽の重要拠点になっていた。

・プロデューサーは 23歳のイブラヒマ・シラ。彼はフランシスとハイスクール時代に知り合い、親友、そして音楽制作のパートナーになった。イブラヒマはパリ留学から帰国し、Baobab や Ouza のアルバム制作を成功させたところだった。そのイブラヒマに Gëstu de Dakar が積極的に働きかけた。

・1981年に行われたレコーディングにおいて、サウンド・エンジニアの助言もあって、バンド編成を拡張。ウォロフとセレレで歌われる一方、メンバーにはソニンケ人やペウル人もいるという、他民族バンド。(・・・いかにもセネガルらしい。)

・タムタムはまだ使われておらず、ドラム、ティンバレス、トゥンバにキューバ音楽からの影響が色濃い。

・1981年にアルバムがリリースされ、クラブ Niney でバオバブの前座を勤めることでファンを獲得。しかし、アルバムはさほど売れなかったようだ。(・・・実際、決定的なキラーチューンはなく、他の有名バンドに比べて優れたシンガーがいなかったことが弱みか?)

・アルバム・カバーをデザインしたイブラヒマ・シラの友人 Djibathen Smabou についても触れられている(先日の記事で書き忘れたが、Syllart のレーベルのロゴ・マークをデザインしたのも彼だ)。このジャケット画、ちょっとおどろおどろしい印象の白黒画なのだが、そこにはある強い意味が込められたいた(興味のある方はライナーをご一読ください)。そのために、宗教界から反感を買い、ラジオでのオンエアも拒否されたらしい。

・これだけのバンドがアルバム1枚しか残せなかったのが疑問だったのだが、ヴォーカルの弱さや、ジャケ画への反感も影響したのだろう。その結果、メンバーたちは離散するものの、それぞれ Baobab、Ouza、Kine Lam、Super Diamono、Ismael Lo、Thione Seck などのグループに移籍したり、ヨーロッパに活動拠点を移したり。(・・・まあ、それだけ皆、実力があったということなのだろう。)


 このように活動期間がとても短かった Gëstu de Dakar。しかしそれでも、彼らの唯一のアルバム "Diabar" もまた、セネガル音楽のベルエポックを記録した1枚だと思う。






# by desertjazz | 2021-03-28 10:00 | 音 - Africa

映画:『春江水暖』、『そして俺は、ここにいない。』_d0010432_22153791.jpg


 話題の中国映画『春江水暖~しゅんこうすいだん』を Bunkamura で終了間際(残り3日)にようやく観てきた。確かに「傑作」と賞賛されるだけのことはある。

 http://www.moviola.jp/shunkosuidan/

 開発が進む現代中国。風景が変わっていくことと、その中で暮らす家族の関係性がテーマなのだろう。そのストーリーにはドラマ的なありきたりなものを感じたが、それでも(それゆえに)感じさせるものがあった。自身、80年代、90年代に、都合7ヶ月旅した国なので、スクリーンのくすんだ景色を眺めながら、心の中でひたすら「懐かしい」とつぶやいていた(杭州には行ったことないが)。

 映像的には独特な美しさが感じられる。そして、遠目かつ超長回しが特徴。やりすぎ感満載なのだが、ファースト・カットからどれだけ計算しているのか。デート・シーンはそのハイライトだろう。音も秀逸で、SE の選択、音楽の入り方が実にいい。特にアンビエントな音楽が素晴らしい。調べてみるとドウ・ウェイ(フェイ・ウォンの元旦那)だった。なるほど。

 俳優たちの演技が実に自然だと思ったら、本職を演じていたり、夫婦や親子が実際その通りの関係だったり。アジアの家族映画としては、最近では『万引き家族』や『パラサイト』の評価が高いが、個人的には『春江水暖』に惹かれるな。

 それにしても、グーシーちゃん、可愛かった。

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 先日観た Netflix の "I'm No Longer Here"『そして俺は、ここにいない。』は、一時期メキシコでクンビアが流行した実話(知らなかった)に基づいた映画。ダサいんだけれど、切ない。なかなか興味深い作品だった。

 https://www.netflix.com/jp/title/81025595?trkid=13747225&s=i&t=twt

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# by desertjazz | 2021-03-26 22:00 | 美 - Art/Museum
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